月夜に甘酒
「八重殿、酒が搾れたぞ!」
「まあ、お酒ですか?」
風呂から上がった八重に、井守が弾んだ声をかけた。
「うむ。今宵は良い月夜、ぜひ八重殿から、白陽様にお運び頂けないだろうか」
「私でよろしいのですか?」
「家守と話してな。それが良いと言って、家守も朝から八重殿のために甘酒を仕込んでいたぞ」
八重の分も、と言われ八重は戸惑った。里長や男衆が酒を呑んでいるところは見たことがあったが、八重は酒を呑んだことがない。祝い事で用意される特別なものだったし、八重が呑むものではないと里長から口を酸っぱくして言われていたのだ。酔った男衆の様子を見るに、何となく禁じられる理由を察することができた。
「私はお酒をいただいたことがないのですが……」
「安心めされよ。米と麹だけで作る酒精のないものだ。とろりとして甘いのだぞ。八重殿もきっと気に入る」
「まあ、甘いのですか? それはたのしみです」
八重はほっとして笑みを浮かべた。酒宴の場で、赤ら顔で着物を脱ぎだし腹を出して踊る男衆のことを思い出していたのだ。もし酔ってここでそのような醜態を晒したら、と考えただけでも恐ろしい。
井守と話しながら歩き、土間に顔を出すと家守がふたりを待ち構えていた。
「おお八重殿、いらしたか」
「はい、白陽様にお酒をお出しするのだと伺ってまいりました」
「お待ちしていたぞ。さあ、こちらだ」
家守が持ってきた膳には、まるで月光のように淡い白味を持った酒が注がれた酒器と、白くとろりとした甘酒が注がれた陶器、そして酒肴に炙った筍が乗せられている。
「その白い方が八重殿の甘酒だ。お気に召すと良いのだが」
「甘い飲み物だなんて、とてもたのしみです」
八重は頬を緩めて膳を受け取る。
「ですが、私の分も運ぶのですか?」
「ああ、独りで呑んでは味気ないからな。ぜひご一緒してくれ」
「かしこまりました」
自分が同席しても良いのだろうか、とためらう気持ちはあったが、酒宴は大勢でひらくものだ、という印象が強い。宴と呼ぶような賑やかなものではなくとも、家守が「味気ない」というのであればやはりそういうものなのだろう、と八重は納得した。
「ではお運びしますね」
八重は家守に声を掛けて、膳を持って白陽の元に向かう。襖の前でいつも通り一声掛けてから入室し、白陽の前に膳を置いた。
「御神酒をお持ちいたしました。『あらばしり』なのだそうですよ」
「新米新酒の搾り始めだね。華やかで良い香りがする」
「私もご一緒するよう言い付かってまいりましたが、よろしいのでしょうか」
「うん。嫌でなければ付き合っておくれ。今日は良い月夜だから」
「嫌だなんて……! その、では失礼いたします」
八重は膳から陶器を持ち上げ、慌てるように口を付けた。同席をするのが嫌だと思っている、などと白陽に思われてはたまらないとばかりに陶器を傾ける。
「あまっ……甘っ!!」
弾かれるように陶器を口から離し、八重は目を大きく見開いて手の中の甘酒を見た。米がこんなにも甘くなるのか、と驚くほどに甘酒は甘く、わずかに感じる粒感はどこまでもとろりと柔らかい。麹の香りに、どこか花を思わせる瑞々しい香りが鼻を抜けた。
八重が知る甘味といえば、御山で採れる山桃や桑の実に
「美味しいかい、八重」
「はい……! 米とは、まあなんと凄いものなのでしょう! 美味しくて、こんなにも、こっくりと甘くなって、それに」
白陽様の御力にもなれる、という言葉を口の中に隠し、八重は瞳を輝かせて顔を上げた。八重の興奮した様子に、白陽はくつくつと喉を鳴らすように笑い声を漏らす。
「それは良かった。八重、私の巫女。そなたが喜ぶ様は、私も喜ばしい」
「………………はい」
八重は顔を真っ赤に染め上げて、消え入りそうな声を漏らした。甘さに興奮して、はしゃいで、それを白陽に慈しまれた。身を縮こまらせるほど気恥ずかしく、それでいて、頬が緩んでしまうくらい嬉しかった。誤魔化すように口に含んだ甘酒は、やはりとろりと甘くて、後口はすっきりと上品に引いていく。
暫く黙り込んで、ただちびちびと甘酒に口を付ける。火照りを冷やすように、涼しい夜風が頬を撫で、八重は風に誘われて御座所から外を眺めた。
御座所からは、まんまるに輝く大きな月が見える。月明かりを浴びて時折淡く光るのは、
「まあ本当に、今宵は月がきれいですねえ」
白陽は暫し黙った後、ふふと柔らかい笑い声を漏らして八重にこたえた。
「……ああ、本当に。月が綺麗だね、八重」
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