第16話 ヤバカッコいい先輩!
学生証よし。配布されたエプロン(洗濯済み)よし。スマホよし。シフト表とか、財布とか、メモ帳が入ったいつものバッグ、よし。「彼」から貰ったポーチと、リップクリームとかも、よし。
「バイト行ってきます、お母さん……っと」
私は、いつものようにスニーカーを履きながら、家族間の連絡用メールにメッセージを送った。家の庭とか、玄関とかには、防犯カメラがいくつか設置されているから、わざわざ連絡しなくてもいいと思うのだけれど、お母さんは用心深い。
家を出るときは、必ず連絡を入れることと、母に口酸っぱく言われてきた。
返信はすぐにあって、通知音がバッグの中から響いた。
「気を付けてね」と、一言だけ、お母さんから返信があった。
お父さんからは、満面の笑みのキャラクターのスタンプが送られてきた。
それを確認して、次いで、玄関に立て掛けられた姿見で自分を見た。
金の髪はサラサラしていて、最近新しく買った、お高めのヘアアイロンの効果がバッチリ、発揮されている。長すぎる髪をポニーテールの形に結んでおいて、外出用のパーカーとジーンズにも汚れ一つないことを確認した。
「おっけ、完璧。今日も
姿見の前でウィンクを決める姿を見ていると、自分に惚れてしまいそうなぐらい、愛おしく、可愛かった。
バイトを始めてからというもの、自分が可愛く思えて堪らなかった。
バイトは、母の勧めで始めた。
「社会経験になるから」と、これまた口を酸っぱくして言われ続けて始めてみたのだ。週三回の、水曜日、木曜日の夕方と、土曜の昼から夜まで。週3日。
いざ、駅の近くの中華料理屋さんで働きはじめてみると、多忙でありながら、刺激に溢れていて、楽しくて堪らなかった。
——何より、すごくカッコよくて優しい先輩がいるから、楽しくなってしまうのである。
自転車を漕いで30分ぐらいで、バイト先の駅に到着する。家から発つ日もあるし、学校から直接駅に向かう日もある。
その駅を目印に、さらに2,3分漕ぐと、いよいよバイト先の中華料理屋さんに到着するのである。
自転車を敷地内に停めて、
「お疲れ様でーす」
くるみが挨拶を飛ばすと同時に、厨房に立つ店主のおじさんがくるっと振り向くのである。仕事上は、「店長」という立場の人である。
「おお、くるみちゃん。お疲れ様。厨房ね」
「了解です!」
店主のおじさんは、忙しそうに中華鍋を振るっていて、その隣では店主の奥さんがチャーハンの為の野菜を手際よく切って、炒めている。さらに接客とか会計のほうを、一個上の歳の高校生の男の子がやっているという状況だった。
土曜日という週末の、夕日が傾いた時間帯で、これからが特に忙しくなってくる。
すぐに店の奥の部屋に入って、服装を整えてエプロンを身に着ける。
すると、どうやらトイレから戻ったらしい「彼」の爽やかな声が聞こえてきた。
「あ、くるみ」
「あ、先輩!お疲れ様です!」
彼のご尊顔を見るだけで、胸が躍ってキュンキュンする。
彼は、ここの先輩の【雪村リョウ】である。近くの大学に通っている2年生で、落ち着いていて、誰にでも、分け隔てなく優しく接してくれる人なのだ。
私が「休憩ですか?」と聞くと、
「うん」と、頷きながら返してくれる。
そうしてリョウ先輩は、多分、まかないである餃子を一つ箸でつまんで、食べていた。ちょっと醤油をつけすぎている気がするが、彼は気にせず、美味しそうに食べている。
店から配布されたエプロンの紐を後ろ手に縛りながらも、視線は、彼の細く白っぽい手と、Tシャツの襟もとからひょっこり覗く鎖骨に奪われていた。
ちょっと気持ち悪い趣味かもしれないが、彼の鎖骨のラインを指でなぞりたいと思うのは、これで何度目か、もう数えきれない。
あわよくば、鎖骨を舐めたいと思って……
「それじゃ、私、厨房入ります、リョウ先輩♪」
「んー。頑張って」
くるみは一息、深く空気を肺へと吸い込んで、気持ちを切り替えた。
これから、猫の手も借りたくなるぐらいに忙しくなることを覚悟している。それでも、彼と時間が一部だけでも被ることをうれしく思う。
厨房に向かう私の背中に向かって、彼は軽く手を振ってくれた。
もう、それだけでやる気が100倍も200倍も上乗せされるぐらいに、気分が高揚する。彼に、テキパキと手際よく動いているところを見てほしくって、自然と、笑顔も前向きになっていく。
「あ、くるみちゃーん!今から、電話取るから、お豆腐切っておいて~」
油と肉が焼ける香ばしい匂いが充満した厨房に入って、バイトの先輩である若葉が、まな板の上に包丁を置いていた。厨房には、電話が鳴る電子音がピロピロと響いている。
くるみは、若葉先輩の仕事を引き継いで、豆腐を慣れない手つきで切った。力を入れ過ぎると形が崩れそうになってしまうし、加減が難しいところだ。
「はい、こちら、中華雷鳴丸ですっ!」
若葉先輩は、厨房と店内とを隔てる壁を突き抜けるぐらいに、高らかな声で電話の受話器を取っている。店長の奥さんが豚肉を焼く音に紛れて、来週末の団体のお客さんの予約がある旨の話が、電話の向こう側の人の声と、若葉先輩の声として聞こえてくる。
先輩の声を聴きながら、手元の包丁とお豆腐に集中し直す。
たぶん、これは麻婆豆腐用の豆腐なんだと考えて、既に小さいブロック状に切ったそれをザルに移して、軽く水気を切って、鍋に入れる茄子やらピーマンやらの野菜を準備していた。
すると、「七瀬ちゃん」という、私を呼ぶ細い声があった。
「こっちで酢豚作ってくれないかい?麻婆豆腐は後で大丈夫だよ。あと、こっちにネギとサラダ油そのままちょうだいな」
店長の奥さんの声は細くって、店内が混んでくると聞こえづらいから、注意して耳を傾ける。
まず、奥さんの要望の通りに、足元の冷蔵庫からネギを一本取り出して、まな板の隣に置いた。次いで、油はどこにあるのかなと、辺りをぐるっと一瞥した。
容器に並々と入っている油を奥さんのほうに差し出したのだが、ここでミスに気が付いて「あっ」と声が漏れ出た。
「ごま油じゃなくって、サラダ油を頂戴ね」
「す、すみません……」
間違えて持ち出したごま油を元の場所に戻して、果たして、サラダ油はどこにあるかなと探し回った。すると、反対側の調理台の上のボウルの裏に置かれたサラダ油を見つけた。
それを持って、エビの殻を剝いている奥さんのところに急いで持っていった。「ありがとね」と言われて、ほっと胸を撫でおろし、頼まれた酢豚の調理に取り掛かった。
忙しい……
それに、火を使っている厨房には熱が籠って、さらに右往左往と動き回っているので、額や背中にじんわりと汗が湧いて出た。時計をちらっと見ると、午後の7時を回っていて、仕事帰りらしきスーツ姿のお客さんも増えてきた。
「いらっしゃいませー、何名様でしょうか?」
同じバイトの、同い年の男子高校生が、入口でお客さんを迎えている。厨房の私たちも「いらっしゃいませー」と元気な声で挨拶を飛ばす。
しかし、あまりにお客さんが多く入店してくるので、手が足りなくなってきていた。特に、オーダーやら会計やらと、席とテーブルの消毒作業やらを一人で受ける男の子の方が苦しそうだった。店内を走り回っては、度々、注文を聞き直していた。
肉をレンジに入れて解凍を始めた若葉先輩に、店長が振り向いた。
「若葉ちゃんは……今無理か、オーダーの方」
「いやあ、無理っすね。他でお願いします」
店長は、水道で手を洗いながら、次いで、私の方に目をぎょろっと目を向けた。
「七瀬ちゃん、オーダーの方、手伝ってやれるか?」
どうしよう、奥さんに頼まれた酢豚が順調に完成へと近づいていて、とろみが付き、良い匂いがしてきたところだから、手を離すことができない。それでも、店長に助力を求められているし、相変わらず、男の子の方が忙しそうだ。
オーダーも厨房も会計も、役割分担は臨機応変に、というのが、ここ「中華雷鳴丸」での働き方なのだが、こういう時に困ってしまう。
「すみません。もう少しで酢豚できるので、これが終わったら……」
「そうか。まあ、しょうがないか、まだ一年やってないもんね。やってるうちに、早くできるようになっていくよ」
暗に「仕事が遅い」と言われていることに気が付いて、胸がドンと重くなった気がする。
店長は私から目を逸らして、今度は、オーダーのメモを頼りに、二つの中華鍋をコンロの火にかけ始めた。油がジューと鳴って、湯気を噴き上げる。
私は、店長に「頼りないな」と思われてしまったと感じて、完成間際の酢豚を混ぜるへらが、さっきよりも重く感じた。まだここでのバイトを始めて一年経っておらず、当然、先輩たちよりも手際の良さで劣る。
そして、私の家では基本的に、母が料理をしていたので、経験が浅いということも、足かせになってしまっているようだ。
ごめんなさいと、心の中で謝りながら、その謝意を示すように、酢豚をしっかりと完成させられるように努めた。焦がさないように、しかし丁度いい火の通りを意識して。
オーダーの仕事に回るために、厨房を出ようと、へらを洗い物置き場の水に浸けたところで、「救世主」が、店の奥の扉を開けて厨房に現れたのだった。
女子の中でも身長が高めな私と目線が真っすぐに交わる彼は、リョウ先輩である。
「店長、忙しそうですね」
「しょうがないよね、土曜の、この時間帯だから」
言いながらも、リョウ先輩は、オーダーの紙とボールペンを手に持っている。
「オーダーと会計回ります。手が足りない時は、また呼んでください」
「すまないな、リョウくん。またエビチリのまかないでもあげるから、頼んだよ」
「エビの量二倍でお願いしますよ?」
「分かった、分かった。ありがとうな」
リョウ先輩は、エプロンの紐を結び直しながら、お客さんの注文に回った。
休憩時間を返上してまで、手伝いをしようと出てきたリョウ先輩。彼が振り返って厨房から出て行く時の横顔のラインが、白い照明に照らし出されて、より美しく私の目に映った。
嗚呼……カッコいい。
彼の美貌と強さと、こんな余裕のありげな雰囲気は、一体どこから来るのだろう。
エビチリをお皿に盛りながら、うっとりとしてしまった私は、ハッとした。彼が休憩時間を削ってまで出てくれているのだから、私は、もっと頑張らないと。
使い終わったフライパンやら皿やら包丁やらを洗う仕事に、すぐに就いた。主人は店長という立場から「仕事は自分で見つけるもの」と教えてくれたことを思い出した。
私が今できることは、洗い物とか消毒とかの仕事だ!
「七瀬ちゃん、手が空いたらこっち手伝ってくれないかい?」
奥さんの声を聞き分けて、「はーい」と大きな返事を返した。
ちょっと重い鍋を振るい、店内を駆け回り、お客さんにオーダーを聞いてまた戻って……
そうして、私たちの忙しい土曜日の夜は、放たれた矢の如く、あっという間に過ぎ去っていくのである。
でも、心優しい人たちと共に、そして何より、リョウ先輩と一緒の時間に働けることが励みになって、私の心を躍らせてくれるのであった。
楽しい。
すっごく楽しくて、幸せだ。
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