第5話 悪い大人
私がアル中の駄目な大人になったのは私のせいであり、誰かを責めるつもりは無い。
が、アル中まではいかなくとも、酒好きの門を開いたきっかけというものはある。
元々、母方の血は酒好きの血であった。
死んだら墓標にモンテプルチアーノ(ワイン用ブドウの品種)を使ったフランス産赤ワインをぶっ掛けてくれ、と言っている狂った母親はもちろん、今年99歳になる祖父も、心臓にペースメーカーを入れながら毎日の晩酌を欠かさない。
彼らの血を引く私は言わば酒呑みのサラブレッドで、多少は運命のようなものもあったのだろうが、それでも二十歳を過ぎた辺りまでは酒よりもケーキとプリンを愛する純朴な乙女であった。
歯車が狂ったのは、齢24の年だ。
残業代が1円も出ない上、新興宗教にドップリのブラック企業を2ヶ月で脱出した私は、地元を離れ、アルバイトをしながら正社員になれる道を模索していた。
おりしも氷河期。
決まらない仕事。
自然、心はささくれる。
金が無いなりに、たまには呑みに行きたくもなる。
安い店を探して辿り着いたのは、全ての酒を税込み500円で提供するワンコインバーだった。
マスターと客が平然と下ネタを飛ばし合うような、24歳の小娘には多少刺激のあるバーだったが、魂が荒んでいたので気にならなかった。
お任せで、と注文し、出てきたのは、名前の良くわからないグレープフルーツ味のカクテル。
あっという間に呑み干した。
覚えたてのカンパリソーダを注文する。
ルパン3世のアニメで、峰不二子が注文した酒だ。
カンパリソーダ、という台詞が、妙に色っぽかった。
カンパリという酒は、苦くて甘い。
透明な血のような液体を呑み干す。
「次」
精神的な疲労が蓄積すると、酔の回りが遅くなることを、この時に学んだ。
マスターがどんな理由でその酒を選んだのか、ワンコインバーが閉店した今となっては知る由もない。
目の前に置かれたのは、小さなグラスに注がれた琥珀色の液体だった。
当時の私は、その液体の正体を知らなかった。無知ゆえに、これもカクテルの1種と錯覚していた気がする。
グラスを鼻に近づけ、香りを嗅いだ。
カラメルのような、しかしカラメルよりは危険な液体だと脳が判断するような、平たく言えば甘く香ばしく、アルコール臭かった。
恐る恐る、唇を付ける。
びり、と、舌先が痺れる灼熱感。
熱い液体を喉に送れば、未経験の刺激に驚いた粘膜が悲鳴を上げる。
げほげほ、咳き込んだ。
今ならこんな醜態を晒すことは無いが、この時の私は、まだ強いアルコールを迎え入れる身体ができていなかったのである。
舌と喉が熱い。
喉に至っては、痛みとも痺れとも取れないガサガサした感覚が長く残り、実際に焼かれたことは無いが酸で焼かれるとはこういうことかと1人納得しかけた。
「マスター、これ、何…」
しかし、這々の体で私が1番知りたいと思ったのは。
この液体の正体と、確実に不快な思いをしているにも関わらず、何故か苦痛を「悪くないもの」として認識してしまっている己の感覚の正体だった。
「ジャック・ダニエル」
マスターがニヤリと笑った。
ジャック・ダニエルは、アメリカはテネシー州で作られるウィスキーだ。
四角い瓶に黒いラベル、映画なんかでシカゴの悪党が呑んでいるあの酒である。
お酒を呑まない方も、瓶本体を目にすれば「ああ、これ」と納得するのではないか。
私も例に漏れず、感想は「ああ、あれか」だった。
痺れた舌先で、もう1度琥珀を舐める。
甘い。
痺れるように辛いが、その反面、蜜のように甘い。
頭がぐらりと揺れた。
戻れないところに、来ちゃったな
回らない脳味噌で、そんなことを思ったのは、ウィスキーは渋い中年の酒という思い込みがあったのと、初めてのウィスキーを美味いと感じてしまった自分が信じられなかったからだ。
あの琥珀の原液を不味いものと認識し、ウィスキーは若造には過ぎた酒だと思い知っていたなら、今の私は私ではなかったのかもしれない。
ウィスキーにも、マスターにも罪は無い。
だが、うら若き乙女が酒の快楽に溺れるきっかけの1杯は、あれだったと思う。
感謝こそすれ、後悔はしていない。
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