かわいそうなこと
たなべ
かわいそうなこと
私はいつも謝っている。謝罪している。道で擦れ違う人とぶつかった時、何かを喋ろうとしてバッティングした時、エレベーターで先に人が乗っていた時。先ず謝るのは私だ。「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ありません」そして大抵、相手は何も言わない。口を噤んでいる。黙っている。さもそれが当たり前かのように突っ立っている。そして真っ黒な瞳で私を見つめてくる。光の無い吸い込まれるような瞳。いや、その逆かもしれない。何もかも吐き出すような瞳。これで私の瞳孔を突き刺してくる。怖い。私はこれに見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。一瞬、頭がその運動を停止する。どうすれば良いのか分からなくなる。それから、不連続的に恐怖が躍り出てくる。何かしてしまっただろうか。何か不満でもあるのか。何か不足なら言ってくれ。そうまで思う。しかし、そういう恐怖というのは大体、実現しないもので、相手は何も無かったかのように振舞って、それで私もいつの間にか忘れてしまう。そうしていつも通りの毎日を送り、また恐怖し、また忘れる。それを繰り返す。少なくともある時期まではそうしてきたし、それからもそうするつもりではあった。何か恐怖する事案が起こっても、いつの日かそれを忘れ、楽しく意気揚々と暮らしていくことを私は予期していた。しかし、それはある頃から急にできなくなった。苦しいこと、辛いこと、忘れたいこと。その全てが、鮮明な傷跡として私の脳に焼き付けられて、そうして動かなくなった。楽しいこと、嬉しいこと、忘れては駄目なこと。こういうことが積み重なるよりも早く、傷跡が深くなっていって、もう思い出せないくらいに、記憶の下部に沈殿してしまった。だから、そういう記憶を呼び起こすには、必ず、辛くて暗い記憶を漁って、切り分けなければいけない。そうして漸く、光が見えてくる。しかし、記憶とは思い出せば思い出すほど穢れていくもので、今となっては、瑕一つない記憶何てどこにも無くなってしまった。悲しい。でもしょうがないとも思う。そうだ。そもそも過去に縋り付いているのは、あまり良いことではない。過去を振り返って何になる。私はそう考えている。振り返ってためになるのは失敗だけ。楽しかったこと、嬉しかったことは思い返しても何にもならない。今と比較して虚しくなるだけ。不幸しか運んでこない。過去を振り返るのは今が惨めだからだ。惨憺たる毎日を送っているからだ。私もそうだ。いつの日か自分の正常が異常になり、健全な脳が蝕まれ狂っていく様をぼうっと、まるで夕立を部屋の中から眺めるかのように見てきた。あの頃から私は卑賤で、茫漠として、何も成長していない。酷い毎日だ。酷い毎日を送っている。私自身の目から見ても酷くて無残なのだ。他人の目からしたら、もう殆ど人間生活と言えない暮らしをしているのではないだろうか。物事は当事者からは分からないものだ。外からしか見えてこない。例えば、大きくて真白の立方体にあなたが入っているとする。立方体は十分に広くて、壁面は確認できない。そんな中、あなたは自分が立方体の内部にいると自覚することができますか。多分、できない。私が言いたいのはそういうこと。つまり、門外漢の意見こそ尊重すべきであるのだ。どうしても当事者となってしまうと、主観を排することができないため、正しい的を射た意見になりづらい。でもそんなことを前提に置いて、私は自分語りをしている。矛盾だ。そう。人間は矛盾で満ち溢れている。しかし、矛盾が存在しているからこそ、矛盾していないものが存在できるのであって、人間と言うものは相対化することでしか物事を判別できない。ある時、人々は健常と病気という分類を生み出した。そうだ。病気の人がいなければ健常かどうかは分からない。こうやって漸く私は自分自身の存在意義を確かめる。私は悪役。私は悪役。そうやって言い聞かせる。普段はこうして乗り切っている。街路を歩く時、電車に乗る時、学校で発表する時。いろいろな瞬間に私は悪役になっている。でも、唯一私が正真正銘の私として存在することが許されている場所がある。それが病院である。病院には私の仲間がいる。私と同じ病名を下され、同じような効用の薬を飲み、そして多分、似たようなことを考えながら日々を送っている仲間がいる。そして、そこでは(誰かを傷つけるような表現となってしまいますが、使わせて下さい)異常が許されている。どんなにおかしな行動をとろうが、その人はきっとあの病気を持っているに違いないと皆了承してくれるから、私も変に肩肘張らずに、いつも伸び伸びと診察を待っている。そして先生と一対一で対話をする。何でも無いことだ。最近の調子だとか、食事をちゃんととれてるか、睡眠をちゃんととれてるか、薬の飲み忘れは無いかとか。そんな程度だ。しかし、私にとってこの時間は大切なのだ。異常が正常になって、正常が異常になるこの空間。それを心地よいと感じる。これはおかしなことでしょうか。どうかおかしいとは言わないで欲しい。私は、物凄く傷つきやすいのだ。今日も、アルバイトの応募先から電話がかかってきてその電話越しの人間が非常に厄介というか、人を小馬鹿にするような態度の人間で、大変傷ついた。憤りも覚えた。文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、事を大きくしたくなかったので止した。私はそういうことが多い。それと私はよくLINEで既読無視される。いつも苛立つ。そういうことをされる度に、言い知れぬ程の憎悪と怨念が私を取り巻く。絶対にそいつの葬式には行ってやらないとも思う。それが一週間ほど続く。そして忘れた頃にまたやられる。私は異常者なので、しょうがないと思うが。それで割り切れるほど私は大人じゃない。傷つけられたら傷つけ返したいし、何なら倍以上で返せたらとも思う。しかし、それもこれも叶わないのだ。結局、私にはやり返す度胸が無い。やり返したところで生産性が無いのは分かり切ったことだし、そもそも相手と私では文化が違うのだ。分かり合えなくて当然。ただ既読無視には一丁前に腹が立つ。それに私は基本的に人間が嫌い。自分を知らない人が特に嫌い。私の命をぞんざいに扱ってくる気がする。きっと私が路上で血を流して倒れていても何もしない。通り過ぎるだけ。それかスマホで撮影するか。結局、そうなんだ。私は人と一対一で擦れ違う時、いつもいつも一抹の寂しさというか憤りを覚える。この人は私のことを路傍の石ころと同等に見做しているのだなあと思う。私がどっかで死んでも、何も気にも留めず、悲しむことも無く、笑って、幸せに暮らしていくのだなあ。嗚呼虚しい。でもそういう私も毎秒誰かが死んでいくこの世界で生きているわけで、その人たち一人ひとりに対して悲しみを覚えることも無いのだが。それもそれで虚しい。人の死をまるで木の葉が落ちることのようにして暮らしている。まあ、しかし人の命が一体どれだけ重要で重いのかという話にはなってくる。本当に人の命は木の葉と同じくらいなのかもしれないし、一方で誰かが言ったみたいに地球より重いのかもしれない。そんなことは分からない。少なくとも生きている間は。詰まるところ、結果が重要なのだ。生きていく上では。そして何かを評価する上では。何も成し得なかった人間は誰にも思い出されること無く、いなくなる。星屑になる。大半の人間はそう。でも私はそれが嫌だから文章を書いている。そして態々、人の目に触れるようにこうやって投稿している。ちょっとでも爪痕を残したい。誰かに気付いてもらいたい。百年後千年後、私の血が完全に途絶えて、消えている頃、誰かがこの文章を読んで、そしてその脳に記憶してもらいたい。そういう願いを込めてこんな文章を書いている(半分ストレス発散である)。でもまあ、願い事っていうのは殆ど絶対に叶わないもので、願っても無いことが逆に叶ったりする。だから、敢えて私は放っておく。こんな文章どうでもいい。どうにでもなれと思う。矛盾だ。こうして世界に矛盾が増えていく。今日も何個この世界は矛盾しただろう。考えたらわくわくする。想像もつかないスケールの話にどきどきする。しかし、そんなことを思っても毎日は続く。私のような
かわいそうなこと たなべ @tauma_2004
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