第5話 赤い悪魔


 4限目の国語の時間……


 眠気で重くなった瞼を開いて、ふと黒板の上部の時計を見ると、12時15分を指し示していた。


 あと五分で給食だから、お腹が空いたことを自覚する。グーっと、お腹が鳴ってしまいそうになるたびに、手で抑え込んでいた。



 クラスメイトたちが席の順に立ちあがって、『走れメロス』の本文を音読している。



 すぐ前の栗田くんが該当部分を読み終えて、自席に腰を下ろす。


 次こそが、私の番だと、気を張って立ち上がった。


「っ――」


 音読するはずの声が、言葉が、喉に絡まって詰まってしまった。



 ズルっとした、実に不快な感覚があった。朝から慢性的に続いていた、お腹の中ぐらいを手のひらでぐーっと押されるような腹痛がその時に強くなって、股に、生温かい感触が……



 所謂いわゆる、「女の子の日」が来ていたのだ。私は、定期的にやってくるソイツに【赤い悪魔の日】という蔑称をつけて憎んでいた。



――なんで、このタイミングなのかな。本当にうざったい。



「七瀬さん?あなたの番ですよ」


「はい。大丈夫です。えっと……」


 先生に促されたので、平静をどうにかこうにか装って、該当箇所を声に出して読み始めた。


 教科書を持つ手が微かに震えていた。傍から見て、たぶん、体が左右に揺れていたと思う。



 だって、こうでもしていないとお腹と腰が痛くて痛くって、堪らないから。



 読み終えて、周囲を見ると、少数だが、クスクスと笑っている人がいた。


「はい。ということで、これで読み切りです。明日は、53ページの解説からやるんで、国語ワークは各自でやっておいてください。あと、テストについてなんですが……」



 先生がテストの説明をつらつらと述べるのだが、腹痛と不安と恥ずかしさで集中できない。


 もしかして、体のちょっとの震えとか、もしくは臭いでバレてしまっただろうか。


 周囲でクスクス笑う女子たちを見ると、そういう苛烈な不安に襲われて、どんどんと、お腹が絞め付けられるように痛くなってくる。



 どうか、バレてませんように。気が付かれていませんように。いつもの、私を嫌う話で笑っていますように。



「――はい、終わり。号令係」


 先生が声を張ると同時に、チャイムが鳴った。



 クラスの号令係の「起立、礼」という、仕事然とした声が飛んだ。



 一礼して、授業が終わると同時に、さりげなく、教室から一番近いトイレへと向かった。内股になっていて、もじもじした格好を見られるかもしれなかったが、そんなこと気にしている余裕は、今は持ち合わせていない。



 トイレの中の個室に駆け込んで、一息ついて、ほっとする。



 静かなトイレの中にいると、聞こえないはずのクラスメイトたちの声が聞こえてくる。


 耳を両手で塞いでも、天井の真新しい照明の光を見上げても、どこからか聞こえてきてしまう。まるで、幻聴だった。



「なんであいつ、もじもじしてんだ?」

「腹下してるんじゃね?」

「多分、くるみ、【アレ】だろうね~」




――黙って!もう聞きたくない!



 願っても、【赤い悪魔】は声を変えて、囁いてくる。お腹の苦しさと痛みは回復する兆しが見えないし、座った格好をしているだけで腰がぐっと痛んだ。


 視界がボヤけたかと思えば、照明の強めの白い光がキラキラと明滅して見えて、気分の悪さがこみ上げた。



「うぅ……」と呻いても一人きりで、誰も助けてはくれないのだ。


 被害の状況を確認していると、トイレに複数人の集団が入ってくる足音が聞こえてきた。タイル張りの地面だから、上履きの底の固いところが「スタスタ」と言って、近づいてくるのがよく分かった。



「七瀬さーん?」


 呼ぶ声がドア越しに飛んできて、「ひゃっ」と小さい声が口の端からこぼれた。


 息を殺して、ここに居るのは「七瀬胡桃ななせくるみ」ではないことをアピールした。



 この声は、私を一番に嫌っている朝倉さんの声だ。言葉の節々がビリビリと震えるような、刺々しい声を向けてくるから、すぐにわかった。


「体調悪いなら、保健室、連れて行ってあげるよー?」

「あれ、七瀬さん?入ってるよね?」



 意地悪っぽい声で言った朝倉さん。その後に、別の人が言いながら、ドアをドンドンと強く叩いた。それも、何度も、何度も。



「大丈夫ですかー」と連呼して、拳をドアに叩きつけている。


 ドアの取っ手が、ガタガタと音を立てて震えている。



 このままドアをこじ開けられたら、何をされるのだろうか……辱めを受けて、髪を引っ張られるだろうか……殴られても、不思議の思えない感じが、恐ろしい。


 心臓が、内側から張り裂けそうな思いだった。


 ただでさえお腹が苦しいのに、それに重なってプレッシャーが掛けられるので、目尻から涙が零れた。



 もうやめて、お願い。



 早く、出ていけ!早く、どっか行け!!


 怒りと不安が同居して、感情がぐちゃぐちゃになった。




「ああ、七瀬さん!辛そうだねぇ~」



――恐ろしかった。ただ、恐ろしかった。



 朝倉さんの声が、頭の上から聞こえてきたのだ。さっきの幻聴とは違う、はっきりとした声が、鼓膜を、体の芯を震わせた。



 眼だけでちらっと見ると、朝倉さんが、隣の個室から覗いてきていたのだった。


 トイレの個室の壁は、天井まで伸びて続いていないので、隣の個室の便器に足を乗せて立てば、隣を上から覗けてしまう設計なのだ。



 それを視認した瞬間に、呆然としてしまって、目尻からボタボタと涙を零してした。


「あっ……あっ……」


 言葉が詰まって、何も言えない。



――怖い、やめて。


 ただそれを伝えたかったのに。



 朝倉さんが、私の目を、頭を、太ももを、赤の汚れたところを、順に見つめている。


 頬がカーっと熱くなって、酷い頭痛を呼び寄せた。



「ふふ……保健委員、呼んできてあげるね」



 朝倉さんは、隣の個室の便器から軽快に飛び降りながら、仲間たちとトイレを出て行った。



 よかった。願いが、神様に届いたのだと、胸を「撫でおろしたかった」



「やめて……ダメ……」


 朝倉さんは、芯のしっかりした声で、こう言うに違いない。「七瀬さんが生理で辛そうでーす!」って。



 その声を、浜田くんも、加崎くんも、みんなが聞いてしまうんだろうな。



 そういう考えに至った結果。もう、トイレから出られなくなってしまった。一人ですすり泣く声が、虚しく、響いていた。






――その日から、くるみは一か月、学校を休んだ。



 その後、母と先生が、どうにかこうにかしてくれて、私は、何とか学校に復帰したのだが……



 毎日毎日、朝倉さんをはじめとする人たちにからかわれ、いじめられる日々が永遠とも思える時間、続いた。


 先生に言ったら、母にまた相談したら、朝倉さんが怒ってくる。「なんでチクるの?」と。



 死んじゃえ。朝倉という女は、世の中の癌だって、思っていた。



 くるみは、死にたい気持ちでいっぱいだった。



 気持ちが晴れないままで、成績は悪く、何度も何度もお母さんに叩かれる日々を繰り返し……



――なんで、私は生きているのだろう。わからないよ。苦しむために生きるなんて、望んでいなかったのに。






 助けて。




 誰か、助けて。

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