第15話 蛇に睨まれたカエル


 気まずい昼食の後、一人で机の上に突っ伏していた。自分の席は、教室の前方の窓側の隅っこなので、顔を伏せるだけで、あらゆる視覚的情報を遮断することができるのである。


……正直、昼食を食べただけなのだが、すっかり疲れてしまった。



 七瀬と二人きりの昼食ならば、ようやく慣れてきたところだったが、まさか、関わりなんて一切無かった来栖くるすと夏目とも時間を共有することになるなんて。


「はぁ……」


 眠い。疲れてしまって、とにかく眠い。



 五限目は英語で、六限目は現代文。最後は眠気のピークだろうが、授業の内容の面白さで言えば、随一だ。


 現代文では、小説とかを授業の中で学ぶわけだが、これは、絵を描くことにも繋がってくる。



 筆者の考える人生観とか、哲学が、絵を描くうえで参考になるのだ。


 彼らは文字で伝えたが、自分は、絵という形で表現するのである。その違いが、創作をする上で刺激になることもしばしば。


 例えば、太宰治の『人間失格』を読んだ後で、彼の顔を模写してみると、暗い色が強く出た顔が描き出されるのである。その暗い感じは、まさに、彼の作品を表しているようで、玉川上水を見つめた彼の瞳が、まさに描かれたのだと思った。



 自分の思考を置き去りにして、筆が白いキャンバスの上を走る。この感覚と、世界の偶然性とが重なり合った時、自分でも予想ができない傑作が生まれることがあるのだ。


 


…………



「なあ、ゆずる」


 顔を机に落として、色々と考え事をしていると、自分の名前を呼ぶ声があった。「ゆずる」と呼ぶのは七瀬のみだったので、彼女だろうと、すぐに予想がついた。



 しかし、この爽やかな感じは、七瀬のものとは異なる。


 重い瞼を開いて、鈍重な頭を起こすと、そこには、来栖の姿があった。


 

 隣は、彼の席ではないはずなのに、堂々と他人の椅子に腰を下ろしている。


 黒い瞳を縁取る瞼の形はシャープな感じで、まつ毛が長い。眉毛は短く、細めに整えられていて、唇の形も位置も、黄金比を表しているように美しかった。



 こんなに醜い自分なんかよりも、もっと整っていて美しい顔が、近くにあったのだ。


「……何?」


 低い声で、ぶっきらぼうな感じで聞いた。午後のほのかに暖かく、窓から差し込む日の光を背中に浴びていたので、眠気を誘われて、声も出にくくなっていたのだ。


 彼は頬杖を突きながら、それでも爽やかな感じのまま、言葉で迫ってきた。




「君は、七瀬さんと付き合っているのか?」



 は?



 何を言っているんだと、「はい?」と聞き直すような声が、口の端から漏れてしまった。あまりに見当違いの問いかけをされたものだから、どう答えていいのか分からず、言葉を詰まらせて、お得意の沈黙の牙城に引き篭もってしまうのだった。


 てっきり、次の昼食会の約束をするとか、あるいは、一緒に食べててつまらなかったと言われるのかと身構えたのだけれど。



 予想していた方向とは、まったく違う方向から殴られたような、まさに衝撃があった。



「いいや……」

「本当のことを言ってくれ。オレの、長年の恋愛眼は、誤魔化せないよ」


 来栖くるすは、漫画とかドラマのセリフみたいに、キザっぽく言った。しかし、そんな語り口調でも、容姿の良さとか、雰囲気の良さには、目を惹かれるものがある。



 長年の恋愛眼?たかが15、16年生きただけの人間が何を言っているのかと、バカにしたい気持ちがちょっと湧いて出た。それに、七瀬と恋愛的な意味で付き合っているという事実は無いので、彼の眼は間違っていると言わざるを得ない。



 たぶん、来栖の勘違いだろうと、流すつもりだった。



 ただ、彼女の家で、抱き合った記憶が、言い逃れの道に立ち塞がっている。



 思い出すだけで、頬に熱がカっと出るそれを思ったが、幸い、黒色の不織布マスクをしていたので、来栖に、頬の紅潮がバレることはなかった。


 それに、中学生の頃からずっと、今まで、一緒に家まで帰った経験もあるか。それを、まさか彼に見透かされているなんて、考えたくもないが。



——本当は、七瀬のことが人間としても、恋愛的な視点でも、気になっているなんて、口を彫刻刀で裂かれたとしても、言えない。



 だから、嘘をつくしかなかった。




「俺は、別に、七瀬のことが気になってたりはしない」

「いつから仲が良いんだ?聞いたよ、同じ小学校と中学校だったって」

「え……」


 聞く耳を持っていないらしい来栖は、顎に手を添えて、ひたすら一方的に聞いてくる。


 これは、引き下がる気が無いなと察して、適当に答えてさっさとやり過ごそうと思った。


「まあ、中学の2年の時から」


 すると彼は、獲物を見つけた虎のような鋭い眼光を向けてきた。あまりの来栖の気迫に、本能から、体がビクっと震え上がった。


「その時から、一緒に帰っているのか?!中学の頃から?」

「なんでそれ知ってるんだよ……」

「君がいない時に、くるみから聞いたんだ」



 あんまり声を大にしないでほしい。話している内容が、他のクラスメイトに聞かれた日には、川に身を投げるだろう。



 また来栖に裏を取られたような気がして、心臓を鷲掴みにされたようなぞわっとした感じが、全身に鳥肌を立てさせた。


 どうして彼が知り得ないであろうことを知っているのか尋ねれば、「七瀬に聞いた」という、彼らしい答えが返ってきて、「ああ、そう……」と不器用に納得を返していた。


 こうなってしまうので、人目がつくところでは手を繋いでほしくなかったし、仲が良いこともできるだけ隠したいと思っていたのに、時すでに遅しというやつだ。




 それはそうと、「くるみ」とはなんだ?いきなり名前で呼んでいるが、彼は、そんなに彼女と関係が深い仲なのだろうか。


「でも、まあ、君の気持ちは、とっても分かるよ。くるみは、かわいいよね」


 なぜか共感の意を示されて、さらに困惑してしまう。まあ、七瀬がかわいいというのは、否定のしようがない。

 


 七瀬に、誰も彼もを惹きつける魅力があることは、認められて然るべきであろうと思う。


 来栖は、見えない何かを警戒するようにして、背後を振り向いた。そこには、教室の入口近くの席があって、いつも、七瀬はそこに座っている。今は、他の女子グループに混ざってどこかに行っているらしく、姿が見えなかった。


 それから、改めてこちらに振り返った来栖は、何度も何度も頷いた。


「わかる。あの金髪、綺麗だよね。芸術作品の一部かと思うよね。それに、女子だけれど背が高いのも魅力的だ」


 一人で七瀬の良さを褒め称える来栖に「うんうん」と適当な納得を示しておきながら、一つ、気が付いたことがある。


 来栖というこのクラスメイト、さっきから七瀬の外見を褒め称えるばかりで、内面を評価する態度を示すことはないのだ。



 それで、本当にいいのだろうか。外見も大切な要素だが、内面あってこその人間だ。


「オレが告白したらいけるかな……?どう思う、ゆずるくん?」

「ええ……」


 来栖は、まるで接吻せっぷんを迫るかのごとく顔を近づけてきた。



――なんだ!?この人も、距離の取り方詰め方がおかしい人なのか!?



 あまりに距離感が近すぎるので、おずおずと、椅子を斜めに傾けて後退した。



「そもそも、俺は、来栖くんと七瀬がどこまで仲が良いのかすら分からないから、何とも言えない」


 頭のてっぺんを、窓から差し込む陽光がジリジリと焼いた。もう冬の口というのに、やけにその光が力を帯びて熱く感じられた。


 来栖に対して至極正論を放ったのだが、彼は引き下がろうという素振りすらみせない。「傍から見て、どう思う?」と、変わらず迫ってくる。


 まあ、来栖と七瀬とは同じクラスなので、二人が談笑している姿はたまに見かける。



 ただ、それ以外の時間で二人がどのような関係を築いているのか、自分は分かり得ないのだ。




――同じベッドで寝ていても、不思議じゃないなと思いつつ。




 二人の関係値は、自分から見えない箱の中の猫が知っている。


「わ、分からない……」

「そっか。じゃあ、聞くことを変えよう。——君は、くるみと付き合う気はある?」


 何でもかんでも、恋愛に関連付けて話を広げようとする来栖に、うんざりしていた。


 自分はただ、七瀬が友好的に接してくれるので、それに応えているだけなのだ。彼女が自分にとっての唯一の仲良しで、かつ、大切な存在であることは言うまでもないが。


 もし、自分が七瀬のパートナーとなるのであれば、それは、彼女に対して究極の失礼というものだと思う。


 あんな高嶺の花の彼女の恋人が、こんな根暗で口下手なやつでは、どうしようもなくて、失礼が過ぎるであろう。



――だから、本音である「好き」という感情は、心の奥底にしまっておく。



 来栖の、七瀬と付き合う気はあるかという質問に、短く答える。



「無い」


 言い切ってしまった。本音は、好きだと叫びたがっているが、付き合う気は無いと、断言しておく。



「それならよかった。ライバルは、少ないほうが良いからね」



 毎度のことながら、返答が鼻につくやつだなと思う。来栖は、そうやって自分に言い残して、廊下で談笑する男子グループのほうへと向かっていった。


 そして、彼が残した言葉から何となく察した。



……そうか、来栖は、七瀬のことを恋愛的な意味で「狙っている」のかと。



 あんな男、近くに居てもうざったいだけだろうと思うが、それはあくまで、加賀美佑弦かがみゆずるという一人の人間からの見方である。


 七瀬にとってみれば、来栖という人間が、とても魅力的に感じるかもしれない。



 自分は、人間関係とか恋愛的な対立やいざこざに巻き込まれたくはない。だから、それには関わらず、しかし七瀬とは、これまで通りに接していこう。


 彼女が優しく接してくれるならば、それに応え続けようと思う。



――もし、来栖と七瀬が惹かれ合うのだとすれば、悔しいが、自分には、七瀬を引き留める力も、魅力も、ない。



 「はぁ」とため息を零し、また机に対して、どこまでも深く突っ伏した。


 でも、午後の休み時間の終了のチャイムはすぐに鳴ってしまって、憂鬱とともに疲れを感じるのであった。



 五限目は英語か。嫌いだし、苦手だ。




 帰宅後。



 その日の描いた絵は、これまで描いたものの中で最もな傑作であり、同時に、今すぐに破り捨ててしまいたいぐらいの憎しみが湧いて出る作品であった。



 作品名、『蛇に睨まれたカエル』。



 中心に大きな蛇が描かれていて、その口元の光る牙と眼が、小さな体躯のカエルを狙っているという絵だ。



 来栖は、テストで、自分よりも高い点数を誇っている。来栖は、自分よりも容姿に優れ、頭がいい。そして、人間としても強い。



 蛇は、ギリシア神話において、「知恵」を表している。つまり、この蛇は、来栖なのである。



 カエルは、言わずもがな、加賀美佑弦という人間のメタファーである。カエルは、蛇にとっての絶好の獲物であり、絵の中の状況下での絶対的敗者なのである。


 それに対しての静かな怒りや、諦観をひそめたのが、この作品なのである。




 人生で、初めて【嫉妬】という感情に駆られた日だった。キャンバスの裏に鉛筆で描いた日付を、忘れることはないだろう。



――自分だけが、自分が最も七瀬と近しいと思っていたのに、残念だった。不服だった。

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