榛名千明は立ち続ける
『フィスト』という漫画がある。
前世で人気のあった不良漫画だ。
俺はガチ勢というわけでもなく、詳しい設定は覚えていないが楽しく読んでいた。
その作品における主人公は
とある抗争に参加し、地元にいられなくなった彼女は私立柴方高校に転校してきて、やはり喧嘩の日々に巻き込まれていく。
普段は気だるげな千明は、しかし喧嘩となると人が変わった。
「だァ――!」
目の前で戦っているのは、果たして榛名千明なのか。
今まで接してきた彼女とはまるで違った。
瞳孔は開ききり、口の端は裂けている。
対する夜宵も強かった。
子供っぽい雰囲気をかなぐり捨て、驚異的な身体能力を隠すことなく披露している。
「これは……エグいッスね……」
「まさか夜宵とこれほど張り合えるとは……」
横に座る二人の声が遠い。
俺は呆然と喧嘩を眺めていた。
「おいおいおい! さっきまでのダルそうなお前はドコに行ったんだよ!?」
「そっちこそ、ロリみてェな言動はどうしたよ!」
殴る蹴る。
殴る蹴る。
殴る蹴る殴る蹴る殴る蹴る。
激しい殴打のやり取り。
風を掴み空気を引き裂き皮膚が裂ける。
すでに二人は血まみれで、それでも止まる気配はなかった。
「チィ……ちょこまかと鬱陶しい」
「赤城さんのパンチは重ェんだよ!」
「あたしは見た目通りの攻撃力で売ってるからな」
「何が〝見た目通り〟だ詐欺じゃねェか!!」
千明は不満そうに唾を飛ばす。
対する夜宵は涼し気な表情。
「ちょっと拳が軽くなったんじゃないか?」
「ケッ――私の攻撃を何回も受けてるくせに、全然倒れやしねェ。挙句の果てに文句かよ。バトルジャンキーすぎねェか?」
「お前にだけは言われたくない」
言葉の応酬も程々に、二人は喧嘩に戻る。
彼女らの位置から、数メートルは離れているだろうか。
そんな俺達のところまで音が聞こえてくるのだから、威力の高さが計り知れるというものだ。
「うわぁ……ボクあれを相手にしなくてよかったって
「私もです……いや私の場合はもう少し手応えがあってもよかったんですが」
「勝ちは勝ちッスよ」
観戦している命はドン引きしていた。
顔を真っ青にして、「拓馬怖いッス〜」とか言いながら引っ付いてくる。
彼女も彼女で怪我をしているから、見た目的には怖い。
「これ……勝負わからないんじゃないッスか?」
「――いや、夜宵は勝つさ」
浅間さんは静かに断言した。
圧倒的な信頼を感じる。
俺は二人の話を聞くのもそこそこにして、喧嘩に集中した。
まもなく決着がつく。
不思議とそんな気がしたのだ。
◇
――こいつ、強ェ。
榛名千明は地面に倒れ込みたい気分だった。
何度攻撃を受けたか数え切れない。
ただ、強がっているものの、限界は近いという予感がある。
「千明……どんどん攻撃が軽くなってるぜェ?」
「あんたは……変わらねェな!」
悪態をついて拳を振るう。
しかし最初に比べればずっと遅くなっていて。
赤城夜宵にとっては、回避するのは容易かった。
「オラ……ッ!」
反撃とばかりに蹴りが飛んでくる。
もはや躱しきれない距離。
あえて衝撃が最大になる前に受けることで、できる限りの低減をするが――。
――駄目だ、マジで強ェ。
思わず膝をついてしまった。
力の入らない足を睨みつけるが、意志に反して動かない。
千明は喧嘩が好きだった。
ずっとずっと喧嘩に明け暮れた中学時代だった。
けれども、それでは通用しないと知ったのが
強いだけでは勝てない相手がいるのだ。
引っ越しを機に人生を変えようとした。
できる限り喧嘩から離れようとした。
たとえ
「は――」
それがこのザマか。
喧嘩をしないなんて誓いはとうに破られ、唯一の自慢であったそれですら、今まさに敗北しようとしている。
相手は柴方高校の番長。
赤城夜宵。
子供じみた言動の裏に、あまりにも不良らしい本性を隠している。
無理やり膝を叩いた。
拳を叩きつけて、立ち上がった。
千明の意識は朦朧としており、まともに喧嘩などできそうにない。
夜宵もそれを悟ってか、余裕そうに首を傾げる。
「もうやめたほうがいいぜ」
「……ハァ、舐めんじゃねェ――!」
「舐めてないさ。あたしはお前を尊敬してすらいる。あたしの前にここまで立っていたやつは、記憶の限りではいない。誇っていいぞ」
相手も自分と同じくらいのダメージは受けているはずなのに、どうして夜宵は落ち着きがあるのか。私の攻撃は効いていなかったのか。
千明は苦悩に表情を歪めた。
そもそもどうして私は喧嘩してるんだっけ?
霞んだ脳は過去を振り返り始める。
自分が立っている理由。
「んだよ……
あの〝カリスマ〟とも表現できるかもしれない、バカヤローのせいだ。
加えて気絶している湊の隣でこっちを見つめている男。
結局女なんてのは馬鹿な生き物で、異性の前ではカッコつけたくなってしまうものなのだろうか。
くだらない喧嘩の理由に、むしろ千明は笑いがこみ上げてきた。
「く、くくく……」
「んだァ? 気でも狂ったか」
「ちげーよ。自分なりに『私』ってものを振り返ってみたんだよ」
「賢そーなコト言ってんなァ」
夜宵は頬をぽりぽりと掻く。
「んで、降参する準備は出来たか」
「悪ィけど降参の予約は二年後までいっぱいなんだ」
「そうか。拓馬の友達だから、あんま怪我させんのはヤなんだケド……」
勢いよく踏み込み、
「女だったら一度吐いた言葉飲み込むんじゃねェぞ――!」
「上等だァかかってこいよ赤城夜宵――!」
最後の攻防が、始まる。
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