心の友よ

正常なテンションに戻らない精神を引きずって、私はツバサの元へ行ける気はしなかった。

ツバサは私にとって心の友だが、こんな自分を見せたくない相手でもあった。

今日は家にすら帰れないかも。


どうにもならない自分自身にため息が出ながら、もう一度、ガードレールに近付いてみる。

ガードレールに身を委ね、下を覗き込む。

たかい、高い、そして怖い。

ここから落ちたらきっと助からないだろう。

でもここなら、山の中だから自殺に見えないだろうし、何なら見つからないかも。

恐怖と共に現れた微かな希望を胸に、私はガードレールの下から空へと視線を移した。


もうすぐ完全に日が暮れる。 いくら夏になって日が長くなったとはいえ、ある程度は暗くなるだろう。

空を見ると、余計なこと考えられなくなって、世界に私だけになったような気がして、生きてるって感じがするんだ。

深い青と沈みかけた夕日の赤が混ざって淡い紫色になった空を見つめ、その綺麗さに胸がいっぱいになりながら見惚れていると、


「呼んだか?」


突然声がして思わず振り返る。

思ってたより近くに、目と鼻の先に彼は居て少し驚いた。

ツバサ、私の心の友。


「何だ?驚いたような顔して。自分で人を呼んでおいて、その顔は無いだろ?」


私の反応を見て、ツバサは困ったように苦笑する。


「君を呼んだ覚え、ないんだけどな。」


私はちょっと笑って彼の肩を軽く叩いて言った。

標準語、ツバサと話す時の癖。

ツバサがここの土地に馴染めるようにと始めたことが癖になった。

いつもの癖。

良かった。 ここでツバサと会ってしまって動揺していた部分も、この癖でカモフラージュされたかな。

そんな私の心の内を知ってか知らずか、ツバサは、


「そりゃ、残念だ。俺は、お前が呼んでいるって聞いたからわざわざ来たってのに。」


と目を細めて、ふわっと柔らかい笑みを浮かべて言った。

まるで獣が、獲物に狙いを定めるように、私の心を読もうとでもするように。


「ねえ、ここから身を投げたら確実に死んじゃうかな?」


ふと口から零れ落ちた声、言葉。

口にしてはイケナイ、私のひどく壊れた心の声。

ナイフのように尖った言葉は、それまで和やかだった二人の間の空気を一瞬にして切り裂いた。


何を言っているんだ?私は。

はっとして口を手で覆う。

顔が引き攣って、頬の筋肉が痛い。

無理やり作った笑顔で彼を見る。

ツバサは一瞬驚いたように動きを止め、横目で私を見やる。

私はじっと彼を見つめ、ツバサはちらちらと不規則に私を見つめる。

お互いに何も言葉を発さないまま。

時間がこくこくと過ぎていくような感覚を肌で感じる。

今までに、時間がこんなに重いと感じたことは無いだろう。

不味い、非常に気まずい。

自分が物凄い爆弾発言をしたことは認める。

それにしても何も反応が無いのは怖い。

何か、何でも良いから反応を返して!

そう強く私は心の中で叫んだ。


「さあな、どうだかね。」


ふいにツバサは私を静かにじっと見つめ、言葉を返してきた。

黙りこくっていたのは、私の問いに対する答えを模索していたからなのだろうか。

彼が黙っていた理由は分からないが、そう短い答えが返ってきた。


「そっか。」


短い言葉を残して、今度は私が黙り込んだ。 これ以上に返す言葉が見付からなかったからだ。


「死ぬな、精一杯生きろ。死ぬことは、自ら命を絶つことは悪いことだ。生きているだけで100点満点。 そんな偽善ぶった大人が言うようなクソみたいなきれいごとは、俺は言わない。 だが一つだけ言おう。しょうもない理由で死のうとしているのなら、それは恥晒しだ。 只の衝動で、只の思い付きで死のうとしているなら、後で後悔する以外に道は無い。 図星なら止めておくんだな。お前はまだ生きることが出来るんだから。」


私が黙りこくっていると、ツバサは鋭い光を目に浮かべ私を睨むようにして言った。 氷のように冷たい眼光に、私はゾクリと体中に悪寒を覚えた。

最後のぼそりと低く掠れた言葉に、私ははっとする。


「俺はうわべだけの大人のようにお前を止めたりはしないよ。」


ふっと視線を、はっとした表情を浮かべた私から逸らし、彼は独り言のようにぽつりと言った。

視線は宙を彷徨い、私が乗り越えようとしていたガードレール前で止まった。

今のツバサは嘘吐きの強がりだ。

止めたりしないと言っておきながら、止める気満々じゃないか。


「誰も身を投げて死にたい、なんて言ってないんだけど。」


私は茶化すように軽く言葉を発した。

言葉は軽くても、心は重い。

鉛のように重く、黒い。

心が痛い、心臓が一拍一拍、重く低い音を立てて動く。 心臓が血液を送っているはずなのに、私は血の通っている感じが全くしなかった。

嘘吐きの強がりは、彼では無くて私なのかもしれなかった。


「へえー、そうか? 俺にはお前が、死にたくて死にたくてたまらない自殺願望者のような姿に見えたが。死ぬ気なんだろ?」


彼の鼻で笑うような皮肉の混じった声が返ってきた。

表情は幾分か柔らかかったが、彼の私を見つめる目は鋭かった。

どうやら嘘吐きの彼は、更に嘘吐きの私の心の内を見透かすことが出来るようだ。


「そりゃ、悪かったねえ、自殺願望者みたいな容姿をしてて。 ただちょっと、生きることに疲れたのさ。 死ぬことも一つの選択肢だなあってね・・・。」


私はちょっと笑んで、白状するようにぽつりと心の内を明かす。

気付けば夕方、日はいつの間にか落ちていた。

空には薄い月と小さな星。 私は星を拾うように、薄暗くなった空にすっと手を伸ばした。 心に光、希望を求めるように。

私はガードレールを離れ、歩き出す。

ツバサはその後ろをゆっくりと歩き、ついてくる。

そして振り返って、彼に問い掛ける。


「ねえ、ツバサは、ツバサ自身が生きる意味って何だと思う?」


聞いたって無駄だ。

結局その答えはまだ、今は出ないはずだ。

分かっているし、知っている。


生きる意味を見出せないと言うのは、死に急ぐ為の理由。 殺人犯で言えば、恨みがあって殺したと言っているものだ。

つまりは動機。

だが、どんな動機があれど、人を殺して良い訳が無い。

当たり前だ。 私の場合、どんな理由があれど自ら命を絶って良い訳が無い、という意味になる。 分かっているさ、そんなこと。

理性では。


理性はストッパー、でもそのストッパーが壊れた時、どうなる?

タガが外れたら?

心がぐちゃぐちゃに壊れて、使い物にならなくなったら?

答えは一つ、狂う。

狂いに狂う。

私はきっと狂ってしまう。

色々な思考が渦巻き、軽く吐き気がした。


「なあ、生きる意味って、生きるのに絶対必要なものなのか?」


私の思考をジャックするように、彼の声が耳を伝い、脳内で強く響いた。


「えっ?」


思わず私は聞き返した。


「はあ、お前、振っときながら聞いてないは無いだろう。 人が折角真面目に答えてやってるってのに。いいか?耳かっぽじって良く聞けよ?生きる意味ってのは生きる為に必要不可欠なのかって聞いてんだよ。」


彼は少しイラついたのか、軽く溜め息を吐いて言った。


「ごめん、ごめん。 うーん、必要不可欠な人も居るかもしれないし、そうじゃない人も居るかもしれない。 ちなみに私は必要な人だと思う、多分だけど。」


私は謝るように手を顔の前で振って言った。

すると彼は、


「何だそれ?人生について悟ったように言っておきながら、お前、随分と曖昧だな。」


と困ったように苦笑する。

私がとても返しに困る返答をしたからだと思う。

説得するのに困るような返答を。

でも、ツバサの、生きる意味って絶対必要なのかという疑問は本質を突いている気がした。

私の中の何かが少しだけ溶けた感じがしたんだ。

自殺願望が少しだけ薄れたのはそのせいか、はたまたツバサと話をしたからか。


「ま、この議論はまた今度にしよ?ツバサと話して、少し死にたくないって気持ちも芽生えたし。それに、早く帰んないと夜になっちゃうし、ね?」


自分の心が分からなくなった 私は彼の反応をさらっと流し、歩みを速めて言った。 辺りは薄暗くなり始め、日はすぐに落ちそうだった。


「早く帰るつもりだが、お前の自殺しそうなところがまだ俺の中では吹っ切れて無い。 お前、本当に死ぬつもりは無いんだろうな?」


彼は、目を細めて睨むように私を見て、低く呻るように言った。

さすが、ツバサ。

見抜かれていた、私の本心、本音、深層心理。 いつだって私の傍に居て、私が危ない時に止める存在。

もしかしたら、私より私を知っているかもしれない。

黒井翼、黒いようで白い、暗いようで明るい。

彼は光なんだ、私にとっても。


「あ、そうだ。これ、アオイに貰ったんだ。受け取ってよ。」


私は聞えなかったふりをして、貰ったガラス玉をツバサに手渡した。水色のガラス玉を。

私は橙色を握り締めた。

暖かい色が欲しかったんだ。

私の冷たい心が少しでも暖まるように。


「この子なら、私の心にも光を通してくれる?」


橙色のガラス玉を見つめ、ふと呟いた。

心に、少しでも小さくても良い。

光が欲しかった。


「おい!」


気付いたら走り出していた。

ツバサの声も後ろで聞こえ、私は風を帯びて走っていた。

体が軽かった。

坂のせい?ガラス玉を握っているせい?

いつの間にか熱を帯びて、ぼんやりと光っていたガラス玉にも気付かず、私は無心で坂を駆け下りた。


「おいっ、何急に走り出してんだよっ。」


坂を駆け下りて息をついた瞬間に、横でツバサの低い怒声が聞こえる。

流石、運動部。

テニス部に入っているツバサは、持久力もあり、足も速かった。

怒ってしまったツバサを、何とかなだめて私は帰宅して、床に着いた。 思いっきり走ったからだろうか、眠りに着くのはとても速かったと思う。

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