第30.5話 夢と謙信


 戦国こっちに帰ってきて七回目の夜がきた。


 自室前の廊下の手すりに両手で掴まり、夜風を全身に受けている私───上杉夢は一人の男の子の事を考えていた。


 それは444を生きている春喜の事である。10年程前から『好き』でいた人。───なのに私ので引っ叩いてしまった人でもある────。


 好きなはずなのに。今は春喜に会いたいとは思わない。


「おや······まだ起きていたのかい?」


「·······父上」


 階段から上がってきた父親───上杉謙信は少し驚いた様子だった。肩衣袴かたぎぬはかまの姿の謙信は今日は涼しいねぇ、と独り言なのか、私に問いかけているのか判断が難しい声量を出す。


「どうされたのですか?」


 首を傾げている私の横に謙信は隣に並び立つ。日焼けした顔は遠くの山を見据えているようだった。


「たまに、夜な夜なここで遠くの景色を見ている時があるんだけど·······気づいてなかった?」


「······いえ、わかりませんでしたわ·····」


 私の返しに父親けんしんはそうか、と呟くだけだった。


 暫くの間、沈黙が続いた。風がこの戦国の大地を切り裂く音だけが私の鼓膜を振動させた。


 もう寝ようかしらと、自室に戻ろうとした時、謙信は口を開いた。


「もう現代むこうには行かないのかい?」


「······まだ迷っています」


 私はたっぷりと間を置いて父親の問いかけに答えた。着ている白い小袖を風でなびかせながら謙信の顔を覗く。


「一体何を迷う事があるんだい?」


「······春喜様に手を上げてしまったのです。何てお詫びしていいのやら·····その言葉がまだ見つからないというか·····」


 俯く私に謙信はゆっくりと喋る。


「もしかして春喜君が怒っていると思っているのかい?」


「はい·····」


 当然だと私は肯定すると、謙信は遠くの山を見ながら優しい声を発する。


「それくらいで彼は怒らないよ」


「······どうしてそう言えるんですか?」


 謙信は目線を変えずに疑問に思うわたしを静かに問い詰める。


「彼はそんなに心が狭い人間かい?」


「·········」


 ────そんな事は·····ない。


「夢が10年間も想っていた男はそんなに『小さい男』だったのかな?」


「っ!?そんな事は!」


 つい大きな声が出てしまった。


「······なら、どうして彼が怒っていると思うんだい?」


「そ、それは······」


 ───それは私の勝手な思い込みだ。


 春喜が怒っている事が私にとって。怒っているなら彼も私に会いたくないと思うはず──それなら会わない方がいい、と自分の行動を正当化出来る。


 つまり私は春喜様の感情を言い訳に────逃げているだけだ。


 自分は最低だ、と考えていると隣から声が飛んでくる。


「·······実は昨日、現代むこうに転移したんだけど····」


 うーん、ちょっとこれは過保護かな、と謙信は小声で呟いたのを私は聞き逃さなかった。


「······春喜君はね、夢の事心配してたんだよ?」


「え?·····何故ですか?」


 驚きの表情で謙信を見るが、当の本人の目線はさっきから変わっていなかった。


「俺を叩いた事を気にしているのかなって。彼は夢に叩かれた事なんて全く怒ってなかったよ」


「春喜様が······」


 怒っていない?本当に?


「それとね、夢が春喜君を叩いたのは美久さんからのお願いのせいだって春吉から聞いたんだけど········私は夢が春喜君を叩いた理由はそれだけじゃないような気がするんだよね」


「どうゆうことですか?」


「春喜君を叩く時、美久さんからの願いだからって────しか思わなかったのかい?」


「········」


 私はあの時を懸命に思い出す。母親みくからのお願いの為と────。


「········」


 ─────それから、春喜の為に止めたいと思った事を········思い出す。


 「······説明は上手く出来ませんが······春喜様を止めないといけないと思いました」


 やっぱりね、と呟く謙信を他所に私はその時の心情を振り返る。


 直感ではあったが、ここで止めなくては取り返しのつかない事になると思ったのは事実だ。


 しかし───。


 手をあげたことには変わりない。


 再度俯いてしまった私に謙信は語りかける。


「夢よ·······愛する事と甘やかす事は違うからね」


 低い·····けれど綺麗な声が私の耳に入ってくる。


「愛する人が間違った事をしたのなら、例えになってでも叱ったり、止めてあげないと駄目だよ。·······じゃないと、後々その人が他人を傷つけたり、本人自身を傷つけてしまうからね」


 何も言えない私は、静かに父親から発せられる言葉を聞き逃さないように聴力に神経を集中させる。


「間違えを正してあげるのも立派な『愛』だと私は思う」


 夜空に溶け込みそうな、おっとりとした口調の謙信の言葉を聞いて私は首を少し傾げる。 


 ─────愛······か。


 この10年の間、私は春喜が『好き』であったが、『愛』とは思った事がなかった。


 そもそも『愛』とは何だろうか?

 『好き』と『愛』では何が違うのだろうか?


 私にはよく分からない。『好き』と『愛』の差が────。


 自信のない独り言のような小声で、私は細々と言葉を紡ぐ。


 「········『愛』とは何でしょう?····私にはよく分からないのですが·····」


 不安そうに言う私に謙信は微笑む。


「何を言ってるんだい?·······この前春喜君を叩いた事が、夢が春喜君に対する『愛』じゃなくてどうする?」


「えっ·····」


 私は左手を見ながら驚きの声をあげた。


 「『愛』無くして、そんな事は出来ないよ。自分にとってどうでもいい人間なら、夢は好き好んで行動なんて起こさないでしょ?ましてや人に嫌われるような事を進んではやらないよね?」


 謙信はより一層、優しい顔になる。


 「春喜君の母親──美久さんが夢にお願いした事も『愛』だし、夢が春喜君を······嫌だけど彼の為に······と叩いた事も『愛』だよ」


 「········」

 

 ───何だろう······身体の中心で新しい『感情』が芽生え始めている。

 

 黙っている私に越後の龍は語りかける。


「だから私は·····春喜君を叩いた事は決して間違いではないと思うよ」


 謙信は今度は上を向いている。夜空に好き勝手散らばっている星々に何か願いをするように柔らかな声色で続ける。


「私の言葉を疑っているなら、本当かどうか現代むこうに行って────春喜君と話して確かめてきなさい」


「·········」


 どうしてだろう。

 私の身体の芯がとても熱くなっている。


 この感情は一体·······。これも現代むこうに行けばわかるのかな?そして、春喜様に会えば──。


「······わかりました。明日、現代むこうに行ってみます」


「······それがいいよ」


 謙信は朗らかな表情で愛娘まなむすめを見ている。私もそんな父親を見て微笑んでしまった。


 決心した私は夜空を見上げてもう一度を想う。


 その瞬間────。


 何でだろう。今凄く貴方に会いたいと思った。


 六日前に戦国こっちに転移して、さっきまで彼に会いたいと思ったことはないのに········。今は、すぐにでも、飛んでいってでも会いに行きたいと思っている。


 これが私の本心───なのでしょうか。


 胸に手を当てている私に謙信は、あっそうだ、と少し楽しげな声をあげる。


「実は春吉から預かってきた物があるんだけど」


「······何ですか?」


 私の質問に謙信は笑いながら答えてくれる。


「いや、は美久さんの部屋に置いてきちゃったんだけど········」


 なんだろう、と首を傾げていると謙信は日焼けした顔を破顔させて言う。


「春吉から伝言があって、『を春喜が見たら、『面白い顔』になるだろうから、後で俺に春喜がどんな顔になったか教えてほしい』ってさ────」

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