第34話 何かが崩れる音がした

 真っ暗な部屋の中、目が覚める。その瞬間、カーテンから覗く月明りを期待したけれど、窓を打つ雨音によって、それは裏切られてしまった。



 ぐっすり眠っていたはずなのに、夜中に目を覚ましてしまう。部屋の静かさと寒さを自覚して、寂しさがこみ上げてくる。そして、耐え切れなくなった涙腺のダムは決壊して、涙の氾濫によって枕をびしょびしょに濡らしているということが、何度もあった。


 最近は、そんなことがよくある。



 例に漏れず、今日も、そんな感じだった。



 ベッドから起き上がると、背中が汗でぐっしょりと濡れていたことに気が付く。




――将来への不安の重荷に、耐えられない。




「……水」



 声はかすれていた。部屋が乾燥していたからか、喉が、内側に縫い針を刺されたかのようなズキズキとした痛みを訴えている。



 水……冷たい水道水でいいから、飲みたいと思って、部屋のドアノブに手をかけた。

 

「だって、勉強は何より大事って、あなたが一番分かっているんじゃないの!?」



 ドアの隙間から、階下のリビングの暖色系の明かりと、母の声が漏れていた。母は、声を高くして、誰かと言い争っている様子だった。



 興奮して高くなった母の声とは対照的な、落ち着いていて低い声が、次いで聞こえた。



――これは、父の声だ。


「勉強は、確かに大事だよ。ただ、くるみの進路を考えるという話と、それとは、また少し違ってくる」



 ドアに耳を擦り付けて、両親の話を聞いていた。どうやら、自分の進路に関して話をしているようだと、くるみは気が付いた。



 正直、自分についての話で両親が言い争っている声なんて、聴きたくはなかった。それでなくとも、今、将来へのおぼろげな不安に苛まれて、目を覚まして、泣いていたというのに。



 けれど、気になってしまう。


 私は、いったい母と父にどのように思われていて、私に何を望んでいるのか。それが気になって、どうしても、ドアから離れることも、水を取りに行くこともできなかった。



 父は、「いいかい?」と、母を諭すような落ち着いた声を続けた。


「自分の達せなかったところに、娘を連れていきたい。それって、くるみの望む進路じゃなくって、君の考えの押し付けじゃないか。君の、エゴなんだよ、ノノミ」



 話の末尾に、母の名前を呼んだ。



 そういえば、お母さんの【野々実ノノミ】という名前と、私の【胡桃くるみ】という名前は、音の感じが似ているなと、くるみは思った。



 あえて似た音を当てたと考えると、やっぱり、くるみという人間は、母ノノミ自身の願いを込めた人形の意味が強いのかと、ちょっと勘ぐってしまった。




――私は、母の願いを叶えるために生まれてきたのだろうか。





「親は、子供の幸せを願うものでしょう!?それは、あなたも私も、同じことでしょう!!」

「だったら尚更だ。くるみの幸せを願うなら、彼女の希望を尊重して、支える立場に徹するんだよ!ボクたちは!」



 舌戦の声が荒くなって、激しさを増した。テーブルをドンっと手で叩いたような音は、おそらく、母が立てた音だろう。その音がドア越しに伝わってきて、体がびくっと驚いて、恐怖と不安から震えた。



 母は、薬学関係ないし、理数系の学科がある大学への進学を望んでいる。


 一方、くるみはそうではなくて、人文系の学科を有する大学に興味があり、父は、くるみの希望を尊重し、母の意見に真っ向から反対する立場をとっている。



……くるみという人間を中心に、家族が揺れていて、絆に亀裂が走っていた。



「もう、勝手にすれば!!」



 母の一段と強まった声が、リビングを通り抜けて、くるみの部屋のドアにまで大きく響いた。



 それは、自分に言ったのか、それとも、父に言い捨てるように言ったのか、分からないぐらいに、冷たく、しかし怒りが煮える言葉だった。



『勝手にすれば』


 母の言葉が、いつまでも頭を離れてくれない。気持ちがきゅっと締め付けられて、辛くなって、ベッドの布団に潜り込むのだけれど、耳元で残響を奏でているようで、いつまでも聞こえてくるような幻聴がした。



『勝手にすれば』



 それは、私に対して言いたかった言葉なんじゃないかって、思えてきた。



「それはあんまりな言いようだ……投げやりっていうんだっけ、そういうの。ボクもくるみも、家族じゃないか……それを、『勝手にすれば』なんて、酷いよ」



 家族……?父が発したその言葉が、次いでくるみの思考を上塗りにした。



 父も私も、それに母も、【家族】。七瀬家の大切なメンバーである。父の言葉には、そんな意味合いが含まれていたと思う。



 母が過去に連呼していた、「くるみは奇跡の子」とか、「くるみは優れた子」とかの言葉よりも、よっぽど説得力があって、納得感があって、同時に、包み込まれるような包容力と温かさがある言葉だった。



 母も父も、くるみという我が娘を大切に思ってくれているのは、重々承知だった。


 


 けれど、言葉一つで、こんなに温かさが違うんだと、父の言葉に思い知らされた。


「僕は、わが娘であるくるみを死ぬまで支えるつもりだ!その考えは、曲がらないよ」


 父の声が、ちょっと明るきなった。しばらくの間を設けて、「あ、あと……」と付け足した。




「もちろん、一人の夫として、君の幸せすら願っているんだよ、ノノミ……」



――私は、父のその言葉を聞いた瞬間、いや、もっと前から、ボロボロと涙を流していた。




「くるみのお弁当作ります。あなたは、洗い物だけやっておいてちょうだい」



 そんな父に、母は、素っ気ない感じに言った。台所の足元の収納からフライパンを取り出したらしく、金属と金属がぶつかる音が聞こえた。


「ふん。素直じゃないなぁ」



 それ以来、父と母の会話はすっかり途絶えてしまった。時々、「にんじん取って」と言う母の声や、父の「油ものはこっちおいておいて」という、家事のうえの業務的なやり取りが度々聞こえるのみとなった。



 水を取りに行くのを諦めて、ベッドにまた潜りこんだ。




 枕を顔に押し当てて、暗い部屋の中で、一人、いろいろと考えてしまう。





――私が死んだら、将来の話で二人が争うこともなくなるかな。




――たとえば、私が勝手に一人で遠くに引っ越したりしたら、二人は悲しむかな。



 そうして、無意識のうちに、道具入れの木のトレーの中のカッターナイフに手が伸びる。何度も、何度も、手首を切りつけると、なぜか心が落ち着いていく。


 テーブルが、血の赤に染まっていた。




 冷静になった頭が「掃除しないと」と思って、乾いた台ふきんを手に取らせていた。




 白い台ふきんは、真っ赤に染まっていた。暗がりでも、それがよくわかった。




 よかった、今が冬で。長袖を着ていても、暑くない。

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