第20話 ご注文はパスタですか
冬の寒空の下、壁掛けの時計の針は午前の10時半を示している。
七瀬宅に招かれた。
今日は日曜日。つまり、文化祭の翌日である。
部屋に敷かれたカーペットの上にべったりと座って、七瀬と隣り合って、テレビゲームをしている。ちなみに、ゲーム機本体とソフトは、七瀬の父の趣味で保管されていたものである。七瀬のお父さんは、ゲーム好きなようだ。
あまりゲームが得意でない七瀬を隣で手助けしながら、ゲーム内のコースを順調にクリアしていく。
「マジでナイス~」とか言って盛り上がり、七瀬は楽しそうにコントローラーを握って、ボタンをポチポチ言わせている。
2時間ほどゲームで遊んだ時に、ぐうと、腹の虫が鳴いた。七瀬には聞こえなかったようだ。壁に掛かった青色の時計を仰ぎ見て、ちょうど正午のお昼時だと気が付いた。
ゲーム機本体の電源をスライドさせた、ガチャンという乾燥した音と共に、ドアのノック音がコンコンと重なった。
七瀬は、隣にいて「はーい」と、ドアの向こうにいる存在に返事を飛ばした。
ということは、ドアをノックした人物は、七瀬の父か母ということだ。きょうだいがいるという話を聞いたことがなかったから、そう予想できる。
ちょっとドキドキする。どうやってあいさつしようか、自分をどのように紹介しようか、いろいろと考えていると、ドアがゆっくりと開いた。
「くるみ?入っていい?」
女性っぽい声が、ドア越しに聞こえてくる。どうやら、七瀬の母が部屋を訪ねてきたようだ。
唇が、妙な緊張から乾燥した。渇きを自覚して、喉がヒューと鳴る。
七瀬の母に対面することは、初めてだ。いつもは金曜の夕方に家に招かれるので、その時は七瀬母の勤務時間と被っていて、廊下でばったりと顔を合わせることもなかったのだ。
そして、中学時代に七瀬が語った母の様子を思い出して、さらに手に汗を握る思いだ。
『私のお母さんは、厳しくってね、テストの点数が悪いと、こうやって叩かれちゃうの』と、明るく語っていた中学生の七瀬の顔に刻まれた、赤っぽいアザが思い出された。
「お邪魔しますね~」
七瀬母は、ゆっくりと部屋のドアを開けて、ついに顔を覗かせた。
目が合って、「あっ」という声が口元から放たれた。こちらが頭を下げて会釈をすると、七瀬母もそれに倣ったように軽い会釈で返してくれた。
「お、お邪魔させてもらってます……
七瀬母は、ニコッと微笑んだ。
「ああ、あなたがゆずるくんね!いつもお菓子持ってきてくれて、ありがとうね。先週のチョコもおいしかったわ」
「いえいえ……」
どうやら、毎回七瀬の家に遊びに行く度に手土産として買うお菓子を、七瀬母も食べてくれているらしかった。
立ち姿は、ゆずると同じぐらいの背丈である。黒淵の眼鏡を掛けた黒髪の女性で、若々しい感じが、声のトーンや語気の雰囲気から滲み出ていた。
――その姿からは、七瀬のことを手で叩いてまで叱責する様子が想像できなかった。
たぶん「
七瀬母は、「玄関に見慣れない靴があったから~」と付け足して、順に、ゆずると七瀬とを見た。
「お腹空いてるでしょう?お母さん、今日は日曜日で休みだから、パスタ作ってきますね~」
目を細めた微笑みに、七瀬の面影を見て、本当に血がつながった母親なのだと思った。
「ああ……どうも、ありがとうございます」
「あ、飲み物とか、要るかしら?ゆずるくんも、くるみも」
飲み物まで用意があると話す七瀬母のお言葉に、甘えさせてもらうことにした。
「麦茶があればお願いします」と真っすぐに言って、次いで、七瀬のほうも「温かいココアお願い」と言った。
「うん。持ってくるわね」
七瀬母は、また目を細めてニコっと笑って、部屋を出て行った。去り際のドアが閉まる直前には、もう一度顔を覗かせて、「ごゆっくり~」と言った。
部屋には、静寂が満ちた。
七瀬は、ゲームのコントローラーや本体を箱に戻しながら、口を開く。
「そんなに緊張しないで大丈夫だよ。うちのお母さんは、私以外には優しいから」
ゆずるは、七瀬の苦労を
一度部屋を出て、父の書斎の奥へゲーム機をしまいに行った七瀬が再び戻ってきて、背筋をピンと伸ばしたままのゆずるを、背丈の高いところから見下ろした。
相変わらず、背丈が高いなぁと思う。
お母さんは、特段背が高いわけではないようだから、イギリス人の父の背が高いのかなと、ちょっと考えた。
ふと、部屋のタンスの上を見てみると、そこには家族写真が飾られていて、七瀬の両隣に父と母がそれぞれ映っている。遊園地に行った際の記念だろうか。やはり、父親のほうの背丈が、母よりもこぶし4,5個分ぐらい高いようだ。
七瀬の隣の母は、まだ背丈の小さい頃の七瀬と手を繋いで、とても朗らかな笑みを放っていた。
一息の間を設けて、七瀬に聞いてみた。
「あのお母さんが、本当に厳しい人なの?」
写真を仰ぎ見ながら、聞いてみる。
七瀬は間髪入れずに、首を縦に振って「そうだよ」と肯定する。
「今は、良い高校に通ってて、テストの点数も悪くないからご機嫌で居てくれるけど、私が悪い成績を持ち帰ってきたら、お腹も、ほっぺたも叩かれるし、酷い時は、髪だって引っ張られるもん。嫌になっちゃう……」
自らの薄い腹を、白い頬を、サラサラとした質感の金髪を順に撫でた七瀬。口調は、変わらず陽気であったが、その言葉の末尾に、隠しきれなかった苦労の毒をこぼした。
再びこたつの中に脚を伸ばした彼女は、台所に立っているであろう母に聞こえないように、声の音量を絞って続けた。
「でも、私は反論できない。だって、お母さんは頭がめっちゃ良くって、学生時代は薬剤師を目指してたぐらいなんだから。お母さんの言うことは正しくって、勉強が何より大事って、教えられてきたし」
話の内容が暗いので、気が付けば背筋を伸ばした姿勢のままで聞き入っていた。
薬剤師。大学の薬学部に通って、資格を取得できて、はじめて就ける職業だと知っていたから、七瀬母の聡明さに驚かされる。
七瀬は、母に厳しくされて、かわいそうだとも思う。
しかし、それを口に出して七瀬に伝えることは
かつて、七瀬母について踏み込んで聞いてしまったときの、彼女の苦しみを笑みで押し殺すような表情を、今でも鮮明に思い出せる。
これは、七瀬家の事情であるし、外部の人間である自分があれやこれやと言うべきでないことは、承知している。
だから、七瀬の話す合間に「そうだね」とか、「大変だったね」とか、そういう上辺だけの共感を示すばっかりで、黙ってしまった。
「お母さんはね、チョコが好きなんだよ。ていうか、甘いものなら全般、好き。私も、甘いもの好き。遺伝かもね」
ならば、チョコ菓子を多めに買ってこようか。
「ねぇぇぇぇ、日本史の江戸時代のところ、難しくない?先生の言ってること、全然分かんなくない?」
こくりと頷く。それは同じ気持ちだ。
確かに、歴史担当の先生の話す内容は、レベルが高く、難解だ。自分は歴史が得意分野なので、既知の情報と知識を活かしてテストを乗り越えているが、七瀬は、どうやら苦戦を強いられている様子。
「バイト忙しすぎ!この前なんか、お店の中で酔って怒鳴り散らすお客さんがいてさー、もう、来ないでほしい~っ」
バイトはやっていないが、接客が絡む業種には、それ特有の苦労があるのだなと思う。
そうやって、こたつに入りながら、テレビのワイドショーを聞き流し、七瀬の愚痴やら喜びやらの話に耳を傾け、時間は、過ぎ去ってゆく。
話の流れは、今日の午後五時から駅近くのファミレスにて行われる文化祭の打ち上げについてに移る。はっきりと「俺はいかない」と言った。
七瀬は、目を丸くする。
「来ないの?文化祭の打ち上げ」
「行かない」
「せっかくクラスのみんな来てくれるのに?」
「俺、人が多いの苦手だし、何も話せないし」
七瀬にまじまじと見つめられて、同時に、文化祭中の廊下にて、夏目に突き付けられた言葉が思い出されて、身に染みる。
『一人ぼっちで、寂しくないんだ?』と、夏目は表情の薄いまま言った。
一人は、人との関係を気にしなくていいので、気楽だ。しかし、『独り』は、孤独で寂しく、辛いものだ。
できるだけ人と過ごせるように努力はするが、その度に胸と喉が締め付けられる思いをする。
この前だって、七瀬と夏目と来栖と昼食を共にしただけで、黙り込んで、息が詰まったのだ。あの談笑の氾濫に、自分が入る余地などないのだと、ゆずるは思う。
文化祭の打ち上げとなれば、クラスの総数つまり、30人ほどが一堂に会するのだ。
そんな人の波に放りこまれたら、ゆずるという弱い人間は、息苦しさから窒息してしまうかもしれない。
「そういう集まり、苦手だから……」
「うーん。そっか。まあ、気が向いたら来てくれたらいいよ。途中参加でも、私たちは大歓迎だから」
軽快な口調で言い切る七瀬だが、打ち上げのような雰囲気のところに、途中から参加できるぐらいの人間であれば、最初から喜んで参加しているのだと、ツッコミを入れたかった。
七瀬を含むクラスメイトたちは、文化祭を満喫できたようだった。終幕後の点呼の盛り上がりを見れば、それが分かる。
――ただ、自分は、正直楽しめなかった。ただ過ぎ去るだけの時間をトイレにて、ただ一人で過ごす時間は、静かで落ち着いたが、同時に苦しかった。数時間もの時間をトイレに籠って、雨がトタン屋根を打つ音を聞き続けると、気持ちは落ち着いたが、退屈が過ぎた。
七瀬はスマホをカバンから取り出して、いじり始めた。指のしなやかな動きを見るに、メールの返信をしていると思われる。
「そういえばさ、ゆずるは文化祭中、どこに……」
七瀬の疑問とゆずるとの間に割って入ったのは、部屋の戸をトントンと叩いた、七瀬の母の声であった。
七瀬の問いは、中断されたのだった。
「パスタできたよ~召し上がれ。あと、麦茶とココアね」
お盆に乗った大皿をこたつの上まで運んでくれた七瀬母。目の前には、夕日を彷彿とさせる良い茜の色に似たナポリタンが香り高い湯気を上げていて、七瀬の前には、カルボナーラが。
さらに、ステンドグラスのような美しい藍色の柄のコップに入った麦茶まで差し出されて、至れり尽くせりのおもてなしを受けた。
七瀬母は、また目を細めたニコっとした笑みのまま「ごゆっくり~」と、部屋を後にした。
「「いただきます」」
二人で声を揃えて、パスタを食べ始めた。
フォークで巻き取ったパスタにクリーミーな白っぽいソースを絡めて、それを口に運ぶ度に、「おいしい~」と言って頬を緩める七瀬。二人前ぐらいありそうな大皿の上のパスタが、みるみる胃袋に収められてゆく。
「こっちも食べる?」
七瀬は、抱えていた大皿をこちらに差し向けた。
さらに、返事を待つ間もなく、ナポリタンが未だに半分ぐらい乗った皿を強奪されてしまった。
銀色のフォークでパスタを巻き上げて、そのまま口へ。
「ちょっとま……」
待て、それは、自分が口をつけたフォークだと言いたかった。
時すでに遅し、七瀬は、ソースと粉チーズを満遍なくまぶしたパスタを食らっていた。「おいしいね」と言って、気にすることなく味わっているご様子。
まごまごしていると、「カルボナーラ、嫌い?」と言い寄られる。
そんなわけない、牛乳を使った料理は、だいたい好きなのだ。
この手元のフォークは、無論、七瀬が口をつけたもの。かといって、それを拒絶して新しいフォークを持ってきてもらうのも、果たして正しいのか疑問だ。
誤解を恐れずに言うならば、別に、自分は七瀬が口をつけたフォークを使うことに、嫌な思いはしない。
ただ、七瀬がこれをどう思うのか、わからないから、躊躇わせるのだ。
「……嫌いじゃないよ。牛乳好きだし」
ちらっと七瀬を見る。
ナポリタンの味を楽しむばかりで、何も気にしていない様子だった。
ならば……
心中で何度も「ごめんなさい」と呪文のように唱えながら、フォークでパスタソースを絡め、それを口へと運んだ。
高鳴る胸をどうにか鎮める。【間接キス】をしてしまったなんて、そんな不埒な考えは失せろ。じっくりと、カルボナーラのクリーミーな味を味わうのだ。
「……うん、確かに、おいしいよ」
いくら舌上に集中しても、味が分からなくなってくる。咀嚼するたびに、このパスタには、彼女の唾液が少なからず含まれていると考えてしまって、むず痒い思いに駆られた。
いけない。彼女が気にしていないのだから、自分も気にしてはいけないと、戒める。
やっぱりこの人、ズレてる。
昔から、そこは変わりにくいのかもしれない。普通は、自分のフォークを使わせること、相手のフォークを使うことに気を遣うだろう?
いや、この「普通」は、ゆずるという人間にとっての常識に過ぎないのかもしれない。彼女にとっては、仲が良ければ、食器を共有することも気にならないのかもしれない。ならば、彼女の意識に追従するとしよう。こんな自分でも、仲良くしてくれるのだから。
――それに、ちょっと興奮する。
彼女と唾液を交換して、それが互いの体の一部となると考えると、今日の絵は良いものが描けそうな気がする。
こんな下種な考えは、墓場にまで持って還る気だが。
「ありがと。ナポリタンも美味しかったよ」
「こちらこそ」
皿を元に戻して、自分のために用意されたナポリタンに再び食らいつく。またフォークを一緒に交換して、それで、パスタに食らいつく。
「ごちそうさまでした」と先に言ったのは、七瀬だった。彼女は、二人前はあるパスタをぺろりと平らげてしまった。一口が大きくて、さらに量もそれなりに食べられる様子だった。
ごはんを美味しそうに、かつ、たくさん食べる女の子の姿が、好きだなと思う。
その後は、二人でこたつに籠りながら、映画を鑑賞したり、勉強を教え合ったりして、時間を過ごした。のんびりとした昼下がりの時間はあっという間に過ぎ去って、夕方になるぐらいには、七瀬と七瀬母に玄関から送り出されて、家を出た。
七瀬の家から歩いてすぐ、夕方の茜に照らし出される加賀美家の屋根が見えてきた。
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