第21話 ホルムアルデヒドの檻
作品をつくる人間にとって、最もな苦痛は何たるかを知ってしまった。
それは、誰にも評価されないとか、誰にも見てもらえないというよりも、もっとずっと深刻な苦悩だ。
――自分の思い通りの作品が作れないこと。
日常が壊れたとすれば、作品なんて作っている暇ではなくなってしまう。それが、たまらなく不安だった。
歴史の勉強をしていると、恐慌やら飢饉やらといった出来事を知ることになる。突然の不幸に見舞われた人々が飢えて死んで、ビルから飛び降りる話を目撃する度に、心が見えざる魔の手によって撫でられる、モヤモヤとした感覚に支配される。
そして、それらは日常の中に「リスク」として潜んでいるのだ。
沖縄の石垣の隙間に潜むハブのように、こちらを毒牙でもって待ち構えているのだ。
世界では環境問題やら紛争戦争やらのリスクが声高に叫ばれていて、つい最近では、世界的に疫病が流行するという不幸に見舞われたか。みんなが家に引き篭もって、ワクチンを打ちに病院へと向かい、学校行事も軒並み中止された日常の崩壊の景色は、未だに、記憶に真新しい。
日本においては少子高齢化で人が減って、労働問題が山積して、もう、リスクの山の頂点が見えないぐらいにまで積み上がっていて、グラグラと左右に揺れていて、今にも崩れてしまいそうだった。
日本は環太平洋造山帯に属した列島で、何時、地中の【
そういった、どうしようもない「リスク」への不安から生まれた作品が、つい昨日完成した『脆弱性』である。
使い古されたテレビ、スマホ、テーブルやら椅子やらの日用品から、スーツを着た人だったり、ボロボロの衣服に身を包んだ人間までもが山のように積み重なっていて、その頂上には自分、つまり「加賀美佑弦」が、虚ろな目をして立っているという作品だ。
様々な物に、人に支えられているはずの彼は、不安定な山の上に居て、それが崩れる不安に苛まれて転げ落ちてしまいそうな様子を描いたこの作品を描いてからというもの、社会風刺的な絵を描くことにハマりこんでいった。
「できた……」と、夜中に完成して眠気が頂点に達していた時間帯に、手に持っていた筆をぎゅっと握りしめて、歓喜する。
次の日の朝、高校に行く前に母にそれを見せてみた。
「上手いね」
母はただ一言だけ言って、「疲れてるんだから、もう少し寝かせてよ」と、ソファーに横になって瞳を閉ざしてしまった。それ以上、『脆弱性』という作品の細部に目を向けることなく、小さな寝息を響かせていた。
今日は日曜日なので、母は、昼の12時出勤なのだ。それまでは洗濯やら洗い物やらをしたり家計簿を付けたりして、余った時間で寝てしまうのだ。帰りが遅いので、疲れているのだ。
だから、まともに絵を見てくれないし、【不安の種】についての相談もしにくい。
「11時のアラーム、鳴っても起きなかったら起こして」
母は低い声で言って、スマホのアラーム機能の時刻を合わせ、ソファーに横になりながら瞳を閉ざした。ゆずるは「はい」と一言で返して、忍び足になって、母の眠りの妨げにならないように静寂を守った。
……母が帰ってきて父に愚痴を漏らす様子や、こうやって疲れ切って眠っている様子を見ると、働きたくないな、バイトもしたくないなと思ってしまう。
そして、その不安以上に、絵を見てもらえないことへの落胆から、胸がずしっと重くなったような気がする。不安を絵という形にして表現することは良いことだと思うが、やっぱり、誰かに見てもらったり、評価してもらったりしたいと思う。
二階にある押し入れの中のアトリエに戻って、過去に描いた絵の上に、『脆弱性』の絵を重ねた。果たして、この子たちが日の目を浴びる日は来るのだろうか。
パシャリと写真を撮ると、暗い押し入れのアトリエが刹那、白い光で満ちる。撮った写真を簡単に切り取って、SNSに投稿するのだった。
SNSに上げれば、見てくれる人がいるだろうと思って、最近初めてみた。
しかし、そもそも無名な自分の作品に興味がある人など居るはずもなく、自分が押したいいねマークの一つのみが付いている。
どうすれば、人を振り向かせられるのか。どうすれば、誰かに認めてもらえるのだろうか。悩めば悩む程、自己顕示が前面に出た、本来の自分が描きたいと思った作品とはズレた作品ができてしまう。
不安を表現したいと思えば誰にも振り向いてもらえなくて、認められたい、見てもらいたいと思うと自分の望んだ作品ではなくなってしまう。
塩梅が難しい。
「はぁ」
ある日の夜、溜息の後に、筆を投げてしまった。
赤黒い絵具が付いたままの筆が壁に当たって、汚れを作った。水気が多かったからか、水玉のように弾けた絵具が壁に点々と、水玉模様を作る。そして、水気が特に多いところは重力に従って壁に沿って落ちて、一直線の赤黒い線を作り出した。
思うように描けないし、評価されることもない。
そういった言葉にし難いモヤモヤとした感情が、筆を投げさせたのだった。キャンバスには、描きかけの、自分の苦悩を描いた自画像が取り残されている。
「はぁ。マジ……俺って、なんにもできないのか」
また深いため息をつきながら、黒っぽい色に染まった雑巾を手に取った。その雑巾は、ずっと絵具や筆の水気を拭ってきたから、色が付いて汚れていた。
バケツに入れていた水に雑巾を浸けて、力の限りに絞る。そして、壁紙に飛び散って染み付いた絵具を拭おうとした。
ふと、明かりに照らされた壁紙を見た。そこには当然だが、飛び散った赤黒い絵具が付いている。
「これが…………ああ、そっか!」
普段出し慣れていない声を張って、低い声で納得を叫んでいた。
これが、自分の内側に内在していた「不安」や「怒り」の形なのだと発見したのだった。この飛び散った絵具の形もまた、キャンバスに描いた絵と同じような価値を持った「作品」であるということに、はっと気が付いたのだった。
感情のままに筆を投げて、壁が汚れることも頭から抜け落ちた状態で偶然性の上に描き出されたこの水玉と、壁を伝って落ちるこの模様が、不安とか、怒りの形なのだ!
「おお!」
雑巾をバケツの中に投げ入れて、その汚れた壁をスマホで撮影していた。これもまた、作品の一つになり得るのだと思った。
「見て見て!」と、隣の寝室で寝ている母や父に評価してもらいたい気持ちが湧いて出た。心臓が興奮からドキドキと高鳴って、頬がつり上がって不器用な笑みを作っていた。
でも、二人にとっては、単なる壁の汚れに過ぎない。「なにやってるの……」と呆れられて、絵具を落とすように言われて終わってしまう気がしてならなかった。父と母にとって、その壁の模様は、作品ではなく、ただの汚れ。
この発見を、偶然を、作品を、誰かに見てもらいたい。描きたいと思っておらずとも、しかし最も描きたいと思っていた形が、眼前に形を成して現れたこの興奮を、誰かに共有したかった。
だから、その日は一旦落ち着いて、もう眠気が襲ってきていたので、床に就いた。
次の日に、その人に連絡のメッセージを飛ばしていた。
——週末、俺の家来ない?見せたいものがある。
七瀬ならば、きっとわかってくれる。今の気持ちを理解してくれるという、半ば妄信に囚われたまま、付き合いが一番長いその人を誘っていたのだった。
この前、部屋に入れてくれたから、大丈夫だよな……?特段、不自然じゃないよな……?
メッセージを送ってから、また別な不安に苛まれるのであった。
不安だらけの人生は、辛いものがある。
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