第7話


 そんな、少し楽しい日常が続いていたある日のことだった。


 

「おい、そこのお前!ちょっと止まれ!」



 耳にタコができるほど聞いてきた言葉とその声に、思わず出そうになった不満の声を慌てて飲み込む。



(またか……。なんか最近多くない?)


 

 地面を踏み鳴らす音がこちらまで聞こえてきそうな足取りでこちらへやってくる河内に、最早呆れさえ薄れてきていた。この後の行動をスムーズにするために鞄の中に手を突っ込んでおき、予め証明書に触れておく。



 目の前まで迫ってきた河内は、明らかな怒りの表情を浮かべながら私の髪の毛を睨みつけた。



「その髪の毛!染めてるだろ。校則違反じゃないか!」



「何度も言いますけど、これは地毛です」



 堂々と証明書を河内の目の前に突きつける。もう何度目だろうか、この会話。最早数えてみようか、とすら思った。



 河内は依然として証明書との睨み合いを続けつつ、例の手帳を取り出した。そして、私の名前が書いてあるであろうページを開いた時、眉が僅かにぴくりと動いた。



「……ああ、2年の山本か……」



 どうやらそろそろ記憶に私のことが蓄積されてきていたらしい。初めて、知っているような口ぶりで名前を呼ばれた。



「そろそろ覚えて下さい。もう結構止められているんですよ」



 思わず本音が溢れてしまうも、もう遅い。河内の表情が、僅かではあるが明らかに変わった。バタンと強く手帳を閉じて、大きなため息を一つ吐き出す。怒ってる、というのは誰から見てもあからさまだった。



「あのなぁ、こっちだって好きで注意してるわけじゃないんだ」



 生徒のことを想って、などと綺麗事を理由にしているわけではない言い方に、手汗が滲んだ。それは、河内の確かな本音だと、何の根拠もなく分かった。



「そんな紛らわしい格好だと、いくら教師だって間違うもんだよ」



「じゃあなんですか?黒染めをして来いとでも?」



「髪染めは校則違反だろ」



 何を言っているんだ、と言いたげな視線に、心の中で舌打ちを打つ。もう相手が年上だろうが教師だろうが関係なかった。



「じゃあどうすればいいんですか!?」



 唐突に叫んだことで、周りの登校中の生徒は驚いたに違いない。四方八方から視線がグサグサと刺さっていることは分かっていたが、もうどうでもよかった。



「地毛だって言ってるのに何度も止められて、黒染めをすればいいのかと言えばそうじゃなくて……。じゃあ私は一体何をすればいいんですか!?」


「それは……」



 河内は狼狽える。ここまで迫られるとは思っていなかったのだろう。無言になった河内に痺れを切らした私は、「もういいです」と吐き出して駆けた。



「おい!」



 呼び止めるような声が聞こえた気がしたが、構わず私は足を動かす。視線の雨の中を走り去って、とにかく河内から、そして人間から距離をとった。



 そうしてどれほど走ったのだろう。意思もなく動いていた足が、疲労により止まる。その瞬間、ドッと疲れが押し寄せてきて、立っていられなくなった私はしゃがみ込んだ。



「はぁっ……はぁっ……っ!」



 胸が苦しい。まともに呼吸ができない。視界の周りが暗く縁取られている。体が鉛みたいに重い。



 座ろうと思って顔を上げた先は、私と颯の秘密基地だった。思わず頰が緩む。無意識下でも、私の心の底はここを求めていたみたいだ。



 いつものように階段に腰を下ろして膝を抱えた。



「なんだよ……全部、全部私が悪いわけっ!?」



 望んでこんな髪色で生まれてきたわけじゃない。苦しみや辛さなんて欲しくない。脳裏にそんな言葉たちが浮かぶたび、爪が肌に食い込んで痛む。



 ただ私は、みんなと同じような、普通の生活が送りたいだけなのに。



「方法があるなら、とっくにやってるよ……」



 そのままはだめ。黒染めもだめ。証明書もだめ。ならば一体、どうすればいいというのか。



「嫌だよ、もう……何もかも」



 きつく、強く、自身の足を抱きしめる。爪が突き刺さる感覚も、今は不思議と心地よい。もうこのまま、この世界から帰ることができたら。



(そうしたら、私は……)



 泣き疲れて、微睡に沈もうとした、その時だった。



「紗夜っ!」



 私を呼ぶ声がした。ゆるゆると顔を上げる。明るさに目が眩んだのち、1人の人物の輪郭をが鮮明になった。



「はや、て……?」


「良かった。やっぱここにいたんだ……」



 目が霞んでいるせいなのか分からないが、颯は荒く呼吸をしている。額も汗をかいているのか、淡い日光を反射していた。



「なんで……?」


「紗夜が、河内とかいう教師と言い争ってるのが聞こえて、見てみたら、なんかすごい勢いで走ってったから」


「どうして、私が、ここだって分かったの……?」


「それは……」



 一度私から目を逸らし、何度か制服を仰いだあと、颯は再び私を見つめた。



「なんとなく、かな」


「えっ……?」


「なんとなく、ここにいる気がした。ただ、それだけだ」



 なんとなく。そんなの、ただの勘に過ぎないのに。でも、むしろそれが嬉しくて、私は無意識に笑っていた。



「そっか……。なんとなく、で分かっちゃうんだね」



 それほどまでに、この場所は私と颯にとって大切な場所。そういうことなんだろう。



「ああ、そうだな」



 固くなっていた颯の表情も綻ぶ。そして、静かに私の隣に腰を下ろした。



「それで、その……何があったんだ?」


「うん。実はさ……」



 私は河内に言われたこと、その時思ったこと、その全てを、包み隠さず話した。颯は口を挟むことなく、真剣に私の話を聞いてくれていた。下手な助言や同情なんてしないで、ただ私の言葉に耳を傾けてくれる、そんな彼の姿勢が嬉しかった。



「そうか。そんなことを言われたのか」


「うん」



 私は天井を見上げる。何もないはずのそこに、先ほど目に焼きついた光景が浮かび上がる。



「全部、私が悪いのかなぁ」


「そんなわけないだろ」


「そう?でも、私の髪がこんな色だから、色んな人に迷惑かけちゃうのかも」



 思い出すたび、まだ河内の言葉が頭の中に響く。生徒だとか、そういうのは関係なく、きっと1人の人間に向けて言ったのだろう。



「地毛だと紛らわしいし、だからといって染めるのも校則違反だしさぁ。どうすればいいんだろうね、ほんと」



 涙が半分、諦めの笑いが半分。胸の中はぐちゃぐちゃだった。頰は乾いた涙で冷たくなっている。体は汗ばんでいるくせに、心は冷たく沈んでいた。そこに、温もりが加わる。



「えっ……」



 いつの間にか、颯に抱きしめられていた。彼の吐息がすぐ近くで聞こえてくる。



「ちょっ、どうして……?!」


「辛かったな」


 

 颯の声が耳元で聞こえてくる。顔が熱くなり、どうにもできない私は俯いた。慣れない距離感に、彼の顔を直視できない。



「紗夜の苦しみを完全に理解している、とは言えないけど。少なくとも、その辛さは、俺にも分かるよ」



「あ……」



 自分の中で、何かが崩れる音がした。感情を抑えていた壁が決壊したのか、堰き止めていた障害物が流れ落ちたのか。先ほどの比ではない、大量の涙がぶわっと溢れ出てくる。今まで我慢していた分、その全てが。



「抑えなくていい。そのまま、吐き出せ」



「うんっ……うん……っ!」



 幼子のように声を上げて泣き出した私を、颯は優しく包み込んでくれた。そして、まるで親のように頭を撫でる。全てを受け入れてくれた彼の優しさに、私の涙はしばらく止まらなかった。

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