第6話 不完全燃焼


 ゆずるの地元には、中学校が複数あったので、彼をいじめた奴等ヤツラとは、小学校の卒業を機に、別々となった。



 椅子を校庭に置き去りにして、小指を折った唐松も、算数のプリントをゆずるにだけ配らなかった有田も、筆箱をボンドで固めた犯人の常磐も、トイレに籠ると隣から壁を叩いてバカにしてくる下村も、今は、どこか別の中学校に散った。



――七瀬だけが、同じ中学校だった。




 あの金髪とワインレッドの瞳は目立つので、すぐに廊下で見かけて、分かったのだ。学年集会とかでも、サラサラ伸びた金髪が黒髪の群れの中で輝いて目立って見えたものだ。


 しかし、同じクラスではなかったので、小学生の頃の醜態を晒されることは避けられた。



 椅子を校庭に放置されたことも、腕相撲で晒しものにされた挙句小指を折らえたことも、上履きを植木の近くに埋められたことも、鬼ごっこで眼鏡を割られて置き去りと口止めをされたことも、水着を強奪されて裸体を晒したことも、筆箱が木工用のボンドで固められたも、無視されたことも、仲間外れにされたことも、何もかもを……知っていて、この学校にいるのは、自分と七瀬だけなのだ。

 


……よかった、しかし、平穏な学校生活を送れると、胸を撫でおろすことはできなかった。



「再び、いじめられるかもしれない」という不安に怯え、駆られ続けて、疑いに支配されて、


 

 もう二年生。



(また、いじめられるかもしれない……)



 とにかく不安で、登校する前はいつもお腹を下すし、頭も痛くなる。心臓がうるさいぐらいに高鳴って、痛い、痛いと訴えてくる。


 それらを「さらなる不安」で抑え込んで、ここまで登校を続けることができたのだ。



——学校に行くことは、不安だ。しかし、行かないことによる「レールからの脱線」が、もっと、ずっと恐ろしかった。



 学校に行かないと、まともな職にありつけなくて、飢えて死んでしまうんだろうなって、何となく察していた。



――後から考えれば、そんなことはないのに。学校に行っていなくとも、力強く生き抜いている人たちは、ごまんといる。




 授業終わりの休み時間、机に突っ伏して、無言の内にそんなネガティブな思考を巡らせていた。


 周囲からは、恐怖と警戒の対象であるクラスメイトたちの話し声が聞こえてくる。


 敵か味方か、分からない。


 味方と思っていて裏切られるよりは、最初から敵だと思って警戒していたほうが良い。



 クラスメイトたちが、大人が、先生が、男子が、女子が、人間が、信じられなくなっていた。彼らは、小学生の時の奴らと同じように、きっと自分の弱いところを突いて、いじめてくるのだろうと、考えている。



「……」




 突っ伏して寝たふりをして、持て余した時間をやり過ごしていると、周囲のクラスメイトたちの会話の内容が聞こえてくる。


「なあ、隣のクラスの七瀬って女、知ってるか?」

「ああ、小学生の時、いじめっ子だったやつだろ」



 男子二人組のグループの話す声が、かすかに耳に届いた。よく聞いた名前が語られたので、腕を前にして寝たふりを続けながら、それに聞き入った。……盗み聞きみたいだけれど。


「誰かの陰口言ってて、仲間外れにされて、いじめられてるらしいぜ?」

「マジ?ってことは、いじめてたやつが、今度はいじめられ始めたってこと?」

「そういうことだろ。中学に入ってもいじめとかやってるやつは、幼稚なんだよ。そりゃハブられる側になるわ」



 なんと、今度は、七瀬がいじめられているというのか。


 ゆずるは、心の内で歓喜した。因果応報の理が、この世界でしっかりと機能していることを確認して、喜びに沸いた。




……ざまぁみろ!!




 自らが他者に与えた苦痛を、存分に味わうがいい。


 同時に、男子二人がいじめに対して「幼稚」だという認識でいることを知って、ほんの少し安堵した。彼らは、考え方が大人なようだ。七瀬や、かつてのいじめっ子たちとは異なって。



 そういえば、お腹が空いたな。今は、給食のスープの香りが漂う昼休みだ。



 ゆずるは無言で、かつ、一人で給食を取りに向かって、それを速攻で腹に収めた。そうして、数学の参考書の復習に取り掛かった。



――人が信じられないなら、勉強を頑張ればいい。知識は、誰にも奪われないから。



 勉学に真剣なだけの「面白くないやつ」を演じることで、いじめを回避しようという試みだ。



 自己紹介の時、趣味について、当たり障りのない「読書」と答え続けて、「いじめがい」のポイントを排除したゆずるは、クラスで孤立していたものの、悪く扱われることはなかった。



 勉強もはかどって、いじめられなくて、一石二鳥だ。


 


 こんな考えで自己暗示をかけていないと、いつか孤独の「毒」に侵されて死んでしまいそうだ!


 希死念慮の猛毒が、ぐるぐると体の中で回っていた。


 


 それでも、友達は、正直欲しい。それが叶わないから、刺激が他人ひとよりも少なく、生きていてつまらない。



 しかし、やっぱり、【死】は生きることよりも、はるかに恐ろしい。アニメとか小説とかゲームとか、そういう作品の中で死んでいく人たちの苦しみを、自分は味わいたくはない。



 だから、仕方なく生きていた。



 死んでいないというほうが正しいのかもしれない。



 もっと言うと、「死んだように」生きていた。ゆずるという一個人は、毒を抱えて腐ったアンデッドである。




****




 放課後、夕日がいよいよ西へと傾いた時間に、コンピューター部の部活に勤しんでいた。



 タイピングの練習、簡単な資料の作成の練習を済ませ、早めに帰宅の途に就いた。




 ――最近、絵具で絵を描くことにハマっている。


 早く帰って、絵を描きたい。その一心で、バッグを肩に担いだ。



「お疲れ様です」

「さようなら、加賀美さん」


 先生に一礼して、パソコン室を出た。階段を駆け上がりながら、今日描きたい絵の構想を練っていた。


 中学校に入って美術を履修して、絵を描くことに興味を持った。これまで自分の声にならなかった感情を「かたち」で描くことができることを発見して、面白いと思った。



「おお、綺麗だなぁ」


 学校の階段の途中の小窓には、白い造花が飾られている。その白の花びらに、夕日の茜の光が流れている光景を目撃して、今日はこれを基にして描こうと決めた。


 そういえば、赤の絵具が不足していたような……帰りの途中の文房具屋で買って帰ろうと決めて、下足箱のある昇降口に急いだ。



「うぅ……ぐぅ……」



 ん、なんの声だろう?

 何物かに首を絞められているような、苦し気な女性の声だった。



 ちょっと気になったので、今も続く、すすり泣くような声の音源を探った。廊下の隅のトイレから聞こえて来ていた。


 お腹が痛いのかな?それか、幽霊の類かな?と想像を膨らませていると、もし幽霊だったら、絵に描いてみたい、話をしてみたい、という考えに至った。幽霊とならば、友達になって、話に耳を傾けてくれるかな、と、期待を膨らませて、足音を消して人の気配皆無の廊下を歩き、その声の音源に近づいた。




「……誰?」


 女子トイレの手洗い場から、こちらを尋ねる声が聞こえた。ゆずるは、詰まったような感じで返事をした。


「あ……いいえ、泣き声が聞こえたので……気になって」



 誰かと、聞かれているのに、ここを尋ねた理由を答えてしまった。それぐらい、言葉が喉に詰まって出にくかったし、応答するのに緊張してしまっていた。



「あ」


「あ……」



 声の正体である、手洗い場の女の子が、壁の影からこちらを覗いたので、視線が交わった。



 そこには、金髪ストレートヘアの少女が立って居た。人形に魂が宿ったかのような整った美貌をもっていて、紅を刺したような麗しいワインレッドの色の瞳は、まるで技巧が凝ったガラス細工のアートである。ゆずるよりも拳二つ分、身長が高い。



 紛れもない、七瀬であった。小学生の時、いじめてきて、嘲笑してきた七瀬が、女子トイレに隣接する手洗い場に立っていたのだった。



「あんたは……小学生の時の……そうだ、ゆずる。加賀美佑弦かがみゆずる……」


「七瀬さん……だ、大丈夫ですか……?」



 ゆずると七瀬は、互いに名前と顔の記憶の断片を一致させた。彼女は、地を這ううじを蔑み見るような感じで顔を歪ませて、睨みつけてきた。


「なんでもない!お前には関係無い!さっさと失せろ!」

「か、関係ないって……でも、その傷は……」

「関係ないって言ってるでしょ!!」



 彼女の腕から、激しい出血があった。下げた肘の先端から、ポタポタと赤黒い鮮血が、タイル張りの地面に滴り落ちている。


 手首に刻まれた、刃物で裂かれたような複数の傷が原因であった。そこから湯水の如く血が湧いて出て流れている。手洗い場には、殺人事件の現場を彷彿とさせる血の水たまりができていた。



「ほ、保健室まで行きましょう……早く止血しないと……」


 彼女への恨みよりも、心配のほうが勝って、彼女に向けて手を差し伸べた。しかし、その手のひらを思い切り叩かれた。


 その衝撃で、ゆずるの白い頬にまで、七瀬の鮮血の一滴が飛散した。


「余計なお世話だっつーの!死ねよ!」



 死ねと言われても……むしろ、このままでは彼女の方が死んでしまうのでは?



 心配の手を振り払われて、居たたまれず、黙ってその場を去った。その足で、保健室へ。



「友達が膝を擦りむいて血が出ている」と簡単に説明をして、保健室の先生から包帯をもらった。



 その白い清潔な包帯を持って、さらに背中の鞄の中に常備していた消毒液と、二枚の絆創膏を手に、再び、七瀬がいた廊下端の女子トイレの付近へ。


「……」


 七瀬は、無言で手首の裂傷に、手洗い場の流水を当てている。無色透明のはずの水は、絵の具を混ぜたような紅に変色していた。


「……」


 無言で、手に持っていた包帯と、絆創膏の二枚を、彼女へ投げつけた。包帯が彼女の頭にポンと当たって、血で汚れた床に落ちた。


 そして、普段は小さい声を張り上げて、彼女へと毒を叫んだ。



「ざまぁみろ!!」



 らしくない言葉を叫んだあとには、目尻から涙が零れ落ちた。心には、憎悪と共に、悲哀が同居していた。


 過去にされた嫌がらせの数々に対しての報復という気持ちと、人からいじめられることへの苦しみが理解できてしまう気持ちとが拮抗して、怒鳴りながらも泣いていた。



「眼鏡を壊されたこと、俺は絶対に忘れないからな!!」


 掛けていた眼鏡を手に持って、彼女のほうに示した。そして、彼女に歩み寄り、左の頬を思い切り平手打ちしてやった。



「うっ!?」


 七瀬の苦しそうな声が、喉元から漏れ出て聞こえた。



――人生で初めて、人に暴力を振るった。叩いたほうの自分の手のひらが、ヒリヒリして痛かった。



「人にしたことは、良いことも悪いことも、全部返ってくるんだよ、バーカっ!!」


 言ってやった。鼓膜を破ってやろうという気概で、叫んだ。



 七瀬は、叩かれた衝撃で手洗い場の壁を見て、次いで、床に膝を突きながら、ゆずるの引き攣った笑みを見上げた。その表情の色は、怒りでもなく、悲しみでもなく、意外なことに、困惑の色が強かった。



 ゆずるは、彼女から後退しながら、クラスメイトが話していたことを想起した。


『誰かの陰口言ってて、仲間外れにされてるらしいぜ?』


 いじめられることに耐え兼ねての行動であろう、自傷であろう、流血であろうと推測していたが、どうやら図星だったらしい。



 振り返った七瀬の顔は、胃袋をひっくり返す直前のような悪い色をしていた。


 血の赤に染まっていて、床に転がったカッターナイフが、夕日の茜を一身に浴びて、刃がキラリと輝いた。これで、手首を滅多切りにしたのだろう。



「お前を助けたいとかいう善意で持ってきたわけじゃないからな!!」



 彼女を一人置いて、その場を立ち去った。




 帰宅後……


 その日に描いた絵の夕日の光は茜ではなく、血の色に似た深紅であった。自己への怒り、反省、焦燥、困惑、後悔という感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った、形の無い絵が、形を成してキャンバスに収まっていた。


 その中心には、抽象化された人間の眼球が描かれている。それも、二つ。


 一つは、人を殴った後の自分のもので、もう一つは、涙を零す七瀬のものである。そんな絵の裏側に隠された感情は、自分以外の誰にも理解されないであろう。永久とわに、いつまでも。




 作品名、『不完全燃焼』


 キャンバスの裏側に鉛筆で、そうやって命名したことをはっきりと覚えている。

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