はこべら
シャッターのように瞳を開けると真っ白なキャンバスのような景色が広がっていた。見慣れない天井、ゆっくりと顔をあげるが、ずきずきと痛みが走り上手くいかない。
「三久斗、起きたか」
聞き馴染みのある声、けれど明るくて甲高い声ではなく低い声。首を曲げて頭を傾ける。そこには椅子に座った父がいた。
「うわっ!」
「うわってなんだよ、ひどいな」
彼は持っている携帯電話から顔を上げてぼくを見つめる。状況把握のために周囲を見渡すと、見覚えのある光景だった。特有の匂いが、はなにつんとくる。
「道端で倒れったて聞いて駆けつけたよ」
おでこ部分を触ると、指で触れた部分に針で刺されたような痛みが走る。殴り合いでもするような性格ではないんだが。そこで見透かしたように「熱中症だ」と彼が記憶を補う。言われてみれば外出したような気がする。
「昨日ってなんかしたっけ?」
「いや、特に何もないんじゃないか」
父は少しの間を置いてから、あやふやに答える。強く打ったのか、昨日のことがうまく思い出せない。
「まだ病院からは出られないらしい、安静にしてろ」
父はカットしたリンゴを皿に乗せて、差し出してきた。料理はできないんじゃなかったけと思いながらもそれを口に運ぶ。甘さが口に広がる、いつぶりかの食感だ。
だが、それにしても気まずい。父とはこの数日間話していなかった気がする。また、後継問題で喧嘩したのだろう。せっかくの二人きりの時間だからと、ため息をつきながら口を開く。
「なあ、おや……お父さん」
「改まってどうした」
「地元になんだけど」
「そのことについては、お前の判断に任せる」
返答された答えが衝撃的でとっさに父の方向に首を曲げるが、痛みが広がり疼くまってしまう。呆れた顔で父は見つめながら、リンゴを口に運ぶ。
「ほんと?」
「本当だ。お前の人生だ、全てお前の判断に任せる。後継も……」
「も?」
父は焦ったのかリンゴを喉に詰まらせ、咳き込んでしまう。何をしてんだと思いながら、僕は呆れた表情で机に置かれたコップを渡す。父は軽く礼を伝え、喉を潤す。
少しの沈黙のあと、父は重く息を吐いた。
「お前の兄ちゃんについてどう思う」
「かっこいいし、憧れ」
すぐに答えた。言葉では表せないぐらいの存在。だが、いきなり質問でもしてどうしたのだろう。
「お前の気持ちはよく分かるよ。俺だってそうだ、時々不安になる。けど、あの時にお前は言っただろ?」
父は数日前のお前の姿、あんな必死になってたのは久しぶりに見たと言うが、まったく思い出せない。言い争いなんかした覚えはないのだが。
「立派になったな、って思ったよ」僕のさっぱり分からない顔を見て、父は続けて「呑気だよな、死ぬかもしれないんだぞ! バカ親父!」と僕の声に似せて真似する。そんなこと……と思いながらも、どこかの記憶がそれを肯定する。
父は戸惑い続けている僕を見て目を綻ばせる。そうして、一つ咳払いをした。
「……兄については任せろ。お前はやるべきことがある」
「やるべきこと?」
「少し考えてみろ、すぐに分かる」
なぞなぞ的なものかと思いながら、天井を見つめる。ふと思い浮かんだのは、誰かが必死に自分を必死に呼んでる姿だ。その周りで慌ただしく動く人々。どこかで、一瞬だけ見えた景色。
ここには前にきたことがある。
「知ってる、かも」
「じゃあ、行ってこい」
僕の曖昧な反応を見て、父は笑みを漏らした。具体的な内容は全く思い出せない。そこに行かなくてはならないことを知っている。痛みを我慢しながらベットを立ち上がった。スリッパのまま駆け出す。
「ごめんな、今まで……いつもありがとな」
父に背を向けたところで声が聞こえた。足を止めて、息を吸う。
「改まってどうしたんですか」
揶揄うように笑みを浮かべながら、父の方を向いた。不器用そうに左右に揺れている父の左手には、見覚えのある絆創膏がいくつも巻かれていた。
病院の階段を一段飛ばして降りていく。ロビーを抜けると空は橙色に染まっていた。一直線に伸びる道路の先には、雲を喰らうかのように佇む山がある。
背後から聞こえる声を振り払いつつ、自動ドアをくぐる。病院を出た少し先には見覚えのあるものが見えた。自転車が待っていたと言わんばかりに置いてある。
ギアを最大にして、ペダルを漕ぐ。根拠や理由なんてものはない、ただ行けと心が叫んでいる。
背後の町の風景はだんだんと影に飲み込まれていく。それから逃げるように、ただペダルを必死に漕ぐ。痛みが走るが、痛いと喚くのは後でも十分だ。
ゴンドラから降り、階段を上がって休憩所に着いたところで足が止まる。綺麗な景色、そこにはそれ以外何もなかった。
向かい風が前髪を揺らす。その風が僕の何かを奪っていたように、ただ立ち尽くすしかできない自分がいた。
蛍光灯の音、自動販売機の音、心音がだんだんと大きくなっていく。気を抜いてしまえば、倒れてしまいそうなところを必死に堪える。
この場になくてはならないもの、それを探しにきた。それなのに何ひとつ分からない。こめかみを指で押さえて記憶を辿る。数日前、一週間、一年前はどうだった?
そこで押さえていた手に何かを感じた。ゆっくりと目線に持っていき、手の甲を確かめる。
傷がない。それと同時に甘みを感じた。
『許された』
気づいた時には頬を自分で殴っていた。口の中は甘ったるく、乾いていて嗚咽を繰り返す。
辺りを見渡すと机の上に文房具が置かれているのを目にした。すかさずそこからハサミを取り出して、左手でしっかりと握り、右手を机に固定する。
何があった、何をしにきた。左手を頭上に伸ばす。
なぜ傷つける、なぜ焦る。刃の位置を右手に合わせる。
何を……なんで許された?
左手を思いっきり振り下ろす。どん、と鈍い音がした。
振られたハサミは指を掠めて机に刺さった。ハサミをもう一度掴もうとしたところで、とある絵馬が目に入った。その絵馬は絵馬掛け所から落ちてきたもので、文字が乱雑にかき消されたかの如く、真っ赤に染まっている。
右手でそれを拾うところで、傷口から出た雫が絵馬にぽつりと落ちた。切れてないのになぜと思うのと同時に、願いをかき消している正体が血だということに気づくまでは時間を要さなかった。
直感で絵馬の血を手で拭っていく。擦るたびに文字が見える、けれどすぐに血がそれを埋めていく。
絵馬は必死に何かを隠し通そうとしているようだった。視界はとうに靄がかかっており、もう頬に垂れているのが血か涙かわからない。
助けを求めるように見渡すと蛇口を発見した。水ならいけるかもしれないと蛇口を目で捉える。けれど、踏み出した一歩は哀れにも前に進むものとはならなかった。
地面に溜まった血で足が掬われ、地面に身体が叩きつけられる。絵馬は逃げるように手元から離れた。身体の節々が痛み、包帯からは血が滲み出ている。
どこまでも上手くいかないと思いながらも、何とか絵馬をこちらに手繰り寄せる。掴んだ絵馬を確認すると、一箇所だけ血がかかっておらず、文字が見えていた。
「人差し指……?」
倒れた状態のまま、人差し指を立てて正面を指した。その瞬間、向かい風が僕を拒むように吹き荒れ、目を瞑った。
「ここまでするんだ」
「もちろんだろ」
その日は珍しく大勢の人が山の頂上に集まっていた。残念ながら大半が観光客ではなく現地の人だ。ロープウェイ乗り場を飾り付けしたり、飲食店の補強や、のぼりを立てていた。これまでにないほど人々の声が聞こえる。
「こんなことして人は来るのかな」
「来るよ、にいちゃんのお墨付きだから」
少年は自慢げな様子で声をあげながら、柵に足を引っ掛けて遠くを見つめている。かといって見えるのは見慣れた町だけで、他の土地の電波塔なんて見えるはずもない。
「お兄さん、東京に行ったんだね」
「まあ、にいちゃんはぷろじぇくとの偉い人だから」
「すごいね」
隣の少女は幾分か落ち着いており、ベンチに座って完成予定図を眺めている。そこには見慣れた高さとともに、大きな電波塔が描かれている。
「将来はにいちゃんと同じところに住むんだ!」
少年は宣言するように声を張り上げる。その目は光を反射して輝いており、眩しさだけで言えば、太陽に負けていなかっただろう。
「んじゃ、私も東京に行こっかなぁ」
少女はそう言いながら、彼に向けて木の板を差し出す。
「何これ」
「叶うように描くの。神社に住んでるのに絵馬も知らないんだ」
「し、しってるし」
少年は頬を膨らませながら絵馬を飾るスペースの机の前に立ち、ペンを持つ。片手にはもう一本ペンが握られていた。少女はかすかに笑みをこぼし、それを受け取った。
目をこすると床にあらゆるものが散乱していた。血溜まりを隠すように落ちている新聞を手に取り見る。しかし、明らかに内容が数日前のものと異なっていた。同じ日なのに、表紙がまるで違う。
『転落事故 一名死亡、もう一名は意識不明』
七月⬛︎⬛︎日、⬛︎⬛︎山で土砂崩れが発生。二名の高校生が発見された。一名は病院に運ばれたのち死亡が確定。もう一名は意識不明の状態。
「なんだよ、これ」
新聞から顔を上げると、辺りの現状が把握できた。屋根が落ちてきて、ガラスが割れており、蛇口からは水が流れ出ている。明らかに景色が一変していた。
頭に痛みが走る、あの時の痛みと同じだ。
少年は背伸びをして絵馬掛け所のてっぺんに手を伸ばす。少女はそれを宥めるように絵馬を手に取ると、少年は電池を抜かれたかのように動かなくなる。
「いちばんだって言うのに、何でビミョーなところにかけるんだ?」
少女は絵馬を結ぶ手を止めて、少年に中腰になるよう促す。少女は少年が先ほど見ていた方角に指をさす。戸惑っている少年の指の人差し指を立てさせ、隣に指を並べる。
「ここは、あの電波塔と同じ高さ。こうすれば、どの方角を目指せばいいか困ったときに思い出せるでしょ」
少年は人差し指を見つめながら、顔を赤らめた。隣の少女からは甘酸っぱい柑橘類のような、大人の匂いがした。
「作り始めるのはいつだっけ?」
「えっと、確か……」
「七月十七日」
地面には一ヶ月表記のカレンダーが落ちている。曇った視界を擦り、七月のページをめくった所で目を疑った。七月のカレンダー、一日だけ不自然に空白の日がある。
これまでの記憶が一気に頭に流れ込んでくる。
行方不明になった人々、診断書、乗ることのできないロープウェイ、兄がつくった電波塔、あの事故、彼女という存在。一週間前のその日、兄との思い出の場所に行った。そこにいたのは誰だ、忘れたものは何だ。彼女は。
「六華!」
手で床を反発させ、体を起き上がらせる。全て思い出した。あの日の夕暮れ時。前のめりになりながら、神社の方角に体を向ける。
助けられなかった、目の前で失った。右手を振り出す。
決して許されないことをした。僕は神社に向けて走り出した。
けれど、なぜ遠回しにあの日が消えたのか。答えを示すように右手が前へと出る。
「え?」
右手にはやはり傷があった。思い出せたと思うのも束の間、古傷、そんな言葉で表せるものではなかった。傷はどんどん広がっていき、すでに肘あたりまで開いている。痛みはなく、実感もない。
急に寒気がしてきた。違和感が溶けていく。
嘘だろ。
僕の腕が赤く染まる、周囲も夕陽で赤く染まっていた。あの時、自分が願った言葉が蘇る。
だって、それは。
そして、僕は言い聞かせるように、心の中にしまい込んでいた苦味を吐き出した。
「死んでいると、気づかせない……」
やはり、六華を殺したのは、自分だった。
↓ 彼女の願いを破る。
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