第3話 私が悪かったから

 これまでの13年間で一番大きい後悔は、この世に生まれてきたことだと、その時は、本気で思っていた。



 死にたい。死んでしまいたい。


 とにかく、誰の目からも、記憶からも消えてしまいたいと、神様にも仏様にも願っていた時期が、延々と続いたのだ。




――きたる春。


 中学校に入学して、【七瀬胡桃ななせくるみ】は、真新しい制服で身を包み、ウキウキと気分を高ぶらせていた。


 また一つ、お姉さんになったという気持ちが湧いて、学校がある日は、いつも上機嫌だった。



「初めまして♪どこ小出身なの?」


 入学してから一週間。まだ風に桜の匂いが残っているような時期だった。



 踊る心そのままに、隣の席の女の子に話かけて、その子の手を握っていた。



 隣のその子は、ちょっとおどおどとしながら「東小だよ」と答えてくれた。丸っこい黒ぶちの眼鏡を掛けていて、外側に跳ねる髪が可愛らしいその子は、大人しそうな雰囲気だけれど、すぐに打ち解けられた……


――と、錯覚していただけ。



「ああ、東小ね。私が通ってた西小より、頭悪いところね」

「あ……あはは……」



 女の子は、乾いた笑いを笑った。ちょっと気まずそうな感じで。


 次いで、「名前教えてよ」と聞くと、女の子は「……牧野まきのです……牧野さくら」と、また気まずそうな感じで答えた。



「へえ。可愛い名前だね。まあ、私のほうがかわいいけどね?」



 くるみは、終始ニコニコとしていた。何の悪意もなく、純粋な笑みだったはずだ。




 その時に「私の感覚がおかしかった」と気が付いていれば、あんな目に遭わなかったのかもしれないと、今は、トイレの個室で胃酸の不快感を吐きながら反省するのだった。



 苦しい、痛い、寂しい、気まずい、恥ずかしい……こんな思いをすると分かっていたら、私は、自分を変えられていたはずなのに、と思う。




 私は、ズレていたのだ。




****




 よく晴れて、春の桜が地面に落ちた香りが、風に運ばれて窓から吹き込む、温かい日のことだった。


 退屈な国語の授業の時間が終わった休み時間に、最近仲良くなった加崎と、牧野と机を囲んで談笑していた。




「見て見て。お父さんに入学祝いで貰ったお小遣いで、お花のネックレス買ったの!かわいいでしょ?」


 可愛いもの好きな牧野が、筆箱から小物を取り出して、くるみと加崎にそれを示した。窓から覗く太陽の光を受けてキラキラと輝くネックレスが、白っぽい手の上にあった。



 かわいい!共感して、彼女の手元からネックレスを取った。奪い取るに近しい形だった。


「かわいいね~でもこれ……」



 鑑定の人の真似事をしていたのだと思う。私ならば、真の価値が分かると思い込んでいた。


 ネックレスの裏表を順にじっくりと見て、次に太陽の光に照らしてみて、もみあげの髪を指でくるくるさせていじりながら、言い切った。


「安物だよね?近場の雑貨屋さんにテキトーに置かれてるやつだよね?この宝石みたいなお花、本物の宝石じゃないものね」



 自分には、すぐに見分けがついた。お母さんが本物の宝石が飾り付けられたネックレスを持っていて、それでいて、お父さんが宝石店に連れて行ってくれたことが何度かあったから、経験にものを言わせて、牧野が持ち寄ったネックレスの宝石を偽物、安物扱いしたのだ。


 もっとお金を払って、本物の宝石でできたお花のネックレスだったら、もっと良いのにと思って、「ありがとう」と言って、牧野に手渡して返した。




 眉尻を下げて、ちょっと表情が曇った牧野の隣、加崎が、眉をひそめて言った。


「言い過ぎだよ、七瀬さん……」


「えっ」と、口の端から声が漏れた。



 クラスで一番カッコいい加崎に、呆れた声を向けられたから、くるみは、石像の如く固まってしまった。彼のぱっちりとした瞳が細くなって、真剣みを帯びて見つめてくるから、心臓がドクドクと高鳴った。


 口先を尖らせる感じにして、加崎は続けて言った。



「たとえ安物だとしても、牧野さんがかわいいと思って買ったものに対してその言い方は、ちょっと酷くない?」


 私の言ったことが、酷かった?牧野ちゃんを傷つける発言だった?




 そんなつもりで言ったつもりはなかったから、口を結んだ顔のまま、言葉が喉元に突っかかって、本当に、声が出なかった。


 そんなつもりで言ったわけじゃないのに……と、謝意よりも、自分を守るための弁明を口走ってしまった。




「だって、それ、偽物の宝石じゃん……本物のほうが、キラキラしてて綺麗なんだよ……?」


 せっかく買うのだから、牧野には一番良いものを買ってほしかったなと思っていた。善意からのそれは、牧野が垣間見せた、暗い表情によって打ち砕かれた。



 ハッと、顔を上げた牧野は、満面の笑みを作って、くるみに向き直った。そして第一声「大丈夫だよ」と言い放った。


「くるみちゃんは、偽物の宝石でも可愛いって言ってくれたもんね!」



 牧野は、瞳を大きくするばっかりで、頬がつり上がっていて、笑顔の仮面を被っているだけなのだと、やっと察することができた。


 彼女は、形では笑っていても、本当は、笑っていなかったのだ。



 そして、気まずい沈黙を共有する三人。牧野が「トイレ行ってくるね」と言って、席を立った。彼女の背中が廊下へ出て、見えなくなったところで、加崎くんが整った顔をこちらに向けた。


「七瀬さん、後で謝ったら?」

「え、何で!?」



 私は悪くない。悪意なんて無かったと、当時は本気で思っていたのが現実だった。


 彼が言っていることが理解できずに、大きめに声を張り上げてしまった。響いた声が、クラスのみんなをこちらに振り向かせた。その景色は、加崎くんに呆れを向けられて、弁明に夢中になっているくるみの瞳には映らなかった。



 声を大にして、加崎くんに訴えかけた。


 あくまで、牧野に良い思いをしてほしかったのだという善意を前面に押し出して、口を開いた。


「せっかく買うなら、本物の宝石がついてるやつが良いに決まってるじゃん……絶対、その方が良いって……」


 くるみは心臓の高鳴りを抑えられず、背中に汗を伝わせた。視界が左右にふらふらと揺れていて、目に落ち着きが無いことを自覚する、


 どうして、どうしてこの気持ちが伝わらないのだろうと焦って、拳をぎゅっと握りしめた。




 そして最後に、加崎くんは吐き捨てるように、声を低くして言った。



「牧野さんが、自分はこれが良いって思ってるんだから、安くっても良かったんじゃないの」


 加崎くんは席を立って、黒板前でたむろしている男子の集団に混ざっていった。「何してるの?」という、彼の真っすぐな声が、クラスに蔓延した気まずい沈黙を突き破って聞こえてくる。


 ぽつんと、くるみだけが、その場に残されてしまった。



 周囲のクラスメイトたちは、くるみに哀れみの色を向けた後で、まるで「見ていなかった」かのように、一瞬の沈黙の間を挟んで、また互いに話し始めた。


 小学生の価値観を、ノリを、中学校にまで持ち込んだこと。自分だって、人間だから間違えることがある。



 間違えを正し、認めようとしなかったことが、大失敗だった。




 それに気が付くのは、もっと後の、何もかも手遅れになってからだった。




****




あの人さ、ぼっちで可哀そうだよね~


松村くんのお父さん、万引きで捕まったことあるらしいよ?


山下さん、岡田くんのことが好きなの?あんなに性格悪いのに?


浜田くんって、こんな問題すら解けないの?簡単なのに。私なら一秒でわかるのに。

 


 くるみが話しかけたクラスの人たちはいつも「うんうん」と頷いて、「そうだよね」と共感してくれた。


 でも、それは表向きの表情だけが共感の色を示していて、笑ってくれていただけ。



 本当はみんな、「くるみの性格の悪さ」に共感していたのだった。口の悪さ、傲慢さ、見下してバカにする態度の全てが、クラスメイトたちの「的」となったのだった。


 いつしかくるみに共感する者はいなくなって、代わりに、その「的」に目掛けて石を投げつけるようになっていた。



 意地悪の、いたずらの、いじめの、仲間外れの、絶好の的は私なんだと、いつしか気が付いていた。




****




 東京周辺の課外学習が行われることとなった。4人グループを作れと、先生が指示した。



 くるみは、きたる学校のビッグイベントに心躍らせながら、仲の良い人たちに声を掛けて回った。「私と班、組まない?」と。



「私は、中野さんと組むから、ごめんね」


 隣の席の牧野には、やんわりとした口調で断られてしまった。そのまま彼女は、ほかの女子グループの輪に混ざりに行った。



 女子グループは既に完成されていて、くるみだけが定員オーバーの状態。仕方なく、男子グループの方に混ざれないかと、歩み寄った。


「私のこと、入れてくれない?」



 交渉相手のグループは、あの、クラスで一番イケメンな加崎がいるグループ。彼の他に、二人だけが群がっていたから、自分がちょうど入れるのだと思った。




 すると、加崎くんグループの内の一人、浜田がくるみに迫った。この前、数学の簡単な問題が解けないことをからかった、あの子だった。



「お前のこと入れたいグループなんか、このクラスにはねぇよ。オレも、お前のこと嫌い、じゃあな」

「浜田くん、何てこと言って……」


 面と向かって、そう突きつけられたくるみは、石像のように固まってしまった。


 加崎は、くるみのことを擁護しようとする素振りを見せたが、結局、「他のグループに入れてもらいな」と、壁を作るようにして、遠ざけられてしまった。





——『お前のこと嫌い』





 その言葉が、やまびこのように、頭の中を何度も何度も反響した。


 みんなが席に座って、集まって、グループの目標やら当日巡るルートやらを話し合っている。「どこ行くの?」とか、「私が班長やるよ」という、仲睦まじげな会話が繰り広げられている。



 そんな中、ひとりぼっちで、くるみは黒板の前に取り残されてしまった。心臓がバクバクと叫んでいて、今にも破裂してしまいそうだった。首元に妙に冷たい汗を感じて、眼球の裏側が涙を溜め込んで、じーんと痺れていた。


「えっと……えぇ……」




……どうしよう、ひとりぼっちになっちゃった。「友達がいない人」みたいに思われていそうで、息が苦しかった。




 なんで、私がこんな目に遭わないといけないの?



 そういう他責の思考によって、過去のくるみは、毒されていた。自分が絶対に正しいと、思いこんでいた。




「おや、七瀬さん、余ってしまいましたか?」


 はっと、息が零れる声が漏れた。


 クラスの担任である、おじいちゃん先生が、くるみのすぐ横に立っていたのだった。先生がそう言った直後、みんなが一瞬だけ顔を上げて、黒板の前のくるみに視線を向けたのだ。


 その視線の一つ一つが、毒針のように飛んできて、くるみの体の奥深くに突き刺さった。



 視線が痛いという言葉は、まさにこれなんだと理解した。


「では、あそこのグループに混ぜてもらいなさい」



 先生は、手で教室の隅っこの席に集う3人組を指した。


 三人とも男子で、無口っぽい外見と雰囲気だった。三人のうち二人が眼鏡を掛けていて、レンズ越しの細い目には光が無かった。


 くるみは、誰にも聞こえないような小さく、しかし深いため息をついて、先生に示された三人組のグループのところに歩いて寄った。


 そこでさらに、禁句を口にしてしまったことを、今も後悔している。



「なんで、こんなところに…………」



 自分に合いそうにない、つまらなそうな雰囲気が漂うそこを「こんなところ」呼ばわり。その三人グループのところに歩み寄って、どっと椅子に腰かけたくるみに、また、クラスメイトたちの視線の棘が向けられた。背中に、頬に、額に、腕に、その棘が刺さっていた。


 グループのうちの一人、厚い黒淵の眼鏡を掛けた男の子は申し訳なさそうに、




「『こんなところ』でごめん、七瀬さん……」




 そのボソっとした一言の後、クラスがざわめいた。みんな、「七瀬」とか「あいつ」とか、「くるみ」とか言っているのが分かった。



 また、心臓がバクバク鳴り出した。それが止まらずに、恥ずかしさが、体の内側から這い上がってきた。




 また、人の心を考えられない言葉を吐いていた。初めて話す、その男子たちからの信頼さえも、くるみは自ら壊してしまったのだった。




――七瀬胡桃ななせくるみは、顔がいいだけのクラスの嫌われ者。



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