なずな
頬にわずかな温かみを感じ、視界がだんだんと明るみを増していく。久しぶりにいい朝を迎えられたと、体を伸ばす。
ぼやけた目でカーテンを開けようとしたところで違和感に気づく。ありふれた光景なのだが、今日となっては特別な意味を持っていた。
カーテンが開いている、それは誰かの干渉を示唆していた。
はやる気持ちを抑えながらリビングまで走る。が、人影は一切なかった。キッチンはきれいに片付けれらており、日めくりカレンダーは昨日を示している。落胆した気持ちを抑えながら、椅子に腰をつく。カーテンについては、足で蹴ったとかだろう。
慰めるように机には朝ごはんが置かれていた。ありがと、朝ごはん。当然返事はしない。
食器を洗面台で洗ってから無駄に長い廊下を歩く。居間からは紅葉や銀杏の葉が緑色に色づいてる。その陰で熊手を使い、落ち葉を掃除している女性を見かけた。僕の視線に気づいたのか、ラフな格好をした彼女は軽い笑みを浮かべる。
「おはようございます、三久斗くん」
「あ、おはようございます」
こちらも自然と会釈して廊下を進む。だけれど、数歩進んだところで足が止まった。さっきの光景が脳内で再生され、違和感が沸々と湧き上がる。
彼女の方を向いたが、再び視線が向けられることはなかった。足早に部屋へと駆け込み、鏡で自分の顔を見つめる。
「おはようございます……三久斗くん」
彼女のセリフを反復する姿は側から見れば、恋心を抱いている乙女。けれど、そんな乙女と非にならないぐらいに心拍数が高まる。
誰かに認知された。しかし、幻覚が見えてたとか、まだ例の件を知らなかったとか、後ろに同名の三久斗がいたとかはある。疑心暗鬼になりながら、頭を叩く。昨日といい、今日といい、叩かれてばっかだ。
やはり、これを確かめるには……。
目の前の道路は存在意義があるのかと問いたいぐらいに車が通らない。バス停の看板の隣で腕を組み、仁王立ちをしてその時を待つ。認知されているなら、バスは止まるはずだ。
数分後、バスが左手から向かってきた。もっと勇気のある人物は道路に飛び出して、死にましぇんと言うのだろうか。もちろん、そんな勇気は僕にはない。
三連敗中だが、果たしてどうだか。バスは……いつも通り、左から右へと走っていった。
よし、帰ろう。
即決したところで、甲高いブレーキ音が耳を貫いた。右手を見ると、数十メートル離れた場所にバスが停車していた。
アクシデントかと思いながらバスに近づいていく。すると、窓から手を振っている運転手の姿が見えた。
「いや、ごめんね。気づかなくて」
あの恐ろしいブレーキがほんわかとした印象の男性から出たとは信じられない。それでも彼の言葉を信じながら、恐る恐るバスに乗り込む。中はがらんとしていて、心地よい風が僕を出迎えた。
席に腰掛けると、バスの運転手が帽子の唾を抑えながら再び声をかけてくれた。どうやら、嘘ではないらしい。
バスって素晴らしいな、と快適に浸りながら窓の外を眺めてたところで、目的地をさっぱり決めてないことに気づく。かれこれ何分間乗ってただろうか。停車ボタンを押そうとしたところで、終点を知らせるアナウンスが流れた。
太陽から逃げるように日陰に潜む。商店街は相変わらずシャッターとガラス戸が五分五分の対決を繰り広げている。夏はガラス戸、冬はシャッターが優勢だ。
古本屋の前の自動ドアまできたところで、買い物は出しゃばり過ぎじゃないのかと脳が危険信号を出す。なんとなく店内に入るのが億劫な姿は、はじめてのおつかいに似ていると感じる。
「いらっしゃい」
店内の従業員に目が合い、自然と四十五度のお義義をかました。
店内は夏だというのに涼しく、昼だというのに薄暗い。ジャンルなどという言葉は存在しなく、小説、漫画、辞書、雑誌などが乱雑にちりばめられている。宝探しみたいで楽しいのだが、成人向けの本まで置くのはどうなのか。
目的の本は特有の色と厚さをしていたのですぐに見つかった。すぐに見つかったので副産物を見つけることはできなかった。棚から取り出すと、カビの匂いがふわっと僕を包み込む。本には目立った損傷がないのが不思議だ。
持つとずっしりと重さを感じ、ページを捲るたびに何倍にも膨れ上がる。自分はこれを持っていていいのかという葛藤が頭の中を駆け巡る。重さは色んな意味でのしかかっていた。
「何が正解なんだろうな」
問うように弱音を呟いて、ぱたんと閉じる。何がしたいんだろうか、表紙をぼーっと見つめる僕を呼び戻すように鉄琴の音が聞こえてきた。ポケットから携帯電話を取り出すと、見慣れた番号が画面に表示されていた。
卓上をコーヒーカップがスライドしていく。このまま隣の机までスライドしていくのではないかと危惧したが、幸いコーヒーカップは目の前でストップした。
「ごゆっくりどうぞ」
軽いお辞儀をした店員と目が合うと、つい顔が綻びてしまった。慌てて顔を引き締めるが、時すでに遅かったらしい。
「いま、店員のこと見てたでしょ」
六華はカフェラテをストローで啜りながら、疑いの目をこちらに向ける。いやいや、人と会話するのが久しぶりで、全ての人に対して好意を寄せてしまって……と長々とした弁明できるはずもなく、ただ謝罪を口に述べる。
「あと、何そのサングラス」
喫茶店でサングラス。不審者のお手本のような見た目なことは否定できない。頷きながら、周囲から目線を向けられていないことを確認してサングラスを外す。
「冷めるよ」
お言葉に甘えて、コーヒーを啜る。
「昨日から変わりない?」
ストローを咥えながら六華は左右に首を振る。ほっと一息つくと、コーヒーの湯気が空中へと舞う。目で追っていくと、厨房の店員と再び目が合ってしまった。急いで確認するが、六華はテレビを見たままでこちらには気づいてないらしい。
六華の視線に釣られるようにテレビを見ると、行方不明の案内が放送されていた。全部で五人ぐらいが映っていたが、そのどれもがこの町の住所になっていた。
僕がテレビを眺めていることに気づき、六華はいきなりテレビを見ることを止め、窓へと視線を移す。少し申し訳ないと思いながら、僕も窓の方へ目を向ける。
「赤本見えたけど、東京の大学行くんだ」
「大した意味ないよ、気まぐれ。六華もでしょ」
「まあ、ね」
窓からは瓦が綺麗に配列された家が、所狭しと並んでいる。そんな景色を塞ぐように走る車は今まで見たことがない。見慣れすぎた姿がそこにある。どんな事件、どんな出来事があろうと変わりはしないであろう景色。
赤本の見慣れた土地名も今となっては、意味を持たない物となっていた。灯台がなくなって、彷徨い続けるような人生。土地の名前を見るたびに、ほつれた糸を掴んでいる姿が鏡に映し出されているように見える。
「あの、あの時のこと……なんだけど」
「本当にごめん。怖かったよね」
「いや、そういうのじゃなくてさ……大丈夫だよ、全然。気にしてないし」
六華は慌てた表情で両手を振る。それでも僕は自分を許せなかった。
数日前、親戚の集まりで両親と口論になった。内容は兄のことについてで、なぜみんな焦らないで呑気にしてられるのかが分からなかった。それから逃げ出すように兄との思い出の場所へ向かった。そこで様子を伺いに来た六華に感情任せな言葉を浴びせ、最低なことをした。
赤本に再び目をやると、西暦が書かれていた。兄が行方不明になって、九年。もう十分なのかもしれない。
僕の目は、山の頂上を見つめていた。彼女はどこまでを指しているのだろうか。
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