天使を潰したのだ

兎紙きりえ

第1話 天使は漸く潰れたのだ!

それは休日の朝のことだった。

いつもより1時間は早く起きていた。

なにか、特別な用でもあったわけではない。

強いて言うのなら、カーテンから差し込む光が強かったからか。

というのも、季節はとうに8月を迎えている。

芝色の厚手のカーテンを開けば快晴という言葉がぴったりな、澄み渡る青が広がっているのだ。

その風景を眺めて清々しい気分で珈琲を淹れ、今度は陽が差し込む小窓の傍の椅子に座る。


そう、全く、この時まではよかったのだ。

最高の朝を味わっていたと言ってもいい。


そのまま眠気覚ましにと、数日前に買って楽しみにしていた文庫本をサイドテーブルに置き、

郵便受けから取ってきた新聞と、これまた入っていた宛先のない手紙に私は目を落とす。


そうだ!この手紙が問題なのだ!

かれこれ一時間、この手紙のせいで俺は気分が悪い。

なにかにつけて腹立たしく、あぁ、全く目に入る度に嫌になる。

どうにもおさまらず、しきりに右足を縦に揺らしては左右の手に持った新聞と手紙との間で視線を彷徨わせる。


文庫本に手を伸ばす気力もなく、かといって、この手紙について思案するのも馬鹿らしい。


あれだけ青の美しかった空でさえ、時たま、まばらに、そこだけ絵の具を落としたように寄り集まって固まっている雲がどうにも気になって仕方がなく見えてくる。

青の多い空ではどこか居心地悪そうにも見える。

小窓の淵に置いたサンスベリアやシェフレラの緑。

木漏れ日のように落とす光の模様を変えるのが風情だと思い買ったレースのカーテン。エスプレッソマシンから立ち昇ってきた珈琲の香気。

憂鬱とは程遠い朝の空間が、けれども今は同じ部屋だとは思えないほどに落ち着かない。

緑葉の欠けや鼻につく珈琲の酸味がこんなに不快だとは、これまで一度たりとも思わなかったのだ。



『拝啓、親愛なる隣人のあなたへ


まずは、この手紙を貴方が読まないことを願います。

そして、どうかこのように貴方に手紙を送ることをお許しください。


ですが、私にはどうしてもこの手紙を書く必要があったのです。

私自身を告発する必要があり、せずにはいられなかったのです。

自分でも吃驚するほどに馬鹿馬鹿しい内容ではあると分かっていますから、

けれども自らに下る罰が大層恐ろしいものに思えて、心の内に秘められる程、罪悪感に鈍感ではいられないのですから。


そうです。これは罪を告発するための手紙なのです。

貴方に送るのは他に送る宛てが無かったのもあります。

この手紙をポストに入れるのは街を出る頃ですから、ただ近くに家屋を建てただけの雇われの私とこの街に長く根付いた貴方ではもう会うこともないでしょう。

だからこそ、この手紙を送ったのです。

そんな小心者であるが故に、こうして筆を執った次第なのです。



私には学もなく、手紙というものを初めて書くものですから、

私から文をしたため送ることなど、これまでなかったものですから

勝手がわからないのです。

手紙というものはこの街で覚えました。

確か、3丁目の路地にあるパン屋です。

大きな時計の看板が目立つパン屋の向かいの宅に居ます、そこの奥様が大層私を気に入ったそうでして、一度手紙を貰ったのです。

やはり、手紙を出す勝手も分からない私ですので、貰ってそれきり、となったわけですが、今となってはその手紙を真似て貴方に手紙を書けたのですから、運命とすら思えます。

いや、本筋から逸れてしまいましたね。

兎にも角にも、今まで誰にも話せなかった私の罪をようやく打ち明けられるのです。


それは春先のことでした。今は夏も始まった頃ですから、えぇ、もう3ヶ月は前のことです。

私はこの街を訪れたのもその日です。

丁度、貴方の家のはす向かいに家が建ったでしょう。その為に私は訪れたのです。

朝方に到着したもので、初めての街は静かなものでした。

生きた息遣いがないといいますか、シンと誰も音の無い廃墟のような、ホントに人1人すら住んでないようにさえ思えました。

勿論、庭先の手入れされた植木に、電信柱のアスファルトのシミだったりと、よく見れば跡はありましたし、ひとつ、思い立ってはどこかの家のインターフォンでも押せば、たちまち人の姿は見えたのでしょうが。

その数舜、一時に関していえば、私しかいなかったのです。

そうした風というときには、なにかにつけてよくみえるものですよね。

たとえば、道の中のアスファルトの割れ目、ただそこに一輪咲いた花。

そういうものがよく見えたんです。それはもう、とても、良く、見えたのです。

だけれども、その花はどこまでも白く美しかったんです。

私はその花こそが天使だと思いました。

天使がどんなのかは知ってますよ。

前の街には画商もあって、一度、天使の絵画を見せてもらったことだってあるのです。

芸術というのは、とんと分からず、挙がる著名など誰も彼も区別がつかず、みなが言うような『ピン』とくるような感覚も総じて分からぬものです私ですけど、その花を見た時ばかりは、生まれてはじめて『美しさ』を知った気がしました。

絵画の中の裸体より、いくらも目を惹く白さを見たのです。

私は嬉しくなりました。それはもう飛び上がりたいほどに。

けれども悪魔の囁きというのですか。

罪というのはやはり、そういう時にこそ忍び寄ってくるのです。

私の頭は1つ思いつきました。全く、酷い頭だとは思います。

眺めていたその天使、その頭上まで私は足を伸ばしていたのです。

陽を遮られたその様は、相変わらずの清廉さを保ちながら、しかしながら先程の輝かしいまでの純白さは失っていました。

影を落とした面持ちで、私を見上げてるのです。

罪なき子らの瞳のように、純真さだけをどこまでも残して、見上げていました。

私は、どす黒い好奇心であると知りながら、足を振り下ろしました。

ざりっと音がしたのです。踏みつけた音です。

その時、ふつふつととんでもないことをしたんじゃないかという思いが沸き上がってきました。

遅れてやってきた罪悪感が、私を糾弾したのです。

そうして、私は罪人になりました。

罪を知り、糾弾され、認めるしかないのでは、全く罪人ではないですか!


あれからというもの、3ヵ月です。ずっと、酷く醜い嗜虐心のようなものがへばりついているのです。


先程も、書いてる最中に蚊を殺していました。

血を吸われたわけでもなく、ただ、この紙の上にいたものですから、目についたのです。

追い払うでも、潰すでもなく、私は殺したのです。

紙は綺麗でしょうとも。潰してはいないのですから。

その蚊は休んでいたのか、呆けて、紙を生き物と見ていたのか、なんにせよ止まっていましたから、また、良く、見えました。

そうして思ってしまったのです。

「この翅をもいだら」と。

手を伸ばしてしまったのです。

やはり、逃げようとしたようですが、私の指の掴む方が早かったようで、呆気なく蚊はもがくことしかできなくなりました。

そうしてぷちり、翅をもいで、飛べなくなった蚊を見つめていたのです。

動かなくなるまで見つめていたのです。

あの天使を潰してからというもの、そのような、私の醜い面が、私自身知らなかった醜悪が、時折顔を覗かせるのです。

あの天使を踏みつけた感覚を蘇らせ、あの見上げてくる白さを思い出させ、手を伸ばさせるのです。

私はきっと、狂ってしまったのです。


今にして思えば、きっと、あの音は砂利でなく私の心の音だったのでしょう。

良心だとか、そういう大事だったものを知らず踏みつけにしてしまったのです。


えぇ、ここまで書いて改めて思い至りました。

きっとこの手紙を書いたのもそういう理由なのでしょうね。


だから、貴方が読まないようにと、先の一文を入れておきます。

どうか、私の罪が読まれぬことを、知られぬことを願います。



敬具


改めて読み直し、手紙を置いた。

気分は、相当に悪い。

しかも、あいにく、外は晴れている。

陽でも直接浴びればマシになるだろうと外に出ると、街は、静かだった。


そこで、見たのだ。

紛れもない天使を。白さを。その花を。


熱したアスファルトの内から伸びる、懸命に生きる命そのもの。

それを見た時、俺は何をしたいのか理解してしまっていた。


何度も何度も踏みつけ、ぐりぐりとアスファルトの凹凸で擦り潰すように何度も何度も擦り付ける。

緑色の汁が靴裏にべっとりと付き、荒れた繊維が、まるで手入れのされていないホウキのようで、靴のソールを汚しても尚、踏みつける。

楽しくもなく、嬉しくもなく、ただひたすらの悲しさを感じながら、踏みつけた。


その時、確かに音を聞いたのだ。

なにかを踏みつけるような、ざりっとした、嫌な音だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天使を潰したのだ 兎紙きりえ @kirie_togami

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る