第9話 ヨハネの寄り添い

 相変わらず、くるみはクラスで嫌われていた。


 それも当然、レッテルは「人の悪口を言う性悪な女」である。クラスのみんなが、それを認識しているから、話しかけたとしても、やんわりと断られて、離れていく。


 グループ活動やら修学旅行やら体育の授業やらで独りぼっちになる度に、今すぐ死にたくなるぐらいの羞恥に苛まれる。



 ゆずるに頬を叩かれたあの日に、ようやく自分の認識のズレを自覚したのだけれど、クラスの人たちから信頼を得ることはできなかった。




 どうして、信頼を築くのは大変なのに、崩れるのはあっという間なのだろう……





「ごめん、待たせちゃって」



 冬の肌寒さが、全身を包み込んで針のように刺す季節の放課後……



 私が駆け足でテニスコート前の用具倉庫の影に向かうと、必ず、彼が待っていてくれる。心の内側には、いつも「ありがとう」と、どこまでも深い感謝が満ちていた。


 そして彼は「いいよ」と短く言って、相変わらずな、眼鏡の下の凛とした瞳の色のまま、隣を歩いてくれる。私が生涯で一番傷つけてしまった人間のはずなのに、私を許してくれて、むしろ、『叩いてごめん』なんて言って謝られてしまう。



 もう二度と独りぼっちにならないように、そして最も……あの日々の後悔と彼への謝意を忘れないために、彼とできるだけ一緒にいたい。



 くるみは、強く思い、それを願っていた。


 だからこの前の修学旅行も、ゆずると一緒に回ったのだ。金閣寺も見に行ったし、通天閣の展望室まで一緒に昇ったし、串焼きやたこ焼きだって、対面の席で食べた。



 それも、もう一か月前。




「数学は、先生が出してるワークの問題やっとけば大丈夫だよ」

「そうか」

「来年はもう受験生かぁ……不安。ゆずるくんは、どこの高校行くかって、決まってたりする?」


 思い切って彼に聞いてみた。どこの高校へと進学する予定なのか。



雪摩西せつまにし高校だよ。今のところの第一希望は、そこ」


 ゆずるは、高校の名前のみを完結に答えた。



 私が何かを聞いた時や、答える時に、彼は律儀にこちらに顔を向けてくれる。その顔が、態度が、輝かしくって、正直に言って、良いなと思う。



雪摩西せつまにしって、あの、制服が可愛くって、文化祭が凄いところ?」

「……まあ、文化祭は凄いか。そこのカリキュラムと校風が、自分に一番合いそうだなって、思ってる。あ、音楽科があるところ」


 音楽科があると、ゆずるが思い出したように言って、自分の記憶が正しいことを確認した。「ああ、あそこね」と。同時に言って、その高校はたしか、偏差値が高めのところだったようなことを思い出した。



 休み時間は、いつも参考書を解いているゆずる。希望の高校の名前を聞いて、やっぱり勉強ができる人なんだと、改めて確認した。



「あそこの高校、距離は近いけど、偏差値、けっこう高いよね。流石ゆずるくん」

「世辞はしてよ」


 短く言って、また道の先を見るゆずる。彼の目には、いったいどんな未来が見えているのだろうか。



——彼と、同じ高校へと行きたい。



 その思いは強いのだが、勉強が苦手だ。数学がもともと得意で、父が英国の人だから、英語は苦労していない。でも、社会と国語という文系科目が特段苦手だと、くるみは自己を反省する。



 今の成績では、たぶん、彼と肩を並べて高校には進学できない。


「そっか。頑張ってね。あと、数学が苦手って言ってたよね?分からないことあったら、私に聞いてよ。教えてあげる」


 ニコニコしながら、私は癖で、自らの金の色のもみあげをクルクルさせて指でいじっていた。



 ゆずるは、「助かる」と言って、一度、首をコクっとさせて頷いた。そして、私のノリに合わせるように、珍しく長めに、一息で言った。



「七瀬さんも、社会科と国語、分からないことあったら、聞いて。俺の得意科目だから。あと美術なら……いける」


 丸淵の黒眼鏡を、指でくいっと上げる仕草が、くるみの目を惹いた。いかにも、頭が良さそうで、でも、口調とか態度が落ち着いていて、さっぱりしている。



 そっか、社会と国語が得意なのか。ついでに美術。


 理系っぽい私とは真逆の文系気質だなと、づくづく思う。性格も真逆で、彼は、態度も気持ちも落ち着いていて、あらゆる事象を達観できている。独りぼっちであるとしても、決して絶望せず、取り乱さない彼が輝かしく見えて、ちょっと憧れる。



 ひとりだとしても強く、堂々と前を向いて歩けるような彼のようになりたいと、思う。



「ありがと。お互い、頑張ろうね、受験」

「はい」



 話がちょうど終わったところで、くるみの家に到着した。緑を枯らした木々の合間から、微かに沢が流れる音が聞こえてくる。



 玄関のところで背後へ振り向くと、ゆずるは、こちらに小さく手を振ってくれていた。


「またね!」


 声を張り上げて、明日までの別れの挨拶をした。


「またね」


 彼は、挨拶に応えてくれて、小さく手を振った。その後に、彼は自分の家へと歩み出した。




 とても寒い一日だったのに、頬がカーっと熱くなって、玄関の姿見を見てみると、ちょっと紅を刺したように赤っぽくなっていた。



――もしかしたら、彼となら、もっと仲良くなれるかもしれない。





****





 猛勉強した。母に怒られずに済んで、なおかつ、彼と同じ高校へと進学したいがために。


 帰路を共にしたゆずるは、読書を勧めて、オススメの本を紹介してくれた。



 太宰治の『人間失格』を、試しに、図書室で借りて読んでみた。自室の机で、勉強の休憩がてら、ゆっくりじっくり読んでいると、母が三度のノックの後に入ってきて「本読んでるの珍しいわね」と言う。



 本を読むのは苦手だったが、ゆずるに「語彙が身に付くし、生きるうえでの考え方を探せる」と言われたら、頑張って読んでみた。



 読み終えての読後感は、驚きだった。


 太宰治は、昭和の文豪というイメージで、良い家生まれの頭が良い人ということだけ知っていた。


 しかし、『人間失格』は、彼のイメージと相反していて、驚かされた。


 良いお家の生まれでも、借金や女遊びをして、ふらふらと生き延びて、結局死んでしまうんだという、物語によって、価値観が洗われたような気がする。





 ああ、こんな生き方をしても良いんだと、感想が湧いた。



 大庭葉蔵※あるいは、太宰治のような生き方をしても良いんだと、結局は、何を為しても、誰であっても、みんな最期に土へ還るのだと、思った。



※『人間失格』の主人公の名前




****



 テストで良い点数を取り続け、母には褒められて、叩かれることは無くなった。


 休み時間、友達はいないけれど、読書と勉強に集中してしのいだ。幸い、一年の時に苛烈ないじめをしてきた朝倉さんは、もう二度と同じクラスになることはなかった。


 帰りの時間、時には休み時間をゆずるくんと共有して、分からないことを教え合ったりした。





――そうして、来る春……



 私は、雪摩西せつまにし高校の合格証書を手にしていた。



 帰りの途中でゆずるにそれを見せると、彼は、これまで見たことがない、真ん丸な目をした。



「偶然……じゃないよな?」

「私が、この高校の制服かわいいなーって思ったり、この高校の文化祭が楽しそうだなーって思ったからね」

「偶然じゃないでしょ。俺と、一緒の高校行きたかったんでしょ」


 笑みで取り繕っていたけれど、真意は、お見通しだったらしい。



「うん……だって、私と仲良ししてくれたの、ゆずるくんだけだし……」



 彼は、「そっか、そっか」とだけ言って、



「おめでとう」


 と、たった一言の救いの言葉を投げかけてくれた。


 その一言のために、たぶん、頑張ってきたのだと、くるみは思う。「ありがとう」と、ちょっと震えた声で返したのは、気づかれていないだろうか。瞳の裏に、涙を隠していたことは、バレていないだろうか。


 気づかれてしまっていたら、くるみは恥ずかしくて死んでしまう。だから、その涙を隠すために、またにっこりとした笑みを彼に届けた。



「春からも、よろしくね」



 ゆずるは、また短く、



「はい、よろしく」



 と言った。


 木々は緑色の葉を飾りはじめて、ソメイヨシノは、桃色に染まり始めていた。

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