短編小説 みずみち後日譚

阿賀沢 周子

第1話

 花村家の墓地は石狩当別にある。JR当別駅の南口から250mほど東へ向かうと小さな川が流れている。橋を渡り、当別小学校と小川の間を、ブナやミズナラの大木に沿って歩くと、間もなく右手に花村家の菩提寺、信円寺が見えてくる。

 寺の表門を過ぎて右手に、20台ばかり止められる墓地の駐車場と水汲み場があった。墓参する人はまばらだが、すでに盆花が備えられている墓がいくつかあった。8月11日は祝日ということもあり、高山真理のように、盆の混雑を避けて墓参する人もいるようだ。雲混じりの青空で気温はそう高くないが、真昼の影は小さくて頼りない。

 真理は車から降りると、トランクから乳母車を降ろし広げた。母の花村福子は、抱いていた孫の祐香をそっと乳母車に乗せた。祐香は目を開けて両手を動かしたが、タオルで手を覆うと再び寝入った。

 真理の運転で、札幌市内から父圭二郎の墓参りと、祐香の百日の報告を兼ねて三人でやってきた。真理の夫、祐也は札幌市の総合病院で看護師として働いている。今日は夜勤明けで家で眠っていた。

 真理は二つの大きな花束をそっと乳母車の足元に置いた。円山にある卓也の実家からの仏花だ。義母の真知子は庭いじりが好きで花を沢山咲かせており、今朝早く、息子夫婦の住まいである桑園のアパートへ、墓参りにと届けてくれたのだった。

 福子は、二つの桶に水を汲み、墓へ向かう。乳母車は玉砂利の上で揺れるが、祐香は眠ったままだ。

 墓の列を何本か通り抜け、背の高い古い墓の前で立ち止まる。左側に黒御影の墓誌、右側に墓石と同じ札幌軟石の地蔵菩薩が建っていた。

「圭二郎さん、孫の祐香を連れてきましたよ」

 福子の声は小さいが、嬉しそうだった。しゃがんで墓石の周りの草を取りながらも、祐香のことを報告している。真理は母が父を、お父さんとかうちの人とか呼ぶのを聞いたことがない。いつも圭二郎さんと呼んでいた。

 墓誌によると、圭二郎は昭和63年に享年65歳で亡くなっている。福子は昭和27年生まれなので27歳年上だ。真理が3歳にならないうちに亡くなってしまったので、父については覚えていることがなく、写真の中の父と自分という記憶で残っているだけだった。

 福子は腰を伸ばし、袖口で汗を拭いている。

「お母さん、後は私がするから、祐香をみていて」

「いいのよ。大丈夫。あんたこそ、毎日子育てで大変なんだから休んでいなさい」 

 草取りが終わると、真理は、抜いた草を、桶置き場横のゴミ箱へもって行った。手を洗っていると、信円寺を取り囲む樹齢の長い大木が、風に揺れはじめる。ほどなく、辺りは空からの涼しげな風に包まれ汗が引いた。

 戻ると母は、桶の水でタオルを濡らして墓誌を拭いていた。

「祐也のお母さんがね、祐ちゃんは福子さんにそっくりねって」

 花を届けてくれた時、真知子は祐香をあやしながら「きれいな二重で可愛いわ」と言っていた。祐也も真知子も、一重瞼だった。

確かに祐香は福子と同じ、ナッツ型の目をしていて二重瞼だ。真理は圭二郎に似て切れ長の一重で、大柄で均整の取れた体つきだった。子供の頃は、母に似たら小柄でかわいらしい女の子だったのにと恨めしく思ったこともある。肌もきれいで65歳の今でも、色白できめが細かく、目じりと眉間に皴が少しあるだけで、シミはほとんどなかった。

「まだわからないわよ。立って歩くようになると顔つきは変わるものだし。祐也さんの方に似て欲しいわね。私みたいな頭の中だったら、本当に困る。そんなことになったら高山家に申し訳が立たないもの」

 真理はまた始まったと胸の内で溜息をつく。二人は話しながらも手を止めず、墓を清めていく。福子は、真理にとって唯一の肉親だ。神経質で心配性で、思春期の頃はうるさく思うことも度々だった。口を聞かなかったり、部屋に閉じこもったり、部屋の扉を強く締めたり、思いつく限りの反抗をした時期がある。年齢とともに極端な行為は鳴りを潜めたが、干渉への疎ましさはしばらくの間変わらなかった。


 母親が読み書きに問題があると知ったのは、真理が小学6年生の秋だ。母が学校へ提出する進学用の書類に、住所や名前を書く時、一冊の大学ノートを出してきて、書かれた手本を写すのを見た。一字一字、手本を指さしながら書き込んでいく。ノートの字は丁寧で読みやすい。マンションの住所、氏名、生年月日などが大きな文字で書かれている。

「お母さん、何しているの。何見て書いているの」

「見られちゃった。お母さん、字が下手だから、お手本を見ながら書いているのよ。圭二郎さんが作ってくれたの」

今まで、書類を実際に書いているのを見たことがなかった。「私だって住所や、名前なんてもう見なくても書けるのに」真理は不思議に思った。母は新聞や本は読んでいるし、料理の本を見ながら夕食を作ったりしている。障害という言葉は浮かばなかったが、その時、何か変だという小さな印象が心に染み付いた。

 小学校でも、中学でも読み書きが苦手な子や落ち着きのない子は何人かいたが、そのことが騒がれることはなく、当たり前ににぎやかな学校生活だったから、重くは捉えていない。

 高校卒業後、福祉系大学へ進学し、学校で、学習障害のことを正確に学んだ。母に当てはまる症例を見つけて、理解した。


 過干渉ともいえる行動が、自分の読み書き障害からくる不安の表れだということを、大人になって初めてわかるようになった。能力のはなしになると、途切れなく自分を卑下する。過度にへりくだるのは引け目のせいだ。しかし、聞くのはいつも辛い。

「私は、お母さんは、普通以上だと思ってるよ」

 思わず口から出た自分の言葉に、自分で頷いていた。「そう、ずっとこれが言いたかったの」祐香を産んで、自分が、母に近づいた気がしている。守る側の気持ちがわかってきた。

 父や、ご先祖の墓を前にして、勇気が出たのだろうか。促されたのかもしれない。

「『事故』の後もくじけずに生きてきた。読み書きが上手くできる、出来ないは関係あるのかしら。つらい時もたくさんあったとは思う。でも、お父さんと結婚して、私を生んでくれて、ずーっとちゃんと生きてきているじゃない。私は、お母さんは偉いと思っているよ」

 一息に話し終わると、ほっとしたのか小さなため息が漏れた。

福子は、墓石に桶の水をかけていた手を止めて、真理をじっと見る。見ている間にその目に涙が膨らみ、頬に流れた。桶を置き、傍のタオルで顔を覆う。

「お母さんそのタオル汚れているから」

 慌てて真理は祐香の顎下のタオルを母に渡した。

「あら、私ったら何しているのかしらね」

 泣き笑いになった母は、真理の隣に腰かけ、真理の膝に手を置いた。涙もろいのも、いつものことだ。

「ありがとう、そんな風に思ってくれていたんだ。こんな話、したことないし、あんたに聞くこともできなかった」

 寿美はかすかに笑い、小さく頷く。

「幼稚園の七夕祭りの時、あんたが書いたお願い事をやっとのことで見つけて、真理は大丈夫と、知った時が一番嬉しかった。たどたどしい文字が、私の頭の中で踊ったの。知るのが怖くてね、圭二郎さんもいないし、確かめることができなかった。でもね、やっぱり私には似ないで欲しい。もう、家だけのことではないし」

 初めて聞く話だった。誰にも何も言わずに、一人で悩みを抱え込んでいたのか。

 福子は、36歳の時、圭二郎を心筋梗塞で亡くし、一人で子育てをした。よっぽど心細かったろうと、今なら理解できた。困ったときは、近所の河出書房の奥さんに相談していたのも知っている。当別に親戚がいると聞いたことはあるが、圭二郎の身内との交流は真理の記憶の中にはほとんどなかった。墓参では、既に花を手向けてあることが何回かあったが、出会ったことはない。

 そよ風が、信円寺を取り囲む樹々から時々渡ってくる。タオルを取られた祐香が動く。手を伸ばす、まだ眠っている。

「お墓参りが終わったら、おっぱいの時間だわ」

 二人は浄められた墓に花や菓子を供え、蝋燭に火を灯した。線香の煙がゆらゆらと立ち上り、手を合わせる福子の髪にまといつく。真理はご先祖様に、父に祐香の健康を祈願した。深紅のポンポンダリヤと、白いグラジオラス、紫の桔梗の花束のコントラストが華やかで陽に映えた。

「祐也さんのお母さんのお花ですよ。きれいですね」

 寿美はなんでも圭二郎に報告する。


 確かに、もし祐香に何らかの障害があったら、という不安はいつもある。真理は結婚前、祐也に、母親の状況を説明するために、読み書き障害について、教科書以上の知識が欲しくて、本やインターネットで調べたことがあった。

 遺伝の要素についても読んだが、確率は高いが、結局どうなのかは明確ではないということを再確認しただけだった。祐也の「お母さんは、ちゃんと暮らしているじゃないか」の一言が効いて、今こうしている。

 墓は膝くらいの垣に囲まれている。廻りの墓より敷地が広い。雲が途切れ、日が射して石を照らす。水をかけた墓石が、上の方から乾いてくる。祐香の顔に日差しが当たらないように、乳母車のシェードを下げ、墓誌の続きを読む。父親の右隣に、花村フミ 享年六十歳と書いてある。圭二郎の最初の妻だ。

「フミさんって、お母さんの母親代わりだったの?」

 事故の後、一緒に住むようになったという。寿美は貰いっ子のようなものだった、と真理の想像は膨らむが、母に話を振ってもこれ以上はいつも教えてもらえない。今日も聞こえていないふりをしている。

 墓参りをすますと、待っていたように祐香が声を出し始めた。抱き上げて、墓を見せる。

「ママのお父さんのお墓だよ。祐香のおじいちゃん。よろしくお見知りおきを」

 祐香の腕に数珠を通して二人で頭を下げると、驚いたのか反り返って泣き始めた。

「お母さん、私たちもお腹すいたね。祐香がお腹いっぱいになってから、どこかでお昼にしましょう」

 福子が荷物をまとめ、乳母車に乗せて車へ向かう。祐香をあやしながら、母の後をついていく。

 ぐずる娘を寿美に預け、エンジンをかけた。車の中は、気温が上昇してハンドルが触れないくらい熱い。クーラーをオートエアコンにして、窓から熱気を出し、荷物を積み込む。気温が下がったところで、真理は祐香を母から受け取った。後部座席へ移り、祐香のおむつを替える。

「手慣れた物ね。圭二郎さんに似てあなたは器用だわ」

 助手席に乗りこんだ福子は、目を細めて嬉しそうに祐香を眺める。

「毎日毎日のことだもの、誰だって朝飯前になるよ。お母さん、マミーバッグの中に手に使うウエットタオルがあるから出してくれる? 2,3枚頂戴」

 おむつと、手を拭いたタオルをポリ袋に入れて足元に置いた。祐香を右腕に抱えて今度は別のウエットタオルで乳首を消毒して、口に含ませた。

「便利な世の中だね。それぞれに消毒するものがあるんだ。私の時は水で濡らして拭くだけだった。別に病気にもならなかったけどね」

「わたしも家ではそうしているのよ。外出の時は使い捨てだと、清潔で便利でしょ」

 さっきは知らないふりをされたが、母に聞いておきたいことがあった。「事故」後、のことだ。


 中学二年の時「お母さんのお父さんやお母さんはどこにいるの」と問い詰めたことがあった。周りの友人たちの殆どに、おじいちゃんやおばあちゃんがいる。それまでにも何回か母に訊ねたことがあったが、圭二郎の祖父母の話ではぐらかしたり、自分が小さい時二人とも死んでしまったと言ったりしていた。だが、写真もなければ、位牌もない。仲の良い友人に「それは変だ」とそそのかされて、ハッキリ教えてくれと食い下がった。その時の話が「事故」だった。


 一人、川で遊んでいたのか、流され溺れて意識を失い、頭を打って記憶喪失になった。自分の名すら覚えていなかった。川のパトロールをしていた圭二郎に助けられたが、両親を探し出すことができなかった。近隣に捜索願は出されていなかった、という話だ。

 体は癒えたが記憶が戻らず、息子が二人いて女の子がいない圭二郎夫婦が預かることになった。福子は大体15歳、圭二郎夫婦は40歳代の時だ。記憶が戻れば、親の元に帰ることになるので、養子縁組はしなかった。

 真理はこれだけのことを泣きながら話してくれた。その時のことを忘れてはいない。眉間に神経質そうな皴はあるが、普段は笑顔が多い母の苦悩に満ちた顔つきに、訊かなければよかった、母の心の傷を抉ってしまった、と後悔した。それきり「事故」のことは花村

家のタブーになった。


 今日、思わず「事故」のことを口にした。ご先祖様が、真理を前へ進めと励ましてくれている。母はまた泣くだろうか、くじけそうになるが、無心におっぱいを吸う祐香にも勇気をもらった。

「聞いておきたいことが二つあるの。一つは事故の前のこと。何か思い出した?」

 意図した屈託のない口調は、福子を戸惑わせた。すぐに返事は来なかったが、真理は仕事のつもりで、黙って祐香を見詰めて待っている。

 福子は前を向いて、何やら呟いて、バッグからハンケチを出して静かに泣き始めた。

 真理は待っている。反対側のおっぱいを含ませて、福子に似た濃い睫毛を伏せた祐香を見ている。

「思い出せないの。子供の頃のことは、あれからずっと、思い出せないの」

 福子は大きく息を吐きだしながら言葉にした。口調は落ち着いていたが、眉間の深い皴と握りこぶしの白さが苦悩を語っていた。

「そうなの。ごめんね。つらい話だとは思うけど、もう一度聞いておきたかったの。お母さん、自分からは何も話してくれないから。中学の時のことも謝ります。あんなふうに問い詰めて、悪かったと思っていたわ」

 母の顔を見ると二つ目の質問は出来なくなった。車の中から逃げ出したいかのように辺りを見回し、とうとう前を向いてウインドウにもたれかかってしまった。

「ご先祖様の前で誓います。お母さんが泣かないで話せるようになるまで待ちます」

 そっとしておくのが一番いいのだ。自分には聞く権利があると知っているが、母の平安をかき乱すことができなかった。


 福子はゆっくりと後ろを振り返る。真理を、祐香をかわるがわる見る眼差しは、まだ悲嘆の淵に留まっていた。真理は祐香に曖気をさせながら、もう泣かすまいと自分にも誓う。

 腹がくちくなった祐香は、福子を見定めてにっと笑う。寿美の顔もすぐににっとなる。

「お母さん、後ろで祐香を見てね。お腹すいたから、何か美味しいものでも食べに行きましょう」

 娘をチャイルドシートに寝かせながら、もう一つ、聞きたかったことは引き取られてからのことと、父とのなれ初めだった、と思い返す。

 昔から墓参りの度に、父の年齢や、父の最初の妻が亡くなった年を見て、どういういきさつで、自分が産まれることになったのかが知りたくなる。いつも福子の態度は頑なで、子供の自分が口を出してはいけないことだと思わされてきた。母親になった今でも、気軽に訊けない厚い壁があるのがわかる。いつか、大人同士として話してもらえる時が来ることを期待して、今日のところはあきらめ、空腹を満たすため車を出した。


 真理は独身時代に友人と来たことがある、スウェーデンヒルズのイタリアンレストラン「Mri」へ行くことにした。テラス席があって子連れでも迷惑をかけないからだ。が、若葉町を過ぎて道道81号線に入った途端、暗くなったと思う間もなくにわか雨が降り始めた。道路わきに群生しているノラニンジンが、強い雨脚に白い花を揺らしている。

「久しぶりの雨ね。お墓参りの最中でなくてよかったわ。他に祐香を連れて入るようなところ思いつかないから、お母さん、帰りましょう。『欽』で何か食べることにしましょう」

「真理に任せるわ。祐香が濡れないならどこでも」

 まだいつもの福子ではない。先ほどの会話が原因かもしれないが、自分のためにも、祐香のためにも、いつかは父と母のこと、親戚のことを訊きたいと思っているので後悔はしていない。 

 石狩へ抜けて、国道231号線を南下した。札幌市内へ向かう道路は混雑していたので、寿美のマンションがある北三条通り公園に着いたのは2時少し前だった。

 小雨になり青空が見え始め、久しぶりの雨に濡れた公園の樹々は、きらきらと輝き、数個の花が残るだけのタチアオイさえ生き返ったように見えた。「欽」の向かいのタイムズに車を入れた。


 三人は「欽」の生成りの暖簾をくぐり、ドアを大きく開けてから、真理が乳母車を引っ張りいれた。ドアの内側に括り付けてある南部鉄器の熊鈴が余韻を引いている。

「いらっしゃいませ。あら、真理さんと寿美さんだだ。お久しぶりね」

 女主人の大橋美代子が、大きなテーブルの傍から立ちあがり、乳母車を入れるのを手伝った。

「欽」は定食屋で、美代子が一人で切り盛りしている。70歳くらいで、いつも頭にバンダナを巻いて、はみ出た白髪を、綺麗なピンで留めている。鼻筋が通って、切れ長の目が涼しげな、小柄な美人だった。

「真理ちゃん、無事のご出産おめでとう。真理ちゃんのお子さんだ。初めまして、お名前は何というの」

「祐香です。当別へお墓参りに行って、雨に降られてお昼が遅くなっちゃった」

「ユウカちゃん、いいお名前ね。もう4か月くらいかしら」

「4月29日生まれです」

 福子は常連というほど来てはいないが、真理は独身の頃、何度も利用していた。寿美の住まいの12丁目のサンライズマンション向かいのビルの西角にある。夕暮れ時は、窓辺に、オレンジ色のステンドグラスの電気スタンドがいつも灯る。真理はそれを、暖かくてお客さんを誘い込む魔法のランプと呼んでいた。寒い日など、帰宅途中に目に入ると、つい入ってしまうというのだ。

 出産が近くなってから、今日まで半年近く顔を出していない。育児に疲れた時、冷たいビールが飲みたくなった時「欽」へ行きたくなることはあったが、産休中の外食も、授乳中の飲酒もずっと辛抱していた。雨のお陰で、ここのランチが食べられることになった。

「起きたら抱っこさせてね。お昼、なんになさいます」

 美代子は空色のバンダナを巻きなおし、下ごしらえをした野菜や、定食に付ける煮ものの大鉢などが乗ったカウンターに入る。

「今日の日替わり定食はタンドリーチキンがメインで、焼いた夏野菜サラダの梅醤油ドレッシング添え、汁代わりに冷たいソーメンのねばねば、余市産鰊の切込みです。夏バテ防止メニューってとこかしら」

「私は定食いただきます。お母さんも同じでいい?」

「ねばねばって何かしら」

「長いも、茹でオクラ、納豆を刻んで混ぜたものがソーメンに乗っています」

「美味しそう。私も定食でお願いします」

 美代子がカウンター奥の厨房に引っ込むと、二人は大きな真四角のテーブル席の角で斜め向かいに座った。乳母車を出窓と真理の間になるように引いた。

 店内は他の客がおらず、空調が軽く聞いていて居心地が良かった。真理は以前と同じように、二人分のグラスを卓上のかごから出し、ポットから冷えた麦茶を注ぐ。ポットには夏の間だけ、濃いめの冷たい麦茶が入っている。あとの季節は白湯が入っていて、好みの飲み物を客自身が作る。

 真理が麦茶を好きになったのは、何年か前の酷暑の夏にここの麦茶の飲み心地に感激してからだった。飲んだ瞬間、喉から体に吸収されていくような感覚。喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、喉から胃まで冷たくなる感じがした。さわやかな焙煎の苦みがわずかに舌に残り、もう一口飲みたくなる。渇きが癒されるのが実感できる。美代子に問うと、買った麦茶をさらに自分で焙烙を使って軽く煎っているという。

「暇なときに煎っておくの。家のガスコンロだと弱火が難しいから、卓上コンロでやっているのよ。美味しくできるからはまっちゃって」

 日に寄って煎り具合は変わるという。腹が立っていると思わず知らず強く煎って苦みが濃くなったり、嬉しいことがあると、焙烙を良く揺するから美味しく仕上がるという。

「人生、いろいろあるでしょ。焙烙が調整してくれるのかしらね。でも焦がしちゃダメ。ホンの香りが出る程度に煎るのが一番」

美代子はそういって笑ったが、料理を手抜きしないのは知っていたがお茶まで、と感動したものだ。

 カレーの匂いが漂ってきた。

「タンドリーチキンって作るのは難しいのかしら」

 福子が真理に訊く。

「スパイスメーカーのギャバンにタンドリーチキン用のスパイスがあるの。私はそれを使っているよ。辛いけど結構おいしくできる。ここのは、スパイスの調合から手作りで、すこし和風なの。お母さんの口に合うと思う」

「食べたことあるの?」

「ここの夏の定番だもの」

 口調は普段のままで、表情も戻っていた。当別で泣き、落ち込んでいた様子は消えている、と真理はほっとした。母をあれほど悲しませることって何だろう。祐香のためにも自分のためにも、できることなら母のためにも、普通に話せる時は来るのだろうか。


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短編小説 みずみち後日譚 阿賀沢 周子 @asoh

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