第28話 綾音との距離

 放課後、悠真は綾音に誘われ、図書館で一緒に勉強することになった。彼女はいつもと変わらず、明るく優しい笑顔で接してくれる。悠真もそんな彼女と一緒にいる時間を心地よく感じていた。


「日向君、最近どう? 調子はいい?」


 綾音が何気なく尋ねてきたその声には、いつも通りの気遣いが感じられた。彼女は悠真がどんな状況でも変わらず接してくれる、そんな優しさを持っている。そして、その優しさが、悠真にとってますます彼女を特別な存在に感じさせていた。


「まあ、なんとかやってるよ。でも、いろいろ考えることがあってさ……」


 悠真は、二人の関係が少しずつ親密になっていることを実感しながらも、心の中では葛藤していた。綾音との時間は楽しくて、彼女の前では自然に自分をさらけ出せる。しかし、美咲のことを考えると、綾音とのこの距離が少しずつ負担に感じ始めていた。


「ねぇ、日向君」


 ふと、綾音が椅子から身を乗り出して、彼の顔を見つめた。その眼差しには、これまでの優しさとはまた少し違った、特別な感情が込められているように感じた。悠真はその視線に気づき、心臓がドキリと跳ねた。


「私たち……最近よく一緒にいるよね。なんだか、昔からの友達みたいで、すごく安心するの」


 綾音の言葉は、まるで彼女の心の奥底に秘められた感情を少しずつ見せるかのようだった。悠真はそれを聞いて、彼女もまた自分に特別な感情を抱いていることを再確認した。


「綾音……」


 悠真は何も言えず、ただ彼女を見つめ返した。綾音との距離は確かに縮まっていたが、その一方で美咲のことが頭を離れなかった。 


 悠真は何かを言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。綾音が彼に向けている瞳の奥には、今までの友達としての関係を超えた感情が明らかに感じられた。それを理解しつつも、悠真の心は複雑だった。彼は綾音との関係が親密になっていくことに喜びを感じながらも、美咲の存在が常に頭の片隅にあったからだ。


「日向君、私ね……」


 綾音が静かに言葉を続ける。その声はかすかに震えていて、何かを伝えようとしているようだった。彼女の視線は悠真の目をじっと見据えたまま、まるで彼の心の中を覗こうとしているかのようだ。悠真はその強い視線に、一瞬息を飲んだ。


「私、日向君のこと……最近、すごく大切に感じてるんだ」


 その一言が、悠真の胸を揺さぶった。彼は何も言えず、ただ綾音を見つめ続けた。彼女の言葉がどれほどの意味を持つのか、悠真にはすぐに理解できた。それは友達としての感情を超え、もっと深い何かを示していた。


 綾音は視線を逸らし、少し恥ずかしそうに続けた。


「日向君といると、すごく安心するし、もっと一緒にいたいって思うの。昔から知ってるみたいな感覚っていうのかな……」


 その言葉には、彼女の本心がしっかりと込められていた。悠真もそれを感じ取っていたが、同時に心の中で美咲との関係が引っかかっていた。美咲もまた、自分に対して特別な感情を抱いていることを感じ取っていたからだ。


「ありがとう。俺も橘と一緒にいる時間はすごく大切だよ」


 悠真はできる限りの誠実さを込めて答えたが、それが彼の本当の気持ちのすべてを表していたわけではなかった。綾音に対しても、美咲に対しても、彼はどちらも大切に思っていたが、それゆえに心の中で二人の間で揺れ動いていた。


 綾音は悠真の言葉に微笑んだが、その笑顔の裏にはどこか不安な表情が垣間見えた。彼女もまた、悠真の気持ちが自分だけに向けられていないことをうすうす感じ取っていたのかもしれない。


「……そうなんだ。でもね、日向君、私は……」


 綾音がさらに何かを言いかけたその時、図書館の入り口から美咲の姿が見えた。彼女は少し遠くからこちらを見つめていて、その表情には明らかに嫉妬と不安が浮かんでいた。


 悠真は美咲と目が合い、緊張が走った。彼女が今の自分と綾音のやり取りを見ていたかどうかは分からないが、美咲が何か感じていることは間違いなかった。


「……霧崎」


悠真は心の中で彼女の名前を呼び、どうすればいいのか分からなかった。彼女の存在を考えながらも、綾音が自分に向けている真剣な気持ちを無視することはできなかった。


「日向君……」


 綾音の声が静かに響くが、悠真の心はすでに複雑な感情でいっぱいだった。美咲との関係も綾音との関係も、どちらも大切にしたい――そんな思いが彼の心をさらに重くしていた。


 その瞬間、悠真はまさに自分が二人の間で板挟みになっていることを強く実感した。

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