第2話 心は叫びたがっている
あの日から、ゆずるは「無口のやつ」として認知されるようになって、いじめの矢の的にされたのだった。弱々しく嫌がる様子が、クラスメイトたちの目には、おもしろおかしく映ったらしい。
たぶん七瀬が、ゆずるの居ないところで、クラスのみんなに向けて「ゆずるは無口のやつ!」と言い散らしたのだろう。
始まりは、雨がしとしとと歌う梅雨の季節の、何気ない、とある日だった。
「あれ……俺の椅子は……?」
朝、学校に登校したら、自分の席の椅子が無くなっていた。
突然のことに、手に汗を握った。背中にも冷たい汗が湧いて出て、歯と歯茎の間が、虫歯でもないのにじーんとした。
椅子が一人でに歩き出すなんて怪異を疑ったが、視線を周囲に向けて、それは違うということがわかった。
「どーこだ?」
机の前で石像のように硬直してしまったゆずるに、鈴の音のような可愛らしい声が届いた。しかし、その声からは、嘲りの色が滲み出ていた。
ゆずるに声をかけた金髪の少女は、あの七瀬である。「無口」と呼んできた、あの人である。
人形に魂を宿したような整った容姿で、ゆずるよりも身長が高く、見下ろしてくる。
「どこって……隠したの?」
「そうだよ。このままじゃ、授業受けられなくって先生に怒られるな!ほら、探さなねぇと!」
七瀬が机の上に乗って座る隣の席から嘲り笑ったのは、クラスのいじめっ子筆頭の唐松。頬を釣り上げて、目を細めて、嘲笑を笑った。
心がきゅっと締め付けられる、見えない痛みがあった。
これは立派な「いじめ」というやつだ。未だ幼く小さい頭でも、それを理解して、小さく、誰にも聞こえない溜息を、顔のサイズに合っていない大きな不織布マスクの下で漏らした。
周囲を見渡して、探し回っても、自分の番号のシールが張り付けられた椅子を発見できなかった。教室中の椅子を窓側から順番に確認しても、背もたれの後ろに6番のシールがくっついた椅子は、いっこうに見当たらない。
「正解は、校庭の端っこでした!!」
七瀬は、にやにやと目を細めながら、窓の外を指さした。
「あーあ。雨に濡れてヤバいよな?そのまま持って帰ってきたら、教室濡れてびしょびしょだ!」
いじめっ子唐松は、七瀬の隣に並び、窓の外を見て、次いでこちらをちらっと見て目を細めた。七瀬と目を合わせては、目を細める悪そうな笑みを作っている。
「かわいそう……」
「ゆずるくん、いじめられてる……」
唐松でもなく、七瀬さんでもないヒソヒソ声が、鼓膜を震わせた。その声は、背後から聞こえて来て、同じクラスの人の声なんだと、嫌でも察せられてしまった。
窓の外を見た。
絶え間なくざっと振り続ける雨に打たれた椅子の姿を、校庭の端っこ、それも、うんていの陰になるところに見つけた。窓から見る椅子は、握りしめた拳よりもずっと小さく見える。
どうしてそんなことをするのか、或いは、クラスメイトたちは、なぜこんな境遇の自分を助けてくれないのか。ゆずるには理解ができなかった。あの椅子が濡れてしまって、得をする人なんていないのに。
「なんでこんなことするの……?」
自分たちのものでない机の上に座る七瀬と唐松に迫り、たどたどしく、細い声で聞いた。
「あ、ゆずるくんが泣いてる!かわいそう!みんなに知らせてあげないとな!」
「あははは!」
唐松は目尻を釣り上げるようにして笑って、廊下に向かって走り出した。七瀬は、上品に、口元に手を当てて笑っている。
――為す事は下劣であるのに、その笑みは、どこまでも可愛らしく思えてしまった。
泣きそうで震えた声を口の端から零しながら、教室を出る。もちろん、校庭に取り残された椅子を取り戻すために。
唇がビリビリと痺れて、喉の内側が引っ付きそうになる渇きを覚えた。
足を絡めそうになりながら、階段を駆け下りる。
椅子が無ければ、授業を受けられずに、先生に叱責されてしまう。「どうして椅子があんなところにあるの!?」と怒られてしまうのではないかとも思い、恐ろしく感じた。
――なんとなく、先生さえも、かわいい七瀬と、その一味どもの肩入れをするんだろうと察する。
だれも、助けてくれはしない。
教室に戻ってきたゆずるは、自分の椅子を取り戻すことばかりに気を取られて、全身がびしょびしょになっていることに気が付かないでいた。雨水が衣服の隙間を流れる冷たさを自覚して、小さくくしゃみをした。
そんな醜態を種に、クラスには冷たい笑いと哀れみの花が咲いた。七瀬と唐松だけが、「ははは!」と明るい笑いを笑っていた。
****
またとある日、椅子が校庭に取り残された事件からまだ1週間しか経っていない。
「おーい、ゆずる!腕相撲しようぜ!負けたほうが、今日の給食当番な!」
いじめっ子代表の唐松は、授業が終わり、先生が職員室に戻ったタイミングを見計らったかのようにして、ゆずるを教室の中心の席に呼んだ。
ゆずるは渋々と、唐松に従い、教室のど真ん中へ。
断ると、また何をされるか分かったものではないので、「従う」という暗がりの茨道を、ゆずるは歩かされるしかないのである。
今度は、どんな理不尽を受けるのだろうか。それを考えるだけで喉が渇いて、歩みを進める脚が震えた。
ゆずるは、勇気を振り絞って、唐松に疑を投げつけた。
「きゅ、給食当番は、そもそも、唐松くんの仕事じゃないの……?」
言葉を喉に詰まらせながら、肘を机に立てる唐松に聞いた。
これでは、自分だけが不利益を被る可能性があって、唐松には「給食当番」という仕事をゆずるに押し付けるチャンスしかないと、声高に抗議したかった。なぜ、負けたらコイツの仕事を代わりにやってやらねばならないのかと、たいへん疑問に思った。
「うるさいな!男と男の勝負なんだから、文句言うなよ!」
「そうだよ!」
彼の張り上げた声に、七瀬が賛同の声を上げた。
「「「頑張れ~」」」
支離滅裂な理論で丸め込まれてしまって、ゆずるは沈黙したまま、唐松と右手を合わせた。周りに集まった数人のクラスメイトたちは、唐松を応援していて、ゆずるに声援を送る人は、誰もいなかった。
もちろん、七瀬も唐松のほうを応援していた。可愛い彼女の声援とクラスメイトたちの応援を一身に受ける唐松は、キザっぽく前髪をサッと手で払って、腕まくりをした。
今、始まる。理不尽なる、一方的な戦いが。
加賀美ゆずるという、腕も足も細く貧弱なる人間に、勝ちという選択は用意されていなかったのである。
「よーい、スタート!!」
「いっ……!?」
勝負は、あっという間の決着だった。スタートの声と共に、唐松は腕に渾身の力を籠めて、ゆずるの薄い手の甲が机に叩きつけられた。
ゴンという鈍い音が鳴って、骨が軋むような激痛に襲われた。
「いたい、いたい痛い痛いよ!!」
「おーい、もうやめてやれよ」
唐松の力は存外に強く、勝負がついたはずの今も、手を机に押し付けてくる。
血管が千切れてしまうのでは?骨が折れてしまうのでは?という不安と鈍い痛みが、キリキリとした苦痛を誘う。
そしてその末に、小指をぽきっと折られた。曲がるべき方向とは逆に、指を曲げられてしまったのだった。
唐松にとっては、衆目を集めるための必殺技のつもりだったのだろう。それと引き換えに、ゆずるは、骨が砕けるかと思うほどの激痛に襲われた。
「あああああっ!!!」
右の手の小指を押さえながら、教室の床の上を芋虫のように横になって転がった。
そんな様子を傍観して、クラスメイトたちは軒並み、嘲笑を笑った。
誰も、ゆずるを心配する様子を見せなかった。いや、一人や二人は心配してくれていたのかもしれないが、集団の勢いに飲まれて、かき消されてしまっていたのかもしれない。
「いえーい、オレの勝ち!じゃあ、給食当番の仕事、よろしくな~」
唐松は、教室の外の廊下にいた別クラスの友人と一緒におふざけを始めた。
周囲に集まっていたクラスメイトたちも「見世物」が終わった途端に、散り散りになった。ある者は、給食の当番の仕事をするために白衣に着替え始めた。ある者は、友達と談笑を始めて、ある者はトイレに向かうために教室を出て行く。
「痛い……ぅあああ……」
どうして、こんな目に遭わされなくてはないのか。なぜ、こんなにも可哀そうな俺を助けようとしないで、まるでゴキブリでも見るような目で笑うのか、嘲るのか。
ゆずるは、矛の向ける先なき怒りと憎悪と疑問と悲哀とに、支配された。
最初から自分が勝利する道は用意されておらず、非力な自分は、サッカークラブに所属していて力も強い唐松に、まさに「見世物」「笑いもの」にされるしかなかったのだと気が付いて、上下の歯をぐっと噛みしめた。
唇を噛んだから、鉄っぽい血の味がした。
「だ、大丈夫?ゆずるくん?」
「痛い、痛い、痛い……」
「保健室いこう」
たった一人だけが、俺に手を差し伸べてくれた。クラスの保健委員の子だった。痛みで思考を支配されたまま、彼女に連れられて、保健室へと向かった。
——廊下ですれ違った七瀬は、そんなゆずるの様子を見て、また笑った。
「……ふふふ、ゆずるくん、弱いんだね」
七瀬は口元に手を当てて微笑んでいた。その笑みは上品な形をしていたのに、泥水のような濁った嘲りの色が溢れ出るようだった。
「七瀬さん、ゆずるくんが可哀そうだよ!」
保健委員の女子が七瀬の魔の手から守ってくれて、ゆずるは保健室に到着した。早退して病院へ行って、受けた診断は「骨折」。
翌日、クラス集会が開かれ、唐松は先生から厳しく叱責されらしい。
七瀬や、周りで笑っていた人たちが叱責されなかったことを後に七瀬本人から聞かされて、腸が煮えかえる思いであった。頭の血管がきれてしまうのではないかと思うぐらいに、歯を噛みしめて、怒りに燃えた。
しかし、その怒りをぶつけることができる人は、誰一人としていなかった。
結局、怒っても誰も助けてくれないと悟って、無言のまま、ただ日々をやり過ごした。
——俺には、友達がいない。
****
またある日、休み時間に、クラスレクの催しで鬼ごっこが行われていた時の話だ。
「ふふふふ……ゆずるくん、足遅いね!女の子の誰にも勝てないんだ~!」
鬼である七瀬に追いかけられている。他の逃走者には目もくれず、ゆずるただ一人を狙い撃ちにして、追ってくる。
息が途切れ途切れで、肺が針を刺されたように激しく痛んだ。普段ろくに運動していない細い脚が、縄で縛られたような痛みを訴える。
「七瀬、挟み撃ちにしようぜ」
「いいよ~アスレチックの方から回って」
七瀬と、クラスの数人が結託して、対ゆずるの包囲網を作り上げた。鉄棒の方向からは、足の速い人たちが回って、アスレチックの方向からは、あの、いじめっ子の唐松が。
そして、背後からは、七瀬が追ってくる。追い込み漁のごとく、クラスメイトたちは、ゆずる一人を囲い込んだ。
「タッチー!ゆずるくんが鬼だよ!」
「っ――!!」
背後の七瀬に、背中を思いっきり押されて、顔から地面の土に着地した。ゆずるの鼻は、あらぬ方向に曲がって、掛けていた眼鏡は、フーレムがひん曲がって、レンズが粉々になった。
危うくレンズの破片が、眼球を傷つけるところだった。ゆずるは、目尻から涙を零しながら、ヨロヨロと立ち上がる。
「あ、ごめんね!強くタッチしすぎちゃった」
七瀬は、ケラケラと笑っている。クラスメイトたちは、「やりすぎだ」という感じで、しかし嘲る色が隠しきれないで、彼女の笑い声に、さらに嘲笑を重ねた。
「この……」
「なんだよ、七瀬ちゃんに文句あるなら言ってみろよ?」
この野郎、全員死ね!!と叫びたい気持ちでいっぱいだった。
自分が味わった痛みを分からせるために、ここに居る全員の鼻を折ってやりたい怒りが湧いた。こんな所業を成せる人間は、みんな死ぬべきだと、本気で思った。
しかし、涙が誘う
「なあ、ゆずる。七瀬がやったって先生にチクるなよ?チクったら、また指折るからな?」
唐松の手を貸してもらって、立ち上がる。その彼と視線を交えた。鋭い、野生の虎のような眼光であった。
それに睨まれてしまって、何も言えないままだった。
「先生に言わないでね、お願いだから」七瀬は、唐松に次いで、こう言って、ゆずるを一人置いて、みんなと校庭へと向かった。
そこでは、ゆずるだけを取り除いたメンバーでのドッチボールが始まった。
結局、先生や親には、このように説明した、「鬼ごっこをしていたら、転んで怪我して、眼鏡を壊した」と。
指を折られる、あの激痛を与えられるよりは、ずっとマシだった。
親に新品の眼鏡代を出してもらって、事は、ゆずるの記憶の中にだけに深い傷跡を残して、忘れ去られてしまった。
一週間もすれば、あの鬼ごっこでの出来事など無かったことのように、クラスメイトたちは、また、ゆずるのことを笑いものにしていた。
……死ね、死ね!お前らが嫌いだ、唐松、七瀬、常磐、森岡、有田、下村、藤島……!!俺が何をしたって言うんだ!?
****
筆箱をどこか隠されたかと思えば、その中を木工ボンドで固められた。お気に入りの鉛筆も消しゴムも、使い物にならなくなった。
朝に登校したら、上履きが無くなっていた。先生がクラス全体に聞いてみても、誰も知らないと「しらをきった」。
数週間後、植木の近くの土の中から発見された。クラス会議が先生の権限によって開かれて、犯人捜しのお時間。当の被害者のゆずるは、黒板の前に立たされたまま、怒りや不安や羞恥心で腹痛を抱えて、声にならない言葉を心の内側に反響させた。
——犯人捜しとか、どうでもいい!先生もクラスの人も、これ以上俺に関わらないでくれ!!
先生という、信頼を寄せたい「大人」すら、信じられなくなった。
水泳の授業へ向かうべく、男子は教室で着替えをしていた。
「隙ありっ!!!」
唐松に、体に巻いていたタオルを引き剥がされた。水泳のパンツを履こうとしていた最中だったので、ゆずるは、惨めにも裸体を晒した。
そこへ、図ったように着替えを取りに戻って来た女子が入室してきた。その中には、七瀬さんもいた。
「おいおい、見て見て!!こいつパンツ履いてない!!」
「「キャー気持ち悪い~」」
笑われながら、全裸で唐松を追いかけた。しかし、彼は運動神経が良く、一方ゆずるは足が遅い。
タオルを取り返すこともできず、結局自席に戻って、水泳着を着用した。終始、その様子をみんながクスクスと見て笑っていた。
一連の「おふざけ」によって、授業に遅刻したゆずるといじめっ子たちは、先生から酷く叱責された。
――え、俺も怒られなきゃいけないの?遅れたから?
――お前は……先生は、何も知らないくせに、俺を「不良」の生徒だと言うか?この無能教師め、死ね!!
心は、いつも怒り心頭で、叫び回っていた。しかし、また指を折られるかもしれないという恐怖、親を心配させたくないという気持ちから、言葉が出なかった。
結局、2,3年間の悪夢に満ちた小学生生活を耐え凌いだ。
人間不信がガッチリ身に沁みついて、誰も信じられず、友達が一人もできないまま、卒業を迎えた。
しかし、これで人生の「正しいレール」に戻ることができるのだ。
親でも友達でもない第三者に、人生を歪められるなど、自分が許さないし、納得できない。だから、その静かなる怒りを盾にしていじめを耐え抜いて、レールから脱線することを回避した。
心は、長年、風雨に打たれた木造の小屋みたいにボロボロで、いつ崩れてしまっても不思議ではなかった。
今日という日を、生きているのではない。
死んでいないだけだ。
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