ごぎょう

 ロープウェイの乗車券を錆びついた機械にさす。シュレッダーのような音がする機械の違和感はいつの間にか感じなくなっていた。取り出し口から返された券は少し湿っている。

 雨が上がった空は灰色の雲が敷き詰められていて、光を遮っている。寒さのせいか、体が少し震える。吸い込んだ空気はじめじめしていて息苦しくなる。

 ゴンドラに乗り込むところで、一昨日見た白髪混じりの男性がガラケーを耳に当てながらこちらを睨んでいた。やはり、サングラスは外すべきかと教訓を得たところでゴンドラに乗り込む。

 ゴンドラには樹々の湿った匂いが漂い、寂しさだけが乗っていた。狭かったベンチも今となっては独り占め。一昨日と同じように手すりに肘をつく。

 ガラスに映る人間の顔は、数日前の人間と酷似していた。


 頂上に着くと、冷たい風が僕の頬を刺す。町の景色は雲に隠れてしまって姿を見せない。首に垂れる汗を手で拭い、足を踏み出す。

 一昨日進んだ道を逆に戻っていく。正規ルートだというのに少し違和感を感じてしまう。

 隣の飲食店の看板が風に吹かれて一定の音を刻み続ける。それとセッションするようにばさばさと、登り看板がたなびいている。書いてあったものが読めないほど劣化し、色が抜けて内容はさっぱり分からない。

 飲食店をこえると、千本鳥居のように神社まで電波塔が並んでいた。目には見えないものを飛ばす電波塔を見ていると、やはり曖昧な記憶が脳に流れる。

 電波塔の前に立っている兄。いつも流れる光景なのだが、その記憶に音はない。兄の声をすでに忘れてしまっていることを思い知らされる。思い出そうとするほどに、代わりに聞こえるのはニュースの音声だけだ。


 兄が行方不明になってから九年。東京へ行ったきり帰って来なくなかった。けれど、まだ生きている。そう思いながら東京の大学へ行く夢を諦めなかったが、年月は待ってくれない。

 二週間前、テレビである記事を見た。それが失踪宣言だった。行方不明になって七年が経つと申し立てにより、死亡したとみなすことができる。もちろん、申し立てはするはずがなかったが、生きているという他に、もう一つの考えがよぎるようになった。

 目の前には大きな壁のように鳥居が立ち塞がっていた。

「なんでも叶うんだよな」

 自問自答して、六華のことを思い出す。なんでも、それなら兄にも通用するはずだ。鳥居を潜るとともに心の中で区切りをつける。兄は、死んだ。


 鳥居を潜ると、一気に音が消えた。辺りを見渡しても変わったところは見当たらない。手を前に出してみると、風は感じるのに音がしない。聞こえるのは呼吸と鼓動だけ。

 祠の前に立ち、腰を折る。手を合わせ、目を閉じる。暗闇の中で、またあの光景が映し出される。やめてくれと必死に消そうとするが、記憶の中の兄はいうことを聞かない。

 電波塔の前に兄が立って指を指している。


「俺は電波塔を作る、声を届ける仕事だ」

 少年は声なんて聞こえないと不思議に首を傾げる。

「まぁ、見えないし聞こえないな」

 少年は続けて、声っていつも聞いてるじゃんと言いながら電波塔をみあげる。

「声っていうのは、特別だ。聞くだけで安心したりする。お祈りごとだってだろ?」

 彼はできるだけ簡単に説明したが、少年にとっては実感がないらしい。叶うわけないし、安心しないと怪訝な顔で見つめる。その様子に彼は少し困りながら、腕を組む。

「そうだな……俺の声は嫌いか?」

 その言葉にそっぽを向きながらも、少年はすきと小さく答える。そんな様子を見かけた彼は、少年を捕まえて肩の上に乗せた。彼はそのまま、いつもの場所までいき、ベンチに少年を座らせ、その隣に腰掛ける。少年はその景色を目を輝かせながら見つめる。

 彼は少年の頭を不器用そうに撫でる。少年は彼に体を預けるように寄りかかる。

「お前のまっすぐな性格、俺は好きだぜ」


 背後を振り返るが、そこには誰一人として立っていない。なんで今になって思い出すんだよ。兄は死んだ、死んだんだ。それを認めればいいだけなのに、胸の中でつっかえて喉を通らない。声を振り絞ろうとするほど、呼吸さえできなくなってしまう。

「……どうすればいい?」

 虚空に疑問を問いかける。まっすぐなんてもんじゃない。自分一人じゃ歩けない、何かに縋って歩いてきた自分は脆かった。


「……と」

 消えてしまいそうな叫び声が聞こえた。

 半開きな目で辺りを見渡すが、霧が立っていて視界が悪い。空の頭は重く、足元はおぼつかない。方向感覚は消え、ただ声に向かって足を進める。急に地面が消え、身体が落ちていく。身体は重さを失う、地面が消える、僕は宙へと投げ出される。


 手を伸ばした、けど届かなかった。目の前には天井が崩れてきたかのような壁ができる。最後まで、自分は手を引くことすらできずに、見ているだけだった。結局その人物が帰ってくることはなかった。自分は二度も……


「三久斗!」

 声が耳に届くと同時に、身体に温かみを感じる。反射的にそれに抱きつき、身体は斜めになりながらも停止した。

「重いって……」

 空な視界で確認すると、見慣れた顔がそこにはあった。安心して目を閉じようとする。

「重い」

 少々強めな声でようやく意味を感じ取り、仕方なく彼女から離れる。そんな呑気な考えとは裏腹に、身体には未だ力が入らない。地面に腰を下ろすと、そこは鳥居の階段だった。

「ふらふら彷徨って、何かと思えば倒れるし」座る僕を六華は怪しそうに覗き込む。「これ何本に見える?」六華は片手を左右に振りながら指を立てた。

「ピース」

「重症だね」

 彼女の方に腕を置かせてもらい、なんとかロープウェイ乗り場まで足を進める。思うことは山々だが、身体すら思うように動かせない脳で考えごとなど到底不可能だ。


 ロープウェイ乗り場は思いのほか冷房が効いており、スポーツ飲料を物の数秒で丸々一本飲み干した。ちょうどいい室温で逆にだらけて溶けてしまいそうになる。そこで、ふと先ほどの光景を思い起こすと、途端に寒さが増してきた。

「ねえ、六華」

「ん?」

 彼女は自動販売機を睨みながら、人差し指をボタンに沿ってスライドさせていく。聞くべきなのか、聞いたとして彼女は答えてくれるのだろうか。

「あの、怖い? 顔なんだけど」

「いきなりそんな質問かい。まあ、そうだねぇ……」

 六華は大股で僕に近づき、しゃがんで目線を合わせる。後ろへのけぞってしまうが、その上手をとるように六華がさらに近づく。その距離はわずか五センチもないだろう。気持ちの高まりを隠すために息を止める。大きく息を吸うと、いい匂いがした。

 目が合うのが気まずく俯くと、シャツの隙間が見えた。慌てて顔を上げるが、目があってしまう。目は座りどころが分からず、きょろきょろと動き回る。そして六華と再び目があった、その時だった。

 はなが揺れた。

 六華は顔を引き、上目遣いで僕を見下ろす。

「みっともない顔」

 そう言い残して、六華は自動販売機の元へ戻っていく。僕はというと、口をぽかんと開けたまま、はなに触れていた。途端に苦しくなり、咳き込みながら空気を取り込む。

「行きますよー」

 六華は手に持った飲料水を振りながら僕を呼んでいた。頬を軽く叩き、立ち上がるところで足元に何かを発見した。

「これ……」

 持ち上げて階段の方向を見るが、すでに六華はいなくなっていた。階段を覗き込んで、誰もいないことを確かめて紙を開く。

 A4用紙の紙には病院の名前と部屋番号が記されていた。他の欄はくすんでいて読めそうにない。

 誰のだと思うとともに、先ほどの光景が頭に浮かんでいた。六華が顔を引く瞬間、たまたま......本当にたまたまシャツの隙間が見えたときだ。

 肩から線のように傷ができていた。そして見覚えのある位置に絆創膏が貼ってあった。


 病院内のエレベーターには列ができており、階段の方が早いことは一目瞭然だった。けれど僕は列の最後尾に並び、携帯電話の画面を見つめる。もちろん受信履歴はメールにしろ、電話にしろ、あるはずがない。

 そもそも誰のものかも分からないんだよなと思いながら、紙の内容を思い出す。ロープウェイの従業員の人だったら、あのおじさんしかいないし、と悩んでいると肩を突かれた。振り返ると花を抱えている男性が指を指す。何かと思えば、前には誰もいなくなっていた。


 動いているのかと心配になるほど静かにエレベーターは上がっていく。緊張している僕は場違いなのかと感じるところで、出てけとばかりにドアが開いた。


 病棟は電子音がたびたび響くだけで、静寂を保っていた。鼻の奥をかすめるような匂いは慣れそうにない。

 五〇五、五〇六、五〇七……あった。ドアをゆっくり開けると、そこは暗闇だけが居座っていた。就寝にしては早いが、念のため足音を消して中に入る。

 部屋を一望すると四つのベットがあった。右手側にある奥のベットだけカーテンで遮られており、他のベットは使用された形跡がない。

 さらに数歩足を踏み入れると電子音は聞こえなくなり、静寂が訪れる。どこかの映画で見たシーンと自分が重なり、背後を振り返る。幸い誰もいなく、意を決してカーテンの目の前まで進む。

 カーテンは窓から入り込んだ風でひらひらとなびいていた。なかなか開ける気に慣れないのは、知らない人だった場合の不安と、何か引っ掛かるものがあったからだ。

 思いあぐねているところで風は痺れを切らし、カーテンをめくりあげた。そこにあった光景は意外でもあったし、納得できるものでもあった。そこには、誰の形跡もなかった。


 廊下に出ると看護師が歩いていた。吊り下げられているんじゃないかと思うほど背筋が伸びている。

「あの、すみません」

「なんでしょう? お見舞いですかね」

 彼女は優しい笑みを浮かべながら話す。未だに目を合わせるのが難しく、例の部屋に目線をずらす。

「この部屋って誰か入院してましたか?」

「ここですか……ああ、いましたよ」

「どこら辺にいたとか分かりますかね?」

 彼女は一息おいたあとでベットに指をさす。すごい記憶力だと思うとともに、奥のベットには指をささなかった。

「あ、窓開いてる」

「閉めますよ」

「なら、お願いしますね」

 窓を閉めるには相応の力を必要とし、何かと鍵を見ると施錠部分が固定されていた。


 悪あがきとして受付口でも尋ねてみたが収穫なし。誰かも、ましては入院してたかも分からない人物を見舞いに来たという変人なのに、丁寧かつ笑顔で対応された。


 病院を出るとすでに辺りは暗くなりかかっており、太陽は大半が隠れていた。

 近くのバス停の時刻表にはこれでもかというぐらいに空白があり、次の予定時刻は明日の六時になっていた。やけに朝だけ早いと文句を吐きながら、家を目指す。


 頭上にはすでに星がいくつか輝いていた。街頭は役目を果たしておらず、道を照らすのは星だけだった。昼に散々鳴いていた蝉も定時なのか、こつんこつんと自分の足音だけが聞こえる。この光景は、いつぶりだろうか。

 数年前までは、世界にたった一人、自分だけが取り残されたような静けさが怖かった。けれど、それをかき消すように、兄は呆れながらも自転車で迎えにきてくれた。

「俺が忙しいこと分かってるのか?」

 いつもお決まりのセリフで兄は迎えにくる。テスト期間も、部活の終わりも、そして受験の時も、兄は僕を後ろに座らせて自転車を漕ぐ。僕の前にはいつだって兄の背中があった。

 風が背中を押すように吹く。高校三年生、受験が迫っているのに大丈夫だったのだろうか。これは彼だけに言えた話ではない。


 日は完全に暮れ、辺りは影に包まれる。星が仲間を増やして、光り輝く。

 あの時、どの判断が正しかったのだろうか。兄が何を望んだのか、今は知る由もない。

 その時だった。


 急に視界が傾き、体制が崩れる。押されたかと思ったが、外側からではなく内側から押されるような重さを頭に感じる。眠気がないのにもかかわらず、瞼が落ちていく。昼の感覚と同じということだけは、瞬時に判断できた。

 視界の光が消えていく、それはさながら夕日とリンクしているようだった。なんとかポケットにある携帯電話を手に取る。七時ちょうどの時計を左にスライドさせ、数字を押していく。揺れる視界で番号を打ち込み、あとは赤いボタンというところで意識が途切れた。

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