蜘蛛の糸をつかむ

猫舌サツキ

小中学校編

第1話  俺をいじめた、クラスで一番かわいいヤツ


 ほんの些細なことが、人生の分岐点になってしまうことがある。



「おーい、ゆずる!」


 小学4年生の時に、それは起った。



 クラスメイトのうちの一人、唐松が俺、【加賀美かがみ佑弦ゆずる】を名前で呼んだことが始まりである。




 彼は、「一緒に帰ろうぜ」と言って、駆け寄ってきた。


 唐松は、クラスでも有名ないじめっ子だったので、極力関わりたくなかった。無言のまま、聞こえないフリをしてランドセルを背負って、自席を立った。



「待てよ」と、唐松は肩を軽く叩いてきた。急に呼ばれて、さらに肩を叩かれたものだから、体がビクっと震えた。



「何だよ……?」


 俺は、面白くない人間なんだから、他の人と帰ればいいじゃないかと思って、ぶっきらぼうな感じに返事をした。



 唐松は、振り向こうともしないゆずるの前に躍り出て、顔を覗き込んできた。


「今、無視しようとしたよな?なんでだよ?」

「いや……そ……」


 

 「そうじゃない」というただ一言が、喉に詰まって出てこなかった。


 お前と一緒に帰りたくないからだよ、さっさと失せてくれと、心は叫びたがっていた。しかし、口下手なゆずるが、そんな強い口調で言葉を飛ばせるはずもなく、たどたどしい感じで、結局、沈黙してしまった。



 黙って、首元を指で掻いた。これが、困った時のクセになっている。



 反応に乏しい様子をいいことに、唐松は、顔を異常に近づけてきた。彼の黒い瞳の奥に、自分の虚ろな表情が反射して映っていた。


「下駄箱でさ、オレの友達待ってるんだよ。お前も一緒に来いよ」と言って、唐松は教室を飛び出していった。



 なんだ、あいつ。



 ろくに話したこともない人間に「一緒に帰ろう」と急に言い出すなんて、何を考えているのだろうか。



 ゆずるは、人とのコミュニケーションがたいへん苦手であった。それはもう、生まれつきと言って過言でない。幼い頃から一人遊びを好み、友を求めようとしなかった。




――幼稚園に通っていた頃……


 折り紙で鶴を作る方法が分からなかった。薄っぺらい、作り方の指南書を何度読んでも、図面をじっと見て考えても、分からなかった。そこで、幼稚園の先生に聞くこともできず、隣の人に聞くこともできずに、「自分にはできない」と思って、あきらめた記憶だけが、小学生になっても、中学生になっても、ただそれだけが鮮明であった。


 人間には、できることに限りがあるのだと、幼げながら、何となく、悟っていたのかもしれない。



 一人で砂の山を、城を建てて遊び、小学生になってからも、帰って一人でクレヨンで絵を描いたり、ゲームをしたりするばっかりであった。





 だから今更、友達が欲しいとも思わなかったし、「友達」っぽいことをしたいとも思わなかった。一緒に帰ったとしても、面白い話ができるわけではないし、誰かの話を聞きたいとも思わなかった。


 ゆずるは、唐松の背中を追おうとはせず、どうしようかと考えながら黒板の前に突っ立っていた。すると、一人のクラスメイトが肩をぶつけてきた。



「邪魔、無口!黒板の掃除やらなきゃいけないから、あっち行ってよ!」


 彼女は、廊下の方を指さして、ゆずるの黒瞳を睨みつけた。


 

——七瀬胡桃ななせくるみ、それが、彼女の名前である。



 陽の光を浴びてキラキラと輝く金髪と、ワインレッドの色の瞳が印象的なクラスメイトである。父がイギリスの出身で、母が日本人ということらしく、フランス人形に劣らない美しさを持ち、他に類を見ない可愛らしさを醸し出す人だ。


「む……くち……?」

「ねえ、邪魔だって言ってるじゃん!聞こえてる!?」



 七瀬の高い声が、鼓膜にキンっと突き刺さった、


 人生で初めての「口撃」を受けて、言葉を喉に詰まらせた。「どいて」と、七瀬に何度も言われて、ようやく廊下へと出た。その足で、昇降口の階段を駆け下りていた。


 俺が、無口?



 疑問形になってしまったのは、人に初めて悪口を言われたからだった。「邪魔」とだけ、彼女に言われていたなら、言葉を詰まらせることもせず、黙ったまま帰路についていただろう。


 しかし、クラスで一番かわいいあの子が、自分のことを「無口」と呼んだ。それが、大きなショックだったのかもしれない。



 教室を一人で出て、昇降口へ向かう階段を下りる。



「無口……無口……?」


 七瀬から言われた言葉の棘を、何度も何度も、一人言で復唱した。無口なのは、性格の問題なので、しょうがないと自己完結していた。しかし、人に悪く言われたことが、心に黒い霧を吹きかけたように、モヤモヤと、いつまでも残留していた。


 無口でいると、友達ができない。友達ができないと、人生は楽しくなくって、つまらないだろうと、父に言われたことがある。



 それを思い出して、ゆずるは心に決めた。



——無口を治そう。友達を作ってみようと。




 昇降口まで降りてくると、そこから吹き込む夏の蒸し蒸しとした暑さが全身を襲った。風の音の隙間を縫って、男子たちが談笑する明るい声が聞こえてきた。



「ゆずるってやつがさ……」

「え、マジかよ……」


 名前を言う声が、はっきりと鼓膜に届いた。風のゴーっという音を貫いて、明瞭にそれが聞こえたのだ。


 その後にくっ付いてきたのは「わはは」という豪快な笑いと、「クスクス」という乾いた笑い。


 俺の何がそんなにおかしいのかと、ゆずるは思って、身をぶるっと震わせた。彼らは、自分を笑いものにしているのだという妄想が這いあがってきたので、自分の靴を手に持って、わざわざ昇降口の端っこに向かった。そこから柱の陰に隠れるようにして、ようやく学校の門を出た。



「逃げろ……」


 もしかしたら、自分の背中を見つけて、彼らが追ってくるかもしれなかった。それがとても恐ろしくって、小走りで坂を駆けて下り、ちょっと小高い丘に広がる林みたいなところを駆け抜けて、帰宅した。



 玄関の戸の前まで辿り着いた時の、なんという安堵か。



——口下手を治して、友達を作りたい。しかし、あの子たちに話しかけてはいけない、話しかけられてはいけないだろうと、何となく思った。



 家の玄関前で息を切らしながら、さっき駆け抜けてきた帰路へ振り返った。いじめっ子の唐松とその仲間たちは、追ってきてはいなかったし、七瀬が同じ時間帯に帰ってくる様子もなかった。



 七瀬は、家の近くに住んでいて、まあまあご近所なのである。歩いて3,4分のところだ。



――七瀬の邪魔になってしまったこと、唐松の、一緒に帰ろうという誘いを無視したことが、全ての始まりだったのだ。


 


 そうとは知る由もなく、「ただいま」と言って、台所で洗い物をしていた母に帰宅の挨拶を言った。

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