紫の男(2)
とある木曜日、定時で退社した私は、最寄りのバス停を降りてまっすぐ元バイト先に向かっていた。
いつも使っているシャンプーがもうすぐ無くなりそうなのだ。
今日、林藤さんはお店に居るだろうか。
彼にはあれ以来会っていないし、連絡もしていない。
もし居たら、いつも通りの顔で会えるか少し心配だ。
店舗の風除室に近付くと様々な香料の混ざった懐かしい香りがして、考えても無駄だと開き直れた。
店内に入り、左側奥のヘアケアコーナーに向かう。
商品の入れ替わりは激しく、二、三か月も経てば知らない商品がいくつも並ぶ。
そんな中でも私のお目当ての商品は同じ場所に静かにあった。
手に取ろうとした瞬間、
「桔華ちゃん。」
声をかけてきたのは林藤さんだった。
「びっくりさせないでよ、林藤さん!」
「ごめん、ごめん。」
全く悪びれた風ではない笑顔の彼がそこに居た。
驚いたおかげで身構えることなく、普段通りの会話が始められた。
そうして五分くらいはお互いの近況などを話していただろうか。
「今日ボク、七時で上がりなんだ。
ご飯でも食べに行かない?」
またも唐突なお誘いだ。
だが、素直に行きたいと思ったので私は即答する。
「いいね。何食べよっか。」
「考えておいて。」
彼はそう言い残し仕事に戻って行った。
七時まではあと十五分ほどだったので、先に商品の会計を済ませ、家で夕飯を用意して待っているであろう母にメールを入れる。
母は精神的に少し不安定なところがあるので、こまめな連絡は欠かせない。
店長にも少しあいさつをしたりしているうちに、あっという間に七時になった。
店舗から少し離れた駐車場に停めてある車に着くと、彼はさり気なく助手席のドアを開けてくれた。
彼はこういうエスコートをさらりとこなす。
こんなことをされると、今までどんな女性たちと付き合ってきたのだろうと邪推してしまう。
「ありがと。
でも、わたしにはこんなことしなくていいって、前も言ったじゃん。」
可愛げがないとわかってはいるが、私にまで気を遣ってほしくないのだ。
彼はわかったと言う代わりに、ふっと小さな笑顔を返してきた。
車に乗りシートベルトを締めていると、
「焼肉食べたくない?」
と聞かれる。
特に異論はなかったのでいいよと答えると、近くの焼き肉店に向かった。
焼き肉屋の店内は平日夜ということで客はまばらで、待たされることなく席に案内される。
「桔華ちゃん、何飲む?
ボクは運転あるから飲めないけど、お酒飲んでもいいよ。」
彼はそう言ってくれたが、やっぱり申し訳ない。
二人ともウーロン茶を注文し、肉はカルビや牛タンなど定番物を何種類か頼む。
ウーロン茶で乾杯し、肉を焼く。
彼は甲斐甲斐しく肉の世話をしてくれる。
彼と食事をする時は全て任せるに限るので、私はいつもされるがままだ。
傍から見るとろくでもない女かもしれないけれど。
「焼肉食べるとさ、エッチしたくならない?」
「なにそれ。そんなの聞いたことないし、思ったこともないよ!」
唐突な彼の言葉に一瞬動揺したが、なんとか返事する。
というかあなた、そもそもそういうつもりで私を誘ってますよね?
少しスリルのある会話は軽くスルーして、なんとか普通の会話へと軌道修正する。
食事を済ませて再び彼の車に乗った。
「桔華ちゃんはかわいいからあそこ、連れて行ってあげる。」
あそことは、隣町の海辺にある有名なラグジュアリーラブホテルだ。
普通のホテルとして利用する人も多いらしい。
「ホント?
行ってみたいと思ってるうちに彼とは別れちゃったから、結局行けなかったんだよね。」
ハイスペックイケメンにこんなに甘やかされて、嬉しくない女が果たしているだろうか?
私はまた、まんまと彼の手のひらで転がされてしまう。
この隣町には海水浴場、水族館、親戚のおばさんの家があり、幼少の頃からよく訪れている。
海が近付くと車中に居ても潮の香りが漂ってくる瞬間が私は好きだった。
木曜日ということでホテルにもスムーズに入ることができた。
これが週末だとこうは行かないだろう。
エントランスから豪華絢爛だが、フロントに人が居ないのがやはり普通のホテルと違うところだ。
五階の部屋を選び、部屋に向かった。
部屋は広く、テレビもベッドも窓も、すべてが大きい。
窓の外には夜の海が広がっていた。
部屋を一通り見て周り、先にシャワーを浴びる。
前回のように緊張することはもうなかった。
今日はブラジャーは付けずバスローブを羽織り、洗面所を出た。
ソファでスマホを見ていた彼にどうぞと声をかけ、私は窓の外を眺める。
五階から見る夜の海は穏やかだったが、どこまでも暗く、吸い込まれてしまいそうだ。
静かに寄せては返す波を見ていると、また自問自答してしまう。
私は彼のことが好きなのだろうか?
好きでもない異性とこんなところには来ない。
でも、恋愛感情とは少し、違う気がする。
ハイスペックな彼の隣に居る自分が好きなのでは?
それも間違いではないと思う。
本来なら彼は、私みたいな凡人が知り合える部類の人間ではない。
でもそれ以上に。
やっぱり私は、彼の心の奥底を知りたいのだ。
深くて、ドロドロしているであろう部分を。
ただ、今の私にはまだその資格がない。
体を重ねればいつかその片鱗が見えそうな、そんな気がしているのだ。
そんなことをぐるぐると考えていると、後ろから抱き締められる。
「何が見えるの?」
「え?海だよ。」
私は当たり前のことを言い、彼の方に振り返る。
「それはわかってるって。」
彼は笑って、私たちはキスを交わした。
大きなベッドの真ん中で、不確かな関係のふたりが抱き合う。
彼はベッドでも甲斐甲斐しく、私はきっとたどたどしい。
それでも少しでも、彼の心にも触れたくて、彼がどうして欲しいのか必死に試行錯誤する。
彼が私の中に入ってきた時、また、自分たちを見ている私がいた。
行為が終わってからの記憶はほとんどない。
気付けば自宅前まで送り届けられていて、ありがとうまたねと別れた。
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