第11話 おっぱい揉む?

 心臓が、ドキドキと早い鼓動を打っている。



 洒落た玄関の上下の鍵を開錠した七瀬によって、中へと招かれる。


「どうぞ~お父さんもお母さんも、夜まで帰ってこないから、リラックスしてね」



 七瀬のご両親にどのように挨拶しようかと、必死で思考を巡らせて言葉を考えていたために、七瀬のその言葉に安心させられて、風船の空気が抜けるようにして脱力してしまった。


 恐る恐る、玄関で靴を脱ぐ。つま先までビシっと揃えて置きながら、壁に飾られた絵画に目を惹かれた。


 絵を飾る?そんな文化は、うちにはないぞと、ゆずるは思って、七瀬がお金持ちの両親を持っていることを察した。



 塀で囲まれた、テラスや芝生の庭と、ついでにガレージ付の広い家、壁には絵画。



 改めて思って、凄いなと思った。



「今、ココア作ってくるね。ここで座って待ってて。あ、荷物はそこらへん置いておいてもらっていいよ」

「は、はい」


 深く沈み込む、座り心地の良いソファーの上、背筋を伸ばして待機していた。背負っていたリュックは、彼女に指さされたソファーの脇に置いた。



 第一印象、広い。そして洒落シャレている。



 広々としたリビングを、大きな窓から覗く陽光が照らし出していて、フローリング床のあちらこちらに、肌触りの良さげなラグやカーペットが敷かれている。ドアの脇には観葉植物の鉢植えがあって、さらに、玄関からリビングへと続く扉は、人感センサーによって自動で左右に開閉していた。


 なんというハイテク。


 さらにさらに、リビングの真ん中には、ピアノが堂々と置かれているという完璧さ。



 まさにお金持ちの家といった感じだ。



 開いたままの扉の向こうの部屋には、落ち着いた雰囲気の机と本棚が並んでいて、本がびっしりと並んでいる。


……読みっぱなしで、元の場所に戻さず、本を縦に積んでしまう自分の家とは違うなと感じて、あっけにとられていた。



「お待たせ~あったかいココアをどうぞ」

「ありがとう。いただきます」


 青い花柄のマグカップが、目の前のテーブルに置かれた。


 ココアの甘い香りが、白い湯気とともに立ち昇っている。わざわざカップの下に敷く小皿(ソーサー)と、かき混ぜる用の小スプーンまで付けてもらって。



 なんて丁寧なおもてなしなんだと、感心した。突然の訪問だったから仕方がないのだが、手土産の一つもないことを悔いた。せめて、彼女の好物のチョコ菓子の一つでも持っていれば、と思う。


 周囲を改めて一瞥して、広く、煌びやかで、生活感が無い感じで、まるで絵に描いた西洋の洋館みたいだ。



「広いね」

「ん?何が?」

「七瀬さんの家のことだよ。あと、きれいに片付いてる。俺の家みたいに、飲みかけのペットボトルが転がってたり、カップ麺の空き容器が机に置きっぱなしとか、そういう感じじゃないから、すごいなーって思って」


 こまめな片付けや、掃除の習慣があるのだなと推察する。



 ゆずるの実家、つまりは、加賀美家では、読んだ本が元の場所に戻されていなくて縦に詰まれていたり、未開封の請求書や契約書が食卓のためのテーブルの隅にまとめて置かれていたり、そこでリモコンを紛失したり……そういうことが起こっているのである。


 特に父は、片付けができない人だ。


「ゆずるくんは、片付け苦手なんだ」

「いや、どちらかというとお父さん。お父さんが、片付けが出来なくて、お母さんがイライラしてるし、最近は、飲み終わったお酒の空き缶とか、食べ終わった食器そのまま放置して床で寝たりしてる……」


 最近の加賀美家の夫婦喧嘩の火種は、父のズボラで燻っている。



 夜遅くに仕事から帰った母が、床で涎を垂らして寝ている父を見て、深々と溜息をついていることが日常になりつつあった。



 まあ、殴り合いとか、そういう深刻なレベルの喧嘩ではなく、「口撃」で争う、かわいい喧嘩の類なのだが。


 そんな話で、七瀬は「なにそれ、おもしろ!」と、クスっと笑った。


 面白いか?いや、常に整った環境にある人にとっては、おもしろエピソードになってしまうのだろう。



「俺は、まあまあ片付けできるけど、お父さんが特に酷いって話」


 まあ落ち着いて、ココアの入った熱めのカップを傾けて、一口、それを頂いた。


 口の中にココアとミルクの甘みが広がって、それでさらに心を落ち着けた。ストレスと不安から来る腹痛と腹まわりの違和感は、七瀬と話しているといつの間にか消えていた。


 父の話で関連付けて、「七瀬さんのお父さんはどんな人なの?」と聞いてみた。



 七瀬は、肩を寄せてソファーに座りながら、本が並ぶ書斎のほうを見て口を開いた。



……シャンプーの香りのような匂いがする。


「私のお父さんは、イギリス人で、大学で働いてるんだ。専門は……えっと、イギリスと日本の文化、だっけ?」



 思わず「おお……」と感心の声が漏れた。


 ゆずるは社会科、特に、歴史について興味があったので、七瀬の父について聞いてみて、心臓が、緊張とは別で高鳴った。



 イギリスといえば、名誉革命、産業革命、大きな帝国あるいは立憲君主国……という具合で、単語がポンポンと浮かぶぐらいには、知識があった。


 サラサラとした質感の金髪を撫でる七瀬を横目に見て、そういえば、イギリス人の血も混じっているのだと改めて実感する。こんな自然な金の髪は、血縁が日本人のみではありえない。



 すごい、外国人の血が混ざると、日本人とは別な美しい容姿になるんだなと、彼女を例に見た。本当にかわいいと思うし、老若男女の目を惹くのも当然な気がした。



「でもね、研究のほうにハマり過ぎて、あんまり家に帰ってこないんだよね。土日しか、家族揃ってごはんを食べられないんだ」


 七瀬は、自分で持ってきたココアを一口飲んだ。長い髪を耳に掛ける仕草をした。




 恋愛に興味は無かった。七瀬に、そういう感情を抱いたことは無いのだが、今の彼女の横顔を見ていると、人間としての尊敬の念とか、顔の曲線美とか、そういう感性をくすぐられて、胸がドキドキした。


 温かいココアを舌の上で転がして「ふう」と一息ついた彼女は、自身の父について、もう少し詳しく語ってくれた。



 ドアが開けっぱなしの、本棚が並んでいる部屋を指さしていた。


「あそこは、お父さんの書斎で、本は全部お父さんの。玄関の壁に絵があったでしょ?あれも、お父さんが買ってきたの。イタリアの旅行のついでって言ってたかな。優しくって穏やかで、頭もよくて英語教えてくれるし、私は、お父さんのことが大好きだよ」


 ニコニコしながら父を語る七瀬の顔をちらっと見て、英語の授業での彼女の姿をふと思い出した。




「14番、七瀬さんどうぞ」と先生に指名されて、席を立った七瀬が真っすぐに黒板へ向かう姿が、記憶の引き出しの奥にあった。


 ゆずるも含めて、彼女が左右に揺らす黄金の色の髪の美しさに目を奪われていた。



 コンコンと、ホワイトボードを打つ水性ペンの音が早く、リズミカルだった。筆記体の滑らかな曲線が、アルファベットを書き慣れているということを暗に示している。


 もちろん、先生は、英語が得意な七瀬の回答に対して、赤の水性ペンで大きな丸を描いた。「はい、正解ですっ!」と、分かりやすく声を上ずらせて、上機嫌になっていた。


「ふふん♪」


 自席に戻る七瀬は、満面の笑みでニコニコしてたなぁと、学校での光景が鮮明に思い出された。


 それは、おそらく、父から身近で教えられた英語能力の賜物であろう。




「いいなぁ。一教科でも、教えてくれる人が身近にいるって」


 ゆずるの両親は、勉強が得意ではなかった。



 だから、英語の関係代名詞について聞いても「分らん。もう覚えてない」と父に応えられ、数学の作図について聞いても「いいもの持ってるんだから、それで調べな」と母にスマホを指さしながら言われた。


 お陰で、インターネットや教科書を読み込んで、「自分で解決する」という力が育てられたというのは、また別の話だが。



 本当に、本とインターネットがあって良かったと思う。これらが欠けた世界で、加賀美佑弦かがみゆずるという弱い人間は、生きてはいけないだろう。


 

 そんなゆずるの両親を、七瀬は悪く言うことはなく、むしろ「でしょ~」と、自分の父を誇らしげに思っているらしかった。


「最近『親ガチャ』っていう言葉あるでしょ?私のお父さんは、大当たりだなって思う。ホントに」


 隣の七瀬は、もうココアを半分ほど飲み終えていた。


 話の流れが家の事に関してや、親のことについてだったので、それの流れに乗って思わず「お母さんは?」と聞いてしまった。それが謝りだったと気が付いたのは、横目で七瀬の白い頬を見た時で、もう手遅れで、言葉が口から飛び出した後だった。


 七瀬の顔が曇って、言葉を詰まらせた。


「お母さんは……」




——中学生の頃に一緒に帰っていて、『めっちゃ痛いんだよ?酷いよね~』と笑顔の仮面を被った彼女が思い出された。




 今は薄くなって、ほとんど見えなくなった頬のアザは、自分が叩いて付いたものではなく、母に叩かれて刻まれたものだと、彼女自身が話したことを、思い出した。


 彼女の表情を見る限り、無用なことを聞いてしまったと痛く分かって、無神経に踏み込んでしまったなと、猛省する。


「ご、ごめん!その……」



 謝意の言葉が、気持ちを押し退けて飛び出した。


 しかし、明確に「お母さんのことを聞いて申し訳ない」と伝えることができなかった。「母」という言葉を出すことも、七瀬の傷に塩を塗ることと同義ではないかと思って。


 傷つけられてた側の人間は、そのことを絶対に忘れやしないということを、自分はこの世界で最も知っていると言っても過言ではないはずなのに……


 


どうして、どうして、こうも自分の口は、言葉を紡ぐのに下手なのか……




——七瀬さんを傷つけた。また、再びに。今度は拳という物理的な痛みではなく、言葉という精神的なナイフで切り付けてしまった。


 深い後悔の念に苛まれたゆずるは、手で顔を覆って、うつむいた。


「マジで……ごめん……」

「だ、大丈夫だって!ゆずるくんが落ち込むことじゃないって……」


 声が涙声になっていて、聞くに堪えない震えた音になっていた。


 もちろん、人前で泣きたくはない。そう思っていても、罪の意識の重さに耐えきれなくなった涙の一滴、また一滴が、頬を伝った。



 もう七瀬のことをまっすぐに見れない。自分の惨めな顔を見せられないと、顔を手で覆っていても、手と頬との隙間から涙がボロボロ零れた。


「無用なこと聞いて、ごめん……七瀬の気持ち、考えられなかった……」


 謝るための言葉を吐き出す度に、嫌な記憶が脳裏から這って出てきた。


 七瀬や、クラスメイトにいじめられた痛み、七瀬の頬を叩いた夕日の紅の景色、先の見えない世界に不安を抱えた気持ちを、次々と思い出した。しかし、それは言葉にして吐き出すことはできず、結局腹痛と吐き気になって表現されるのである。




「落ち着いてよ……おっぱい揉む?」



「は?」



 一転、痛みも、不快感も、涙も、悪い記憶も、全てが引っ込んだ。

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