第14話 不安の種

 七瀬に手を引かれるままに、第一校舎の階段を下りて、体育館の隣の食堂へ。背後からは、来栖くるす夏目なつめを連れて。




 高校の食堂は広々としていて、前方には大きなステージを構える。窓が左右に張り巡らされていて、陽光を惜しみなく取り込み、ギラギラと目を刺す。


 一年生から三年生、ひいては、先生や事務の人の姿も散見される、談笑の声溢れる空間だった。


 これが落ち着かないので、いつも弁当を作って持ってきて、教室にて一人で、あるいは七瀬と昼食を摂っているというのに。



 半ば強制的に、煌びやかな空間に連れてこられてしまった。


 人の集まった塊を視界に入れるだけで、ちょっと胸がドキドキした。


「あれ、二人ともお弁当?」


 来栖くるすは、席に着いたゆずると、七瀬を順に見た。ゆずると七瀬、二人の眼前には、お弁当箱がある。


 七瀬が「今日は自分で作ってきたんだ」と言ったので、ゆずるは「俺も」と、食券を取りに行こうとする来栖くるすと夏目に聞こえるか否か分からないぐらい小さく縮こまった声で応えた。


「オレと夏目ちゃんは、あれ、買ってくるわ」


 来栖くるすは、食堂入口に設置されている食券の販売機のほうを指さして、隣に夏目を伴い、歩み出した。「夏目さんは、何を頼むの?」という来栖くるすの陽気で鼓膜に心地よい声が聞こえてくる。


「……」


 人が多くいて、話し声が溢れる空間は、正直、怖い。あらゆる不安が増大するのである。


 かといって、スマホをいじったり、本を読んだりすることに逃げることもできない。七瀬と来栖、夏目が一緒に時間を共有するのだから、それらに気を遣わなければと思う。


 手元の弁当だって、一人で食べ始めるわけにもいかず、黙って口を閉ざし、うつむく他になかった。



 手持無沙汰で、テーブルの柄の葉の数や花の数を数えていると、隣から鈴の音のような美声が飛んできた。


「お弁当、今日も自分で作ったの?」


 横をちらっと見ると、七瀬がこちらをじっと見つめてきていることに気が付いた。ゆずるは、弁当箱を見つめたまま「うん」と言って、小さく頷いた。


「中身見せてよー。あ、ちなみに、私はこんな感じ」


 七瀬は手本を見せるように、自分の弁当箱の蓋を開けた。


 みずみずしいキャベツの上には赤い一点のトマトが乗せられていて、白いご飯には、のりたまふりかけがかかっている。おかずは冷食のコロッケと卵焼き。しかし、卵焼きのほうは、ちょっと焦げていて、巻き方が甘く、形が崩れていた。別の二つの容器には魚の煮干しと、キウイフルーツが入っていた。


 全体的に彩りが豊かで、栄養が考えられていて、フルーツというデザートまで付いているのは、すごいと思う。


「おいしそう」と素直に感想を言ったら、七瀬は嬉しそうに、ほわっとした笑みを浮かべた。



 ああ、彼女も完璧な人間ではないのかと、心の奥底が温かくなって、安心した。人間を数字か、機械的な何かに思ってしまう節があったゆずるは、誰も知らないところで胸を撫でおろしていた。


 自分は、七瀬に何もかも勝てないと思っていた。しかし、卵焼きの形の整え方では、どうやらこちらに軍配があがるらしかった。


 彼女を模倣するように、弁当箱の蓋を開いた。


「卵焼きの巻き方、上手~」

「まあ、慣れだよ、慣れ……」


 七瀬から絶賛された卵焼きの他に、ミニトマトと冷食の唐揚げ、昨日の夕食の余りものの漬物と、ほうれんそうの胡麻和え、白米の上には梅干し一つが乗った、日の丸形式のお弁当だ。



 君が代は~



「量が少ないのは、俺、ロクに運動も何もしないから」

「人生の成長期なんだから、沢山食べないとだめだよ?」

「如何せん、胃袋が人より小さくて小食がゆえに……」

「ふふ、江戸時代のかた?」

「拙者、そうでござる」

「ぷっはは!」


 緊張からか、普段喋らないような言葉遣いが飛び出した。そんな、センス無いノリを、七瀬は笑ってくれた。


 また、彼女の顔を横目でちらっと見て、上下の歯を合わせて目を細めるニッとした笑みが向けられ、気恥ずかしい感じがして、視線を弁当に落とした。



 早く、この時間が終わらないかなと時計を見ても、まだ食堂についてから3分も経っていなかった。


 話し上手な三人を相手に、果たして自分の精神は持ち堪えられるだろうか、ただそれが不安で仕方がなかった。


「お待たせ」と、来栖が戻ってきた声を聞いて、胸の内側がビリビリと痙攣して、ざわめいた。



 カレーの香ばしい匂いが、囲うテーブルの周辺に満ちた。


 来栖は、大盛りのカレーライスを注文したらしく、添えられた福神漬けのちょっと酸っぱい香りが、カレーのスパイスの辛さに混じって漂ってくる。


「お待たせ、くるみちゃん」

「ん、お帰り、ハルカちゃん」


 他方、夏目さんは、餃子とサラダがお盆に乗った定食を持ってきて、来栖の隣に座った。



 円形のテーブルを囲って、昼食がいよいよ始まる。ゆずるの正面には夏目、右肩の隣には七瀬。その女子の間に挟まって、来栖が腰を下ろしている。円形なのに、その右半分に偏って座っている構図だった。


 雑談の口火を切ったのは、来栖だった。


 もちろん、ゆずるという口下手なはずがない。


「このカレー美味ウマいな」


 七瀬がコロッケを箸で半分に分けながら、来栖の作り出した流れに乗った。


「私も今度、頼んでみようかな~」

「え、まだ食べたことないのか?ここの食堂のカレー。もったいねぇ~人生の半分は損してる」


 カレーばかり頬張るせいで、ごはんが余りそうな予感を漂わせる来栖に、隣に座っている、つまり、ゆずるから一番離れた席で、夏目がツッコミを入れた。「いやいや」と言って、餃子に小袋の醤油をかけている。


 ニンニクの臭みがないので、どうやらサッパリした味付けらしい。


「人生の半分は、いくらなんでも言い過ぎだよ」

「それぐらい美味いんだって」

「まあ、美味しいのは知ってるよ。わたしも、食べたことはあるからね」


 来栖と夏目も、和気あいあいと昼食を嗜んでいる。その会話の輪があまりに温かいので、冷えきった自分が入る隙が無い。


 いつ、どのように話をすれば良いのか、一対一での会話よりも、ハードルが高すぎると感じていた。



 目に付いた餃子の話をすればいいかと思考を巡らせていると、「うちのバ先でも、カレーやってるんだよね」と、七瀬が別な話題の流れを作り出している。


「冷凍食品の餃子は、おいしい」という話をしようと胸に決めた時には、別な話の流れができていて、置いて行かれてしまうのだった。




 あれ、どうやって話せばいいんだっけ?口が、言葉を発する方法を呆けて忘れてしまっていた。


「あれ、七瀬のバイトって、たしか……中華のお店だっけ?」


 来栖が聞くと、七瀬は卵焼きを「おいしー♪」と食べながら応えた。


「そうそう。中華屋さんだけど、餃子とか、まーぼーとか、エビチリに並んで人気なんだよ」


 指折りしながら、お店のメニューを想起しているらしい七瀬は、次に小魚の煮干しに箸を伸ばした。表面の塩が、窓から差す陽光によって照らされてキラキラと光り、白っぽく輝いていた。



 いつものように、七瀬は、髪を耳にかける仕草をした。


 彼女にとっては、何の気のない仕草だっただろうが、ゆずるは、その金の輝きに等しい景色に、すっかり目を奪われてしまった。



「最近は、まかないでエビチリばっかりだから、そろそろ飽きてきたよ。丁度、カレーでも食べたいなーって思ってたところ」

「じゃあ、明日は食券買って食べれば?てか、明日のお昼もこのメンバーで食べね?」


 七瀬は、さらに袋からお手製のおにぎりを取り出して「いいよ」と来栖の提案に応えて返した。


 ゆずるは、来栖の言う「このメンバー」に含まれていないのだろうなと思って、ミニトマトをプチッと噛み潰して、甘酸っぱさを舌上に転がした。


「加賀美くんも、どう?明日のお昼」

「ああ……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう」



 来栖に誘われたので、というよりも、「この流れと雰囲気で断れない」という消極的な理由によって、その答えが零れてしまったのだった。


 他の三人が楽し気に昼食を共にしているから、ゆずるという、こんな「置物」ごときが雰囲気を壊してはいけないと思ったのである。本当は、教室で一人、あるいは七瀬とのみ、お弁当を食べたいと切望するのだが。


 三人が繰り広げる雰囲気の隙を突いて話を展開することが、どうしてもできる気がしなかった。


「加賀美くんはさ、バイトとかやってんの?」


 カレーを半分ほど食べ終えた来栖が、癖あってクルクルした髪を整えながら尋ねてきた。


「え……あ」


 しかし、まさか、自分に話のバトンが回ってくるとは思っておらず、反応が遅れて、言葉にならない声が漏れ出ていた。


 口に放り込もうとしていた、箸でつまんだミニトマトをお弁当箱に戻して、苦し紛れに、声を絞り出した。


「いや、やってない……」


 どうしよう、話が広がらない。



 聞いた側も、面白くないだろうなと、また不安に苛まれる。


 バイトをやる時間は十分にあるのだが、いかんせん、気が向かない。なぜなら、仕事やパート業務を終えた父と母が、「はぁ……」と大きなため息をついて帰ってきて、互いに愚痴を言い合うばかりだからだ。


 社会保険料が高すぎる、客のクレーム対応が辛い、面倒、薄給だ、人間関係が悪いだの、愚痴の濁流は留まるところを知らない。



 そういう、疲れ切った父と母の顔を間近にすると、バイトを含めて、働きたくないなぁと思うのである。



 ただ当然、生きるには金が必要だ。でも、働いてみたいとは、どうしても思えない。



——だから、何か困ったら、死んでしまえばいいと、最近思うようになっているのである。死が、何もかもを解決する手段のように思えてきた。



 いけない。また周囲を無視して、自分の思考にふけってしまうところだった。




「やっぱ、真面目で頭脳明晰な加賀美くんのことだから、帰ったら、勉強三昧なの?どうなの?」

「あ……いや」


 続く来栖の問いかけで、正気を取り戻した。不安が増大する度に、それの値を0《ゼロ》にしたくなって、死にたくなる。


 希死念慮の妖怪に憑りつかれて、常に虚ろな目をしたゆずるは、彼の声によって現実に引き戻されたのだった。


 問いかけは、帰宅後の時間の過ごし方。勉強はあいにく、好きではなかった。嫌いまではいかないという、絶妙な感覚だ。



「勉強は、あんまり好きじゃないから、全然やってない。最近は、絵を描いてるよ」

「え、初耳なんですけど」


 ゆずるの言葉で、すぐに、七瀬が反応した。ワインレッドの色の、ガラス細工みたいにきれいな瞳が、こちらを向いている。



 来栖はカレーを食べる手のスプーンを止めず「へぇ~」と反応したが、反対側の席を見ると、夏目さんの食べる手が止まっていた。ジト目の上目遣いで、こちらをじっと見つめてきている。



 七瀬は、目を真ん丸にして、興味を引かれているというアピールをしていた。


 雰囲気から、捕捉で説明が求められている気がして、ゆずるは、最近の家での自分の様子を想起して、俯瞰して説明してみた。


「えっと……写実的な表現は得意じゃないから、最近は抽象画を描いてるよ。筆と、絵具で。パソコン買ったら、デジタル絵もやってみたいなーって思ってる」

「写実的って、どういう意味?」


 来栖がごはんを口に含みながら、こちらをまじまじと見ている。身振り手振りを交えながら、説明のための言葉を吟味した。



「ええと……写実的っていうのは、目に見えるそのままを絵に描くことだよ。リアルに描くことって言うと、もっと分かり易いか」

「今度、見せてよ。どんな絵描いてるのか、気になる」


 こちらに、まばゆいばかりのニコニコとした笑みを向けてくる七瀬。


 覚悟を胸に、スマホを取り出し、無言でその画面を七瀬に示して見せた。



……自分で描いた絵を人に見せるのは、初めてのことだ。


 どんな反応をされるか、全く分からなかった。もしかしたら、「気持ち悪い」と吐き捨てられてしまうかもしれないと思うと、胸のあたりがきゅっとして苦しくなった。


「これが、描いた絵の写真ってこと……?」


 七瀬は、スマホを手に持って、それをまじまじと見つめている。隣からは、来栖と夏目も覗き込んでいた。


「最近描いた二つの作品だよ。左のは、俺の……自分の顔を抽象的に描いたやつ」


 画面の左に表示されている絵の題名は「苦悩」という題の絵。これは、たしか、2週間ぐらい前に描いた作品だ。



 背景のキャンバスが真っ黒に塗りつぶされていて、中心には、苦悩に満ちた自分の似顔絵的な形が赤色で描かれている。


 髪がすべて抜け落ち、頭皮が剥き出しになっていて、眼球のあたりのまぶたが液状化していて、今にも目玉が零れ落ちそうになっている自画像の抽象形という、食事中には相応しくない、グロテスクな絵だったかもしれない。



 個人的には、赤と黒の組み合わせは、不安な感じがして、落ち着くから好きだった。


「これが、加賀美くんの似顔絵……?本当に?」


 夏目が疑問府を浮かべて、目を細くしたので、こくりと小さく頷いた。


「なんか、怖い絵だな……」

「ゆずる、こんな怖い顔してないと思うんだけど……」


 来栖は眉を寄せて、七瀬はスマホの画面とゆずるの顔とを順に見た。そして「鼻筋の形が綺麗で、髪もサラサラで、柔らかい表情なのに」と、ちょっと嬉しいことを言ってくれた。


 しかしながら、自己という内側から見たゆずるという人間は、こういう顔に見えるから、こうやって描いたのだ。外から見た自分と内から見た自分の比較という意味が籠められていると言えば、それらしいか。



「なんかあるの?絵の裏側に込めたメッセージとか」

「まあ、自分の劣等感とか、醜さとかを表現してるよ」


 来栖の質問に答えて、


「なんか、凄い。本当にあるように見えるし、リアルだけど、こんな形は絶対ないとも思える」

「リアルと夢が混ざったみたいな絵にしようと思って描いたから、そう言ってもらえて嬉しいよ」


 七瀬の感想に応えた。



 作品に関して、事細かに説明し終えて、次に、スマホの画面右の絵についての解説を始めた。


 みんなが、興味あるように耳を傾けてくれているので、少しは落ち着いて言葉を紡ぐことができる。



 大丈夫、きっと、この人たち……七瀬と、来栖と、夏目なら、これらの絵のメッセージに気が付いてくれる、理解してくれると、作品の説明を終えて思う。


「右の絵は……フェルメールの『牛乳を注ぐ女』っていう絵に描かれたものが、全部、液体になりそうになってたらっていう発想で描いた絵」



 ちなみに、フェルメールとは、オランダの画家で、『真珠の耳飾りの少女』なんかが有名だ。


「ええ……凄い。その絵、知ってるけど、どうやったら、そんな発想ができるの……?」


 七瀬が持つスマホを覗き込んだ夏目さんが、初めて、自分にものを尋ねてくれたと、内心ちょっと嬉しかった。



「まあ……美術の教科書を眺めてたら、なんとなくで、思いついたよ」


 スマホの画面が映し出す絵は、牛乳が入った陶器も、それを持つ女性の顔も腕も衣服も、バケットに入ったパンも、部屋の壁も、半液状になりつつあって、ドロドロとした質感になっている。


 この半液状になった物が放つ「不安定感」が、最近、とても気に入っている。


「……天才だ。こんな発想、オレにはできないし、何より、絵が上手いし……」


 

 来栖から過大な評価を受けて、謙遜すればよいか、素直によろこんでいいのか迷ってしまって、視界が左右に揺れた。



――でも内心は、やっぱり、嬉しい。



 自分の数少ない努力を見てもらえて、好きに言ってもらえて、嬉しかった。体の温かさは、七瀬と身を寄せた、あの日に匹敵するものがあった。


「こうやって作品を作っておけば、もし、明日、自分が何かしらの出来事で死んでしまったとしても、残るじゃん?だから、なるべく多く作ってみたいなって思う」



 みんなは、加える説明を聞いて、深々と頷いて、理解を示してくれていたようだった。



 来栖は、食べ終えた皿のスプーンの柄を指で撫でながら「哲学者だ」と言った。


 そんな尊大なものじゃないよ、と思いながら、それは口に出さなかった。



 単に友達が居なくって、絵を描くこと以外やることがないので、一人で色々と考える時間が人より多いというだけなのだ。だから、もちろん「いかに生きるか」とか、「いかに死ぬか」という、ちょっと踏み込んだことを考えたりもするのだ。



 そうして、お昼の時間はゆっくりと過ぎ去った。七瀬たちとは「また作品ができたら見せる」という約束をして、その日は解散した。



 どうやら、次回以降の昼食の集いに参加する理由を作ることができたようだ。



 そのために、また絵を描いておこうか。

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