第27.5 間違いではない
『ねえ·····夢ちゃんにお願いがあるの』
『なあに?』
『もしね······春喜と春喜のお父さんが大きな声で喧嘩してたらね······夢ちゃんに止めて欲しいの』
『止めるって·····どうやって?』
『ふふふ·····それはね』
『?』
『思いっきり顔を引っ叩いてやって』
『······どっちを?』
『どっちって·····そりゃー夢ちゃんの好きな方でいいのよ』
『好きな方?』
『そう······好きな方でいいのよ······』
『······わかった。』
『ふふ·····お願いね────』
────光を感じる。
「········」
目を開けると、見慣れない天井がある。
私───上杉夢はゆっくりと上体を起こす。ベッドが少し軋む音がした。蛍光灯の光がいつもより眩しく感じる。部屋の照明をつけたまま寝てしまったらしい。
そうだ。思い出した。
思い出せたのはここが美久の部屋だからだろうか。それは分からない。でも───。
「でも·······何故?」
自分でも引っかかる所があるのだが······。
「·······」
───でも春喜様の母上が言うのであらば。
「······それで正解なのですね·····きっと」
夢は一人、美久からのお願い事を考えていると、どこからか大きな音が聞こえてきた。
続けて大きな声が聞こえてくる。
·······今のは春喜様の声?
何事かと思った私は美久の部屋を出る。
耳を澄ますと下から声が聞こえてくる。時おり怒鳴り声が聞こえる。
······どうしたのだろうか。
私はゆっくりと階段を降りる。音が出ないようにゆっくりと。今日も寝巻きで着ている白い小袖で足を引っ掛けない様に段差に気をつけて降りてゆく。
リビングからだわ·····。この声·····春吉様もいるのかしら·····。
降りきった私は足音を立てないようにゆっくりとリビングの入り口付近の壁に身体を預ける。いきなりここでリビングに入る勇気はなかった。
·····何をそんなに春喜様は興奮しているのだろうか?
聞き耳を立てていると春喜から『母さん』というワードが聞こえてきた。
·····美久様のこと?
「分からないならはっきり言ってやろうか!」
気になって少しリビングの中を二人に見つからないようにこっそりと覗く。
するとそこには立ち上がり父親に向って怒鳴っている春喜と、自分の息子を眼光鋭く睨見つけ、今にも殴りかかりそうな体勢になっている春吉がいた。
両者ともにテーブルを挟んで睨み合っている。
これって喧嘩ですよね?
夢はその場で考える。······これはまさに美久に頼まれていた事を実行する時ではないか、と·····。
でも私に出来るかしら。
────『そう······好きな方───』
美久の言葉を思い出す。
出来るか出来ないじゃない。美久様にお願いされた事·····、託された事をやりたい。
「そもそも病気の発祥も───」
春喜は更に春吉を責めていた。
このままではいけない。早く喧嘩を辞めさせなくては·····。お二人の仲が取り返しのつかない事になる前に······。春喜様は感情の抑えが効かなくなっている気がするし。
そう思った私はより一層、
私は咄嗟に右手と左手を交互に見つめる。
······やるしかない。今ここで。
「だから·····!───」
春喜の怒鳴り声を聞きながら息を一つ吐き、左手にほんの少しだけ力を込めて、私は忍び足で───されど無駄のない動きで一瞬で春喜の横に急接近する。
「母さんは───」
高速で間合いを詰めた私は思いっきり左腕を振りかぶり、春喜の右頬めがけて振り抜く。振り抜く時に自分の顔が少し歪んでしまったのがわかった───。
パァァァン。
乾いた音が炸裂する。
───やってしまった。
そう思った時には春吉がポカーン、といった表情で私を見つめていた。
春喜はというと、一度自分の父親の顔を見て驚き······ゆっくりと私を視界に入れてきた。
「·······っ!」
春喜は何か言いたそうな表情とも、困惑したような表情とも読み取れる顔をして、私の横をすり抜け階段を上がっていった。
春喜が自室のドアを閉めた音なのだろう。バタンと音がなってから、春吉がストン、と椅子に座った。
「夢ちゃん·······」
春吉は小声で呟くように言葉を吐いてきた。
「え······春喜を······叩いたの?······え······マジで?」
「はい·····」
応える私に春吉は何故と言った顔になった。私は春吉の顔を見て、本当にこの人はあの人の父親なんだなあと思った。表情がとてもわかりやすい。
「美久様のお願いでしたので······」
「······美久の?」
首を捻っている春吉に私はずっと聞かないでいた事を聞いてしまう。母親の事で喧嘩をしたのなら尚の事だ。
「春吉様······何故、春喜様に春吉様が旅をなさっている本当の理由を教えてあげないのですか?」
私が恐る恐る聞いてみると、春吉は夢ちゃんに話したのは失敗だったかなぁ、と独り言を言ってから苦笑いしていた。
「本当って·····仕事だってもちろんしてるんだし」
「でも、お仕事だけが理由じゃないですよね?」
「いやまあ·····最近は割と仕事の方がメインになっているというか······」
春吉は歯切れの悪い言い方になっている。
───これ以上追求しても良くないか。
私は出過ぎた事を言ってすみませんでした、とペコリと謝った。
私が謝ると春吉は眉を曲げながら、いやいや、と手を振っている。
「いや······いいんだけどさ·····」
頭を掻いて下を見ていた春吉は、突然ぱっ、と顔をあげ私の方に視線を向ける。
「それより·····美久のお願いって?」
ああ、と私は呟き、微笑みながら春吉の疑問に答えてあげる。
「はい·····昔、春喜様と春吉様が喧嘩してたら止めるように美久様にお願いされまして」
「·······喧嘩してたら春喜を殴れって?」
不思議そうに見つめる春吉に、まさか、と一人心の中で否定し、春吉の問いに答えようと言葉を発する。
「いえ·····私の好きな方を叩いてほしいとの事でしたので·····」
「だったら·····俺じゃなくて良かったのかい?」
「春吉様もとても好きですが·····やはり春喜様には勝てないといいますか····」
一人恥ずかしがっていると、春吉の顔が歪む。
「······ん?なんて?」
「だから、えっと、春吉様も好きですが、春喜様はもっと好きなので······。春喜様に手を挙げるのは本当は嫌ですが·······美久様のお願いでしたらしょうが無いかなと思い·····」
私は
「えっと······美久が夢ちゃんに何て言ってお願いしたか、もうちょい詳しく教えてくれるかい?」
「はい。·······春喜様と春吉様が喧嘩してたら引っ叩いて止めてあげて、と言われまして」
春吉は腕を組み、うんうん、と頷く。
「それでどちらを叩けばいいか分からなかったので、美久様に聞いたら、好きな方でいいとのことでして·······」
私が言い終えて、すぐに春吉は両手で顔を覆った。
「あー······なるほど·····」
どうしたのかしら。手を離した春吉様の顔は何か我慢したような顔になっているような······。
「······夢ちゃんは今までマトモに会話したことがあるのって数人だよね?」
「·····そうですね·····数えるくらいしか居ないと思いますが······一人でいる時間が長いですし·····」
「いやー·····やっぱし漫画だけじゃ学ぶのは厳しいか〜」
俺も謙信もハッキリと言うタイプだしなぁ、と独り言を呟きながら春吉はポケットからスマホを取り出し、何か打ち込んでから私に見せてきた。
少し距離があったので二歩ほど近づき、画面を見る。───が漢字があってよくわからない。
「すみません·····ちょっと読めないです」
「あ、そっかそっか」
春吉は先程から続けている表情を崩さないでいる。スマホと私を交互に見ながら口を動かす。
「いやっ、完全に間違いではないんだけど······」
私は首を傾げて続きを黙って聞く。
「······美久が夢ちゃんに言った『好きな方』ってのは、『好き勝手』という意味合いで、自分の都合のいい方でよい、っていう意味なんだよ······」
「·········」
───なんだろう。背中から変な汗が出てきた。
「夢ちゃんが思っている『好きな方』っていうのは『異性として好き』、『男として好き』っていう意味だと思うんだけど······」
───おかしいな。汗が額からも出てきた。
春吉はゆっくりと笑いを堪えている顔になってゆく。
「だから·····美久が言ってたのは『春喜を叩け』っていう意味じゃないからね?」
「·········」
「·········」
二人して沈黙していると時計の秒針のカチカチという音だけがリビングに響き渡る。
春吉はもう限界みたいだった。
私は唇を震わせながら何とか言葉を吐き出す。
「───はっ·····春吉様ぁぁ····私は·····私は何て春喜様にお詫びすればよろしいのでしょうかぁぁぁぁ」
泣きそうな私を見て春吉は大爆笑した───。
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