第4話 独りぼっちにしないで
金曜日の放課後、隣の席の牧野の小さい背中に抱きついた。
「一緒に帰らない?」と、声をかけた。牧野は、表情の薄いまま、微笑みの仮面を被って振り向いた。
「ごめん、今日は、部活があるから」
牧野は、まるで逃げるようにして、カバンを背負って、そそくさと退散していった。
素っ気ない態度を取られてしまって、くるみの心は、またきゅっと絞められて痛みを訴えた。
――ただ、一緒に帰りたいと思っただけなのに。
その様子を、クラスメイトの女の子たちに見られていて、彼女らは目を細めて、ヒソヒソと話し出した。もちろん、くるみの陰口を共有しているのだ。
「加崎くん、明日って暇?よかったら一緒にカラオケでも……」
気まずく、冷たい教室の空気を打破するべく、くるみは、クラス一番のイケメンの加崎に迫った。
彼は、当番の仕事である黒板掃除に勤しんでいる。
ちょっと申し訳なさそうな雰囲気を醸しながらも、加崎は、提案をやんわりと断った。
「サッカー部は、土曜日にもあるって、前にも言ったよね?だから、またの機会にね」
牧野と同じように、加崎は、夕方の赤っぽい光を背中に流して、廊下のほうへ、小走りで駆けだした。
黒板は、くるみの心を体現するかのように、まっさらであった。
そして、また周囲の視線の棘が痛々しくも、自分をチクチクと刺しているのだと、気が付いてしまった。
ヒソヒソと噂され、クスクスと笑われている。
「かわいそ」
「遊ぶ友達できなかったんだね」
「みんなに嫌われちゃったんだな」
「八方美人」
現実の誰の声かも、幻聴かも分からない声が、耳に痛い。恥ずかしさでささくれ立って
耐え兼ねたくるみは、
――国語のプリントも、歴史のノートも、シワが刻まれて、ページが折れてぐしゃぐしゃになっていた。
存外に力が手にこもっていたらしく、教室の扉が勢いよく閉まって、ガシャン!という音が廊下にまで響き渡った。
その扉の音を背中の側に置き去りにして、早歩きで、廊下を歩んだ。
早く、この恥ずかしさを忘れてしまいたい。そんな一心で、駆けるように下駄箱を目指す。くるみには、友達ができなかったから、部活に誘われることも、誘うこともせずに、所属は無く、ただ一人ぼっちで帰路に就くしかなかった。
——本当は吹奏楽部とか、バレー部とかに入ってみたかったな、と思う。
でも、いまさら所属しようとしても、自分を受け入れてくれるところなんてないよね、とも思う。
もっと、人の気持ちを考えられていたら……もっと、自分の至らなさを反省できる脳みそであったならば、こんな惨めな苦みを味合わなくて済んで、むしろ、キラキラした中学生になれていたはず……
「ぅ……」
無言で歩いていると、「あの」光景が勝手に想起された。
『お前のこと嫌いなんだよ』
それは、浜田が言った言葉。
記憶の中の牧野は、笑顔の仮面をつけていたし、加崎は、くるみに対して失望したような瞳を向ける。
――そして、クラスメイトの視線の棘が、一斉に飛んでくる、修学旅行の班決めの時の景色が思い出されて、吐きそうになった。
急いでトイレに向かおうとするが、幸い、喉元に迫った不快感は引っ込んだ。
はあはあと、息が切れて、脚がガクガクと震えた。廊下の柱に寄り掛かって、一息ついた。
幸い、周囲には誰もおらず、くるみの醜態を目撃した人はいなかった。
独りぼっちにされて、冷たい視線を注がれ、「お前のこと嫌い」と、面と向かって突きつけられた、あの日のトラウマが、思い出される度に、体の内側で暴れまわるのだ。
「え……」
再び歩み始めて、昇降口へ向かう渡り廊下を通過していた時に、それを視界の隅に発見してしまった。
窓越しの景色に、太陽の下の校庭を歩く牧野がいた。
それも、なんと、加崎を隣にともなって。
「なんで、」と、信じがたいという心の訴えが口から漏れ出た。牧野も加崎も、部活があるからと言って、教室を出たではないか。
……教室でくるみに伝えた「部活がある」という理由は、誘いを回避するための適当な理由だったというのか。
――誰か、答えてほしい。本当に、くるみは嫌われ、避けられているのだろうか。
しかし、渡り廊下には自分だけが一人。べったりとお尻を地面に付いて、スカートにシワを作っている。
牧野と加崎は妙に早足で、いまさら追いかけても、もう二人の背中に追いつくことはできないと思った。
「うぅ……」
頬を、涙の
ごめんなさい、ネックレスを安物なんて言ってしまって。
ごめんなさい、私が悪くないって気が付かなくって。
ごめんなさい、私がこんなに悪い子で。
今更に謝っても、許してくれるか分からない。
私は、性格の悪い子だという烙印が押されていて、もう、輝かしい自分は取り戻せないのだと、
野球部と陸上部の熱の籠った声が響く校庭を背中に、くるみは、一人静かに帰路に就いた。
太陽の光と、空に登る白いお月様だけが、変わらず私を見下ろしていた。
****
20分ぐらい歩くと、家に帰ることができる。
一人で歩いている間にも、首元と背中を、太陽がさんさんと照り付ける。微妙な暑さによって、自分の罪を追求されているように錯覚して、体が芯からぶるっと震えた。
「ただいま」と、挨拶をして、玄関の扉を開ける。
それと同時に、リビングの方に居た母が飛び出してくる。
「点数教えなさい。テスト、帰ってきてるでしょう?」
声の抑揚なく、感情の一切を感じさせないように、お母さんは迫った。
人生においてテストの点数が第一、次いで人間関係が大切というのが、我が七瀬家における教育方針である。母は、日々それを繰り返しくるみに言い聞かせて、連呼するのである。
テストが行われる度に、母は心に鬼を飼ったようになる。点数が悪いと、怒鳴られ、蹴られ、胸と腹を殴られる。それがお決まり。
テストの点数が悪くって、それでいて、友達もできなかったなんて、口を裂かれても言えない。
「っ……」
涙の跡を袖で拭ったくるみに、母は、また冷たい声で言った。
「早く見せなさい。わたしも、暇なわけじゃないんだから。この後、出勤なの」
渋々と、カバンの口を開いて、教科ごとのファイルに挟んでおいたテスト用紙を、母に手渡そうとした。
母は、テストの解答用紙の端っこを鷲掴みにして、それを奪い取るようにして手に持った。
一枚、また一枚と点数に目を通す度に、お母さんの目は細くなって、
「国語79点、数学83点、理科78点、社会68点、英語79点……へぇ」
教科ごとの点数を朗読した母は、しばらくの沈黙の後に瞳を閉ざし、「ダメっ!!」と叫ぶように怒鳴った。
鼓膜がキーンと痛んで、耳の奥のほうが、ちょっとおかしくなった。
「90点以上は取れるって、わたしと約束したよね!?なんで約束守れないかな………………?」
「ごめんなさ……ひぐっ!?」
瞼が熱くなったくるみの腹部に、拳が飛んできた。
グーの形になった手が制服にシワを刻んで、くるみは涙声のまま、えずいた。そのまま、喉元に昇り詰めた不快感を床の上に吐き出した。
――帰り道、例のことでずっと気分が悪かったから、もう、どうしても耐えられなかった。
「ごえっ……」
膝を突く。不快感を、目下に思い切り吐き出していた。
口の中の酸っぱさが治まらないままで「後で自分で始末しなさいよ!!」と、また怒鳴られた。
恐る恐る目を開けたくるみは、赤い絨毯に染みた黄色っぽい、自らの不快感の元凶を見た。
「こっち見なさい!!お母さんの目を見なさい!!」
髪を引っ張られて、鬼のような形相と顔を合わせる。ブチっと、何本かの髪が抜け落ちて、力なく、赤い絨毯の上に落ちた。
頬に衝撃が走って、パンっという、叩く音が遅れて聞こえてきた。
「痛いいっ!!」
頬が真っ赤に腫れあがって、叩かれた衝撃で地面に倒れ込んだくるみ。体勢が悪かったから胸を打って、舌を噛んでいた。
口の中に、血液特有の鉄っぽい味と臭いが充満して、胃酸の酸っぱさと混ざり合った。
「やめてぇ……お願いぃ、ごめんなさい、ごめんなさい……」
苦しいままのくるみは、何とか謝意の言葉を絞り出した。
母は打って変わって、くるみのことをぎゅっと抱きしめてきた。
「将来結婚するにしても、自立して生きるにしても、学ぶことがいっちばん大事なんだって言ったの、覚えてる?」
覚えている、それもはっきりと明瞭に。
壊れたレコードのように、母はそれを繰り返し言っていたから、脳裏に烙印のように焼き付いているのである。
事あるごとに「勉強しなさい」とか「賢くなりなさい」とか、そういう、学ぶことの意義を連呼する。勉強が嫌いなくるみにだって、バカの一つ覚えのように、脳裏の深いところに刻み込まれている。
「はい……覚えています……」
「だったら、お母さんの言うとおり、良い点数を取って、良い成績を持って帰ってきてちょうだい」
母は、よく見たらスーツ姿だった。
今日は、夜勤なのかな、と思いながら、タオルを持ってきて、あとは消毒液も抱えて、汚した絨毯を拭いた。表面上の汚れは取れたかもしれないが、クリーニングに出すことは必要だろう。
ああ、絨毯のクリーニング代で、お小遣いが減っちゃうな、と落胆して、自分の頬を撫でる。その表面は赤く腫れあがっていて、未だにズキズキと痛みを伴って、熱くなっていた。
この腫れが引かないようなら、マスクを着けて学校に行かないと、誰かに笑われて、バカにされてしまう……
くるみは優れた子。勉強も運動も交友も、何でもできる
くるみは奇跡の子、だって、英国と日本という素晴らしい国の両方の血が流れているんだから。
くるみは大切な子。お母さんの果たせなかった役割を代わりに果たしてもらうんだから。
過去、母に言い聞かせられた言葉の数々が、キーンと脳裏に響いている。
母が出勤のため玄関を出て居なくなって、静寂が家に満ちた。
父は、大学での研究にお熱で、滅多に帰ってこない。父なら、今のくるみの苦しみを分かってくれるかもしれないけれど。
リビングのソファーに腰を下ろすと、どっとした疲れに襲われて、そこで横になったまま、眠りについてしまった。
――もう、死んじゃいたいな。
そんな苦し紛れの一人言に、耳を傾けてくれる人なんて、ここには居なかった。
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