冬の章 二巡

実る畑






「実りましたねえ……!」


「うむ、実ったな」


 八重と牛守うしのかみは、立派に実った畑を前に歓声を上げた。収穫の時を迎えたのだ。


「どれ、胡瓜をいくらかもいで溜め池で冷やしておくか。畑仕事が終わったころにはよく冷えているだろう。畑で齧るのも乙なものよ」


「そんな、良いのでしょうか」


「なに。どれ程のものが出来たか確かめるのも務めのうちだ」


 ためらう八重に、牛守うしのかみは胸を張って高らかに笑う。そのまま小屋から紐のついたざるを持ってきて、八重にどれにするかとにっかり笑いかけた。


 八重はおずおずと、一本の胡瓜を選ぶ。さあ、と促され、八重はその胡瓜をもいだ。頭を掴んでつるを親指で押すと、ぽきり、と簡単につるが外れて折れ口にはぷっくりと水が膨れる。新鮮な証だ。


 牛守うしのかみは二本、三本と胡瓜をもいで共にざるに乗せ、溜め池に沈める。冷たく清い水越しに、胡瓜はつやつやと光っていた。


 蕪は使う分を、胡瓜や大根は大量に収穫する。胡瓜はなったままにしておくとどんどん大きくなってしまうし、大根は家守が蓄え漬けにすると言っていたのだ。


 そのうち井守も手伝いに現れて、八重と並んで水路で大根を洗う。藁たわしで丁寧に泥を落とすふたりの近くで、牛守うしのかみは葉を括り付けた大根を稲干し台に掛けていった。


 一通りの仕事を終えて、背負籠に屋敷で使う野菜を入れて戻ろうとする井守に、牛守うしのかみは冷やした胡瓜を投げ渡す。井守はそれを難なく受け取って、「ありがたい」と笑って胡瓜を齧りながら屋敷に歩いていった。


「さあ巫女殿も」


「ありがとうございます」


 ざるを差し出され、八重はどれが自分のもいだ胡瓜だったろうかと迷いながら、喜んで一本の胡瓜を手に取る。さあ、と促されて、目を輝かせながら八重は大きな口を開けた。


 よく冷えた、雫したたるような胡瓜に齧り付く。かりこりと小気味良い歯ざわりに、青い香りが鼻腔を抜ける。ほんのりと甘い瑞々しさに、畑仕事の疲れが吹き飛ぶようだった。


「どうだ巫女殿、うまいか」


「はい! とてもおいしいです!」


「そうかそうか」


 牛守うしのかみはうれしそうに笑い、胡瓜のへたを齧り取って畑のその辺に吹き出し、かり、と音を立てて胡瓜を頬張った。


 夕暮れ時の近付いてきた畑に、涼しい風が吹き抜ける。小屋の前には、苗箱の稲苗が風を受けて柔らかくそよいでいる。田んぼには干して砕いたわかめを漉き込んで馴染ませてあった。苗が育てばもう一度丁寧に田を耕して、そうすればまた、田植えがくる。八重は風を感じながらゆっくり胡瓜を味わい、牛守うしのかみは大口で胡瓜を食べ終えて二本目に手を伸ばした。


 干された大根は、ちらちらと黄金の光をまとっている。信仰心が宿っているものは八重が抜いたり洗ったりしたもので、そうでないものは、牛守うしのかみと井守が扱った大根なのだろう。


 本当に、こんな違いが、と思いながら八重が大根を眺めていると、牛守うしのかみがやおら口を開いた。


「……眠っておったからか、何やら久しく感じるな。白陽様ともこうやって畑で胡瓜を齧ったものだ」


 八重は牛守うしのかみを見上げ、口を開きかけてそれをやめた。牛守うしのかみは八重の様子に気付き、どうした、と八重を促す。


「いえ、その……白陽様は、やはり動かれるのだな、と……」


「よく為歩しありく御方だぞ。山に行ったり、町に下りたり。ここで野菜を齧ったりしてな。――白陽様に尋ねなかったのか」


「とても、お尋ねできなかったのです。その、なぜ動かれないのか、とは……」


 人の身で、神の事情を問うなど畏れ多く、とても口に出せなかった。力を失ったため動けないのか、それとも元よりそう在る御方なのか。力を取り戻せば動けるようになるのか……分からないまま、八重は口を噤んでいたのだ。下を向く八重に、牛守うしのかみは顎を撫でてふうむと声を漏らす。


「いずれ」


 牛守うしのかみは、八重を見つめてにかっと笑う。


「いずれ全て戻った暁には、ここで巫女殿と儂と白陽様とで、胡瓜を齧ろう。また共に畑を耕して」


「……はい!」


 八重は顔を上げて笑みを返した。やはり白陽は、いつかあの眼を開き立ち上がるのだ。ひっそりと抱えていた不安が、晴れる思いだった。そんな日が早く来るといい。その頃には上天はもっと賑やかになっていて、そして人の世も、きっと豊かになっているだろう。その時が待ち遠しいと、八重は朱に染まり始めた空を眺めた。




 屋敷に帰れば、家守が今日採った野菜を使った夕餉を拵えていた。八重は白陽の元に膳を運び、畑で牛守うしのかみと胡瓜を齧ったことや、大根を干したことを話す。


 まだ、『いつか一緒に畑で』とは口に出して言えなかった。でも八重が全てを成し遂げることができたら。その時にはきっと、と八重は胸に希望を抱く。


 土間の方に戻れば八重の膳が用意されていて、膳には塩むすび、胡瓜とわかめの酢の物に、大根の浅漬け、鮎の塩焼きと、蕪のすり流し汁が並んでいた。


 胡瓜とわかめはしゃくしゃくとして、甘酢の酸味がなんとも食欲をそそる。塩むすびを頬張ってから口に運ぶ浅漬けは、また次の一口へと誘うようだった。鮎は塩の塩梅も焼き加減も絶妙で、ぱりと香ばしい皮の先にある柔らかな身と、鼻に抜ける爽やかな香りが堪らなかった。昆布出汁に塩で味を整えたすり流し汁は、蕪の優しい甘味ととろみが体に染みる。


 知らぬことが多い不安は、確かにあった。猪守いのかみの言葉を思えばいっそうのこと。だが何を知ったところで、八重に出来ることにきっと変わりはない。ただ一途に、祈りを、信仰心を、守りを、届けるために日々を励むのだ。


 八重は手を合わせ、空になった膳に頭を下げた。前進している実感を、膳の中身から感じ取りながら。





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