第12話 幸福の廉価販売人
七瀬は、いたって真面目な顔だった。そんな顔で突然、彼女らしくない言葉が飛び出したものだから、ゆずるは目を見開いて、金縛りに遭ったように硬直してしまった。
「ほら、どんと来ーい」
両腕を広げる七瀬。彼女の美貌と豊かな胸が、ずいずいと迫ってくる。
頬と首元に、マグマを当てているのかと錯覚するほどの熱が溜まった。その熱によって思考が侵されて、頭がボーッとしてくる。
こんなに可愛い女の子の胸を触って良いと?
女性には苦手意識がある。
――しかし、女性の体は好きだ。好みだ。
微かな期待と共に腕がちょっと伸びたが、理性がそれに突っ込んで、引き留めた。
「おかしいだろ」と。
頭の裏側に飼いならしていた理性が、コントのようなツッコミを入れてくれたおかげで、凶行を防いだのだった。
「ふっ……」
思わず噴き出してしまった。ただでさえ常に薄い表情が緩んで、顔がにやけて鼻の下が伸びていたはずだ。
七瀬の普段とのギャップがある発言が、とても面白おかしく思えた。
「どうしたの?おいでよ~」
「いや、おかしいだろ」
小学生の頃から知り合いで、登校への道と帰路を共にして、お弁当のおかずを分け合う仲とはいえ、それは
親しい仲にも礼儀ありと言うではないかと、理性は、欲に酔った頭を叩き起こしたのだった。
——本音を言ってしまえば、本当は、本当は、触ってみたかった。女の子のことが好きだから。
その柔らかさな感触の記憶と曲線の美しさで、絵が何枚も描けて、数学の公式が好きになって、ごはんが何杯も食べられそうな気がした、が、それは止しておいた。
「慰めてくれようとしてるのは分かる。ありがとう。でもさ……いや、やっぱりおかしいだろ」
「じゃあ、ハグでどう?」
「はあ!?」
これでもかってぐらい、顔を近づけて来る七瀬。
肩に手が触れて、ブルブルと体が震えた。こんなに女の子と距離が近づくなんて、母と以外、経験がなかったので、とにかく、心臓の音がうるさく聞こえて高鳴った。まるで、全身のすべてが心臓になったかのように、脈拍がドクドクと波打っていた。
背中に汗が湧いて出て、頬や首は熱いのに、腹の底はさーっと冷えた。
「まあ……ハグぐらいなら、いいのか?本当にいいのか……?」
「いいよ」
「ほんと……?訴えられない?」
「訴えないよ」
感覚を乱されてしまって、その誘いに拒否感が薄かった。胸を触らせてもらうよりかはマシかと、勝手な解釈が独り歩きしてしまう。
本来、抱き合うという行為は、とても親密な間柄の人が交わすものという考えが一般であろう。七瀬と自分とでは、そこまでの仲ではないかなと思いながら……
どうにでもなってしまえと、遂に思考を放棄して、腕を前方へと伸ばしてみた。
七瀬は、背中に手を回してきて、手のひらで上下に優しく
「……」
正味、恥ずかしい。
互いに無言の内に、腕で引き寄せ合う。その際に、七瀬の豊かな胸の双丘が自身の胸と重なった。彼女の体の内側の心臓の鼓動までもが、体温の温かさを伴って伝わってくる。
彼女の髪が纏う、香水かシャンプーの花の
やばい。これはヤバい。吐きそうになるぐらい恥ずかしくって、そして、幸せだ。
人間は、ハグによってストレスの軽減やリラックス効果を得られると、ネットの記事か何かで読んだことがあるが、それは本当のようだった。
全身がフワフワと浮遊するような、妙な多幸感に包まれていた。
心臓の早い鼓動の奏では次第に落ち着いていって、呼吸も整い始めた。
すぐ耳元で、七瀬が呼吸をする、すーっという音が心地よく聞こえてくる。
「どう?心が落ち着いてくるでしょ?お父さんも、私が落ち込んでるとぎゅーしてくれるし、お母さんだって、私を叱った後に絶対、抱きしめてくれるんだよ」
「ああ……まあ、確かに落ち着く、けど、恥ずかしいんだよな……」
「うはは!
もう、一分以上は抱き合っている。ちらっと瞼を開けてテーブルの上を見てみると、ココアの湯気の勢いが衰えつつあった。
もし、こうしている間に、七瀬の母か父が帰宅してきたら?
自分は、ご両親に謝罪しながら顔を真っ赤にして走り出して、近くの川に身を投げるだろうと、ゆずるは奥歯を食いしばって、そう思った。
七瀬が囁く声も、笑う声も、いつもよりも大きく聞こえる。
「あ、ありがとう、七瀬さん。もう大丈夫だよ」
ゲームの回復魔法みたいに、もう十分に癒してもらえたので、腕の力を弱めた。しかし、離れようとすると、より強い腕の力で引かれた。
心臓と心臓が重なるのではないかという距離まで密着させられた。体と体の間にあるのは、衣服の布だけ。ドキドキしてしまっているところや、汗をかいていることがバレてしまいそうで、さらに心臓と肺が悲鳴を上げた。
「まだ、私がしたいの」
まずい。このままでは、幸せの過剰供給で圧し潰されてしまう。こんなに安価で……というか無料で、しかし、効果絶大の幸せを手にして、本当に許されるのだろうか。
もう、この幸せの味を忘れられなくなってしまう。
彼女のハグが無ければ、勉強も、絵を描くことも、働くことも、生きることも、何もかもがままならず、手に付かなくなってしまう気がする。
手遅れになってしまう前に、自分の方から元の感覚と関係を取り戻さなくてはと、焦燥に駆られた。
彼女の背中をトントンと叩いて、諭す。
「こういうのは、七瀬さんの好きな人としなよ……」
「そうだよ?私のぎゅーは、本当に好きな人としかしないよ」
ただのジャブ打ちを、ミサイルの爆発の一撃で返された、そんな感覚だ。
たぶんこの【
――現に、ゆずるは、七瀬のことがもっと好きになってしまいそうになっている。
叩いて、暴言を吐いた、こんなに自分と釣り合わないぐらいに綺麗で純粋で可愛い人が、自分のことを好きになるはずはない。
「あー……七瀬さんが中学生の時に、クラスの人から嫌われてた理由が分かった」
「え、ほんと?」
別の話題にすり替えることで、この羞恥を忘れてしまおうとした。
また、七瀬さんが傷つきかねない話を引き出したが、当の彼女は「教えて欲しい」というような、期待混じりの声色だった。
彼女が中学時代に嫌われていた理由は、ずばり、今の「コレ」である。
「距離の取り方詰め方が、おかしい気がする。バグってるっていうか……自分の『好き』とか、『話したい』っていう気持ちが先行してない?」
ようやく、ハグの柔らかな拘束が解かれて、ソファーに座り直す。ココアをもう一度口にしたのだが、もう温かいというより、冷めていて、ぬるいという表現が適切だった。
恥ずかしながら、七瀬の顔をちらっと見て伺ったのだが、ぽかんとした表情で、イマイチ分かっていないようだった。
「七瀬さんって、話し相手にズイズイ距離詰めるじゃん。初対面の人でも、色んな人に対して、めっちゃ積極的に話すし、聞くし、何なら高校生になった今も、女子の背中に抱き着いたりしてるじゃん。そういうのが苦手な人もいるからなぁ……うん」
「えー、私、ウザかったかな……」
肘に手を添える七瀬。赤っぽい瞳が落ち込んで、左右に揺れていた。過去の自信を顧みて、言ったところの「ズレ」をしみじみと思い出しているようだった。
ただ、それは過去の話。今の七瀬は、過去の毒が抜けた、別な良さがあることを伝えたかった。
「いや、積極的なのは、悪いことじゃない。俺は、七瀬さんが羨ましいぐらいだよ。だから、ノリっていうか……空気読んで、その場の雰囲気をよく確かめて、相手と話せばいいと思うよ」
正直、彼女が羨ましい。
誰とでも壁を隔てずに関わることができて、話す時に言葉に詰まることがない。気持ちだって、傍から見ていて軽快で、いつも明るい調子。
そんな心持ちが、才能があれば、自分も、もう少し幸福な道を歩めていたかなと、ゆずるは思った。
「焦らなくても、仲良くなれるよ、七瀬なら。まあ、でも、友達できたことない俺が言うのも、どうかと思うけど」
気が付けば、首元を指で掻く仕草が露呈していた。
「ちなみに、ゆずるは?積極的に話しかけられるのは、どう?」
「……嫌いじゃない」
首をちょっと傾げた七瀬に、返答を返そうとして、また言葉を吟味する。
七瀬は、中学の【あの日】依頼、友好的に話しかけてくる。帰路を共にして、彼女の話のネタは、底を突くことを知らない。
そして、そんな彼女の話を聞くこと、話しかけられることに、悪い気はしない。ただ、未だに心臓が高鳴ったりするので、好きとは、少し意味合いが異なる。かといって、嫌いというわけではないのだ。
弁当の作り方を共有するのは楽しかったし、最近七瀬がハマっているバンドグループの話なんかは、聞かせてもらっていると価値観の幅が広げられるのだ。
だから、この微妙な感情を表現できて、かつ、七瀬の気持ちを慮って、「嫌いじゃない」という言葉を紡ぎ出したのである。
七瀬は、返答に納得したようで「そっか、そっか」と小さく首を縦に振った。
「人前では、ハグとか、手を繋ぐとかも無しで。俺が恥ずかしくて死ぬから。あと、勘違いされたくないから」
それと、七瀬へ忠告というか、助言を。
彼女は、どうしても、他人との物理的な距離を詰めようとしがちである。それも、急速に。
休み時間にちらっと様子を伺ってみれば、仲の良い女子には背中から抱き着くし、男子でも話す時に肩を叩いたり、相手の手を触ったりしていることを見かける。
それに極めつけは、こんな自分に自らの胸を触らせようとして、挙句、ハグまで交わしてしまったという…………
その距離感は、ゆずるにとって、悪い気はしないのだが、その感覚を外に持ち出さないでほしいと、お願い申し上げる。下手をすれば、七瀬と付き合っている、なんて噂が広まりかねない。人間関係のゴタゴタは、面倒くさそうだから御免だ。
こちらからのお願いに、七瀬は「うんうん」という具合に、また首を縦に振った。しかし、悪戯っぽく、目を細めて、上下の歯を合わせたニッとする笑みを浮かべた。
「じゃあ、私とゆずるくんだけの時に、さっきみたいにハグするのは、ゆずるくん的におっけー?」
「うーん……んー……七瀬さんが嫌じゃなければ、どうぞ、お好きに」
七瀬は、目を細めてニコニコしながら、ゆずるの右手の指を揉む。
血行がよくなりそうだなぁと思いながら、そっと手を引いた。こういうボディータッチが多いのは、育った環境による影響なのだろうか。
小学生の中学年頃になると、母とも父ともハグなんてしてなかったと、幼少期を顧みたゆずるは、ぬるくなった甘いココアを飲み干した。心も、体も、一連の事でほっとしたような気がする。
七瀬さんと抱き合った時に、体と精神から、あらゆる毒素が流れ出るあの感覚が余韻として残っていて、脳裏に焼き付いて離れなかった。
——女の子の胸って、めっちゃ柔らかいんだなと、胸に胸が当たった感覚を思い出して嬉しくなって、恥ずかしくもなった。
帰宅後。
ネットにアップされている写真を見ながら、アフロディテ像の裸体を模写した。
七瀬と抱き合った際のあの感触を、柔らかさを思い出しながら、細緻な技巧を凝らして、筆を躍らせるように描き進める。
描いている間にも、今日の恥ずかしさを思い出して、一人、クローゼット奥の暗いアトリエで赤面していた。
作品名、『幸福の廉価販売人の模写』
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