赤の男(3)
一泊旅行に行った翌週の水曜日の朝。
織田さんから事業部メールにメッセージが届いていた。
「今晩ご飯行かない?」
「何時にどこで待ち合わせしますか?」
私はささっと返信する。
他人のディスプレイをまじまじと見る人はいないと思うが、絶対に見られないという保証はない。
旅行翌日の月曜日は密かに緊張した。
彼の席は私の隣の隣だ。
自分では普段通りにしているつもりでも、他人から見たら何か違っているかもしれない。
怪しまれないように、でも意識しすぎないように。
今のところ誰も何も気付いていないようだ。
午後七時半。
繁華街少し手前の路地にある、小綺麗な二階建ての店を彼は指定してきた。
店に入り彼の名前を告げるとカウンター席に案内される。
彼はすでにビールを飲んでいた。
「おつかれさまです。早かったんですね。」
「先に着いておかないとと思って。ビールでいい?」
私は頷き、彼の隣に座る。
二人きりになるのは三日ぶりだが、もう何か月もこういう親しい関係だったように感じる。
ふと少し意地悪をしたくなった私は言ってみた。
「もう誘ってもらえないかと思ってました。」
「オレだって、誘っても来てくれないかと思ったよ。」
そうきたか。
妙な駆け引きをしようとしても無駄らしい。
私のビールが運ばれてきたので乾杯し、料理を食べながら仕事の話をした。
普通の上司と部下の、誰に聞かれても違和感ない会話だ。
そんな会話をしながらも頭の片隅では、このあとどうするんだろう?とぼんやり考えている。
午後九時を過ぎた頃、
「そろそろ出ようか。」
彼が言い、会計を済ませて外に出る。
「まだ時間大丈夫?」
「問題ないです。」
もう一軒行くのかな?と思っていると、
「じゃ、付いてきて。」
手を繋ぎながら言われた。
彼は繁華街とは反対側、会社の方に歩き始める。
会社に忘れ物でもしたのだろうか?
どんどん会社に近付き、あと通り一本分歩けば会社のビル、というところで手を離される。
「そのまままっすぐ進んで。
右側にアパートがあるでしょ。」
その道は何度か通ったことがあったが、並んでいるのは背の高いオフィスビルばかりだったはずだ。
私がキョロキョロしながら歩いていると後から歩いてきた彼が、
「ほら。ここ。」
と立ち止まる。
そこには小さな、四階建てのアパートがあった。
「こんなところに人が住んでるんですね。」
本当に全く、気付かなかった。
正面から見れば確かに、ちょっとお洒落なアパートがあるのに、意識しなければまるで存在していないかのようだ。
「二階の左側の部屋だよ。」
玄関ドアを押しアパートに入ると正面に階段があり、右側に各部屋の郵便受け、左側奥には小さな物置スペースがあるようだ。
階段を上ると左右にひとつずつドアがあった。
彼が左側のドアの鍵を開け中に入る。
「おじゃまします。」
なんとなく小さな声で言って部屋に入る。
狭い廊下の左側に少し間隔をあけてドアがふたつ、正面にもドアがある。
左側のドアは洗面所とトイレだろうか。
正面のドアを開けて中に入るとそこは細長い部屋で、中間にある左側半分だけの壁が間仕切りのようになっていた。
広さは細長い十畳間といったところだろうか。
手前の部屋(一応半分とはいえ壁があるので二部屋と考えることにする)の左側が小さなキッチン、右の壁際にワンドアの冷蔵庫と扉付きの棚、ノートパソコンが置いてあるパソコンデスクがある。
左側の壁には窓があり、二人用のダイニングテーブル、その向こうにガスヒーターが備え付けてある。
奥の部屋は、間仕切りの壁に隠れる位置にシングルベッド。
幅がちょうどシングルベッドと同じくらいなので、ベッド置き場として設計されたのだろう。
正面の壁にも小さな窓がある。
右奥が扉一枚半ほどの幅のクローゼットになっていて、ベッドの向かい側に姿見、30インチ程度のテレビ、大きな蓋つきの籠が置いてあった。
建物同士の距離がかなり近く、どちらの窓の外もすぐ隣の建物の壁が迫っているので開け放すことはできないそうだ。
物は少ないが、狭く、圧迫感のある部屋だった。
「こんなところで一人暮らししてたんですね?」
「忙しすぎてさ、通勤時間がもったいなくて。」
奥さんがよく許したな、と思ったが口には出さない。
彼に手を引かれ、ベッドに腰かけると唇にチュッと軽くキスされる。
にこりといい笑顔を見せながら、
「オレと付き合ってくれる?」
と聞かれた。
『ツキアウ』ッテ、ナンダッタッケ?
日本語の意味がわからなくなった。
今すぐスマホで調べてもいいかしら?
誠実なんだか不誠実なんだか、本当に困った人だ。
私より一回りも年上なのに、子犬のようなその目で見つめられると、放っておけるわけがないのだ。
だから、
「いいですよ。」
言ってしまった。
大変な人と結婚しましたね。
ごめんなさい、奥さん。
でも決して、取り上げようとは思いませんから。
ちょっとだけ、お借りします。
そのまま、狭いシングルベッドで私たちは深夜まで抱き合った。
翌朝早く、スマホのメッセージ音が鳴った。
母からだった。
夕べご飯はいらないと連絡したが、泊まりになるとまでは言っていない。
平日に帰らないことなど今までなかったので、心配させてしまったようだ。
彼氏の家に泊まったけれど、ちゃんと会社には行くから大丈夫、と返信した。
親にきちんと紹介できない相手と付き合っていることに罪悪感を覚えた。
シャワーを借りて、手持ちの化粧ポーチの中身でメイクを済ませる。
洋服がきのうと同じなのは非常にまずい。
会社のロッカーにカーディガンが入っていたはずなので、それを羽織ってなんとか誤魔化そうと思う。
アパートから会社までは徒歩三分もかからないだろう。
私は先に、早めに家を出ることにする。
「鍵は郵便受けに入れておくから、好きな時に来ていいよ。」
危ないよと言ったが、彼は大丈夫と取り合わない。
近いうちに合鍵を作ろうと心に決めた。
啄むようなキスを交わし、また後でね、と私は彼の部屋を出た。
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