第33話 どうして素直じゃないの
修学旅行は、もちろん、最高に楽しかった。
二日目はみんなで清水寺と伏見稲荷大社を満喫できたし、お昼に食べた海鮮も、特にエビがおいしかった。大盛りの海鮮丼を食べきれなかった夏目の分まで、代わりにぺろりと平らげた。
そのあとの、ゆずるとの金閣寺巡りも、旅館のお部屋も、三日目の着物の着付け体験も、ずっと、ずっっっっっと楽しかった。
――ただ、やり切れなかったことが一つ。
ゆずるに、この高ぶる感情が伝わらなかったことが、心残りだ。
あなたの目の前で勇気を振り絞って「好き」と伝えたのに、彼は正直じゃないのか、アイスのことを好きと言ったのだろうと解釈した。
ゆずるの家に初めてお呼ばれして、体を労わってもらって、素晴らしい芸術を見せてもらったあの日からは、あなたのことがずっと気になっていて、その気持ちは、バイトのリョウ先輩以上だったのに……
彼には、素直に一から十まで正確に説明しないと、気が付いてもらえないのだろうか。分かってもらえないのだろうか。
――そんな気持ちを引きずったまま、三年生になってしまった。
――来栖とは同じクラスになれたのだが、ゆずると夏目とは、別クラスになってしまった。
****
三年生となれば、受験という壁が待ち構えている。大学に進学したいならば、これを乗り越えなくてはならなかった。
私は、人文系の学科がある大学に進学に進学したいと思っている。もともとは理科系や数学系の教科が得意で、そちらの方面に進学するつもりだった。
しかし、ゆずるが、私の認識を変えてくれたおかげで、本当に学びたいものが見えてきたのだ。
得意なのは、理数系の教科。でも、学びたいと思えるのは、英語や文化、外国文学とか、あるいは社会についてだと、気が付いたのだ。私、くるみは、学びたいことを学びたいと強く願っているのだった。
ただ、この希望は、母の意向によって、揺らいでいる。
****
「ダメよ。だって、文系科目の点数、低いじゃない」
母は、声を高くして言った。
一学期末のテストの点数を母に報告すると同時に、人文系の大学に進学したいと、心の内を打ち明けた。
……叩かれてもいい。殴られてもいい。自分がやりたいこと、学びたいことのためならば、必要な犠牲だと、必要な痛みだと思っている。
――友達がいなくて、独りで、いじめられていたあの日々よりは、マシだ。
「確かに、私は理数系の科目の点数が高いよ。数学は87点、化学は81点、物理は89点だもんね。お母さんが勧めてくれた、薬学部っていうのが、私には合ってるとも思うよ」
面と向かって、机を隔てて、母と話す自分の顔は、いつになく真剣で、同時に晴れやかだったと思う。
最近は、父にお金を出してもらって、塾にまで通い始めた。もちろん、母の意向の通り、薬学部に進学するための理数系科目を中心に勉強している。
けれど、本当に学びたいのは、そこに無いと、気が付いてしまったのだ。もちろん、これまでの方針や行動を否定することになるから、母が声を高くするのも、理解できる。
「でも、理数系は得意科目ってだけだった。本当に学びたいのは、英語とか、文化とか、社会とか、福祉とか、理数系とは違う分野だったって、最近、気が付いたの」
母は静かだった。けれど、その黒い瞳の奥には、鬼を飼っている。
その熱を帯び始めた鬼気に
「今からでも、志望校を変えるのは、遅くはないでしょ。私の勉強の出来具合で、いくらでも変えられるでしょ」
だから、どうか、
あとは、必死の勉強あるのみだから。
「くるみ」
「はい……」
母が開口して、発した低い声に、小さく返事をした。
「お母さんの気持ちが、あなたには分からないの?」
足を交差させて組んで、静かなる怒りを隠している母。手の指がテーブルをたたいて、コンコンと音を立てている。
その音が心臓の鼓動と重なって、胸がきゅっと痛んだ。縄で締め付けられるような腹痛があって、背中に冷たい汗がちょっと涌いて出た。
母は、怒りを体の内側に閉じ込めたまま、落ち着いた口調で続けた。
「わたしは、心配なの。だって、くるみの得意分野は、数学とか理科でしょう?」
「うん」
諭すような、静かなる母の声に耳を傾ける。気持ちは、緊張しているが、どこか落ち着きもあった。
「もし、得意分野じゃないところに入ったとして、講義についていけるか不安なのよ。だって、大学は人生の通過点に過ぎない。そのあとの就職とか、結婚とか、そっちのほうに繋げることが大切じゃない?」
「うん……うん」
頷きながら、理解を示して聞いている。
母の言う、大学は人生の通過点というのは、納得できる考え方だった。大学で学んだ後の就職とか、結婚とかを考えると、自分に合った、より格の高く、学びのあるところへ進学するべきであると、くるみも思う。
――でも、だからこそ、自分が本当に学びたいことが学べる大学を目指すべきではないかと思う。
もし、理数系の科目が充実した大学に入ったとする。
母は、それで喜ぶかもしれないが、自分の興味関心や、勉強への意欲が続く気がしなかった。だったら、得意ではなくとも、興味がある分野に長けた大学に入ったほうが、勉強し続けられるのではないかと、思う。
「でも、興味が無いことを勉強し続けられる自信、ないよ。だから、お母さん言ってたじゃん、『学ぶことがいっちばん大事』って、何回も。興味があるところに進学したほうが、学び続けるっていう面においては、いいことだと思う」
「だから、わたしの気持ちは?」
「え……」
「薬剤師、知ってるでしょう?給料も良くて、社会的な立場で言えば、高いところにあるのよ。【いい人】だって、社会的な格式が高い人に惹かれるでしょう?」
「別に、私は、社会的格式が高くなくても、いいよ。【いい人】だって、いくらでも見つけられる。平凡に働いて、平凡に落ち着いて暮らせれば、それでいい」
母の意見に、真っ向から反対する立場が、隠していたところから出てきてしまった。母は、眉間にシワを寄せて、難しい顔をしている。母の持前であった、若々しい感じが今は無くって、面影も消えていた。
【いい人】は、いくらでもいる。
たとえば、ゆずるとか、バイト先のリョウ先輩、親友の夏目、仲良しの来栖に、クラス担任の先生だって、【いい人】だ。
平凡でいい。偉くなくっていい。そう教えてくれたのは、ゆずるの存在が大きい。ゆずるだけではないかもしれない、来栖や、夏目、リョウ先輩も、先生たちも、みんなが、私に「平凡」の落ち着いた感触を教えてくれた。
七瀬家は、客観的に見ると、社会的地位が高い家である。
家は、知り合いの誰よりも広くて、両親がそれぞれ、銀行勤めと大学研究員。祖父が中ぐらいの会社の社長の家なんて、聞いたことがない。
だからこそ、「平凡」の味を知らないまま育ってしまって、感覚も常識もズレていたのだ。……今は、その味を知っている。
「分かった。くるみ、手、出しなさい」
「え……」
パシっ!
母は、私の手のひらを強めに叩いた。母に叩かれるのは、中三以来か。
「あなたが理数系の大学に通うって言うなら、支えてあげる。ただ、もし、それ以外の大学に通いたいって希望するなら、通学費とか、入学料とか、授業料とか……全部自分で払ってよね」
「え……お母さん、待って……」
「無駄話してる暇あったら、苦手な分野の勉強でもしたら」
母に、突き放されたような感じだった。
母は、黙ったまま、役所に提出するための書類の整理を始めてしまった。
私は、母に言われた通り、部屋に向かい、歴史と政治経済のワークを開いた。でも、ペンは進まなかった。教科書のページの紙が、ありえないが、重く感じてしまった。
――本当に、望む道に進んでいいのだろうか。
その答えは、未来の自分だけがが知っている。
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