赤の男(2-2)
ペンションの夕食は食堂で午後七時からと決まっている。
私たちは軽く身支度を整えて食堂へ向かうことにした。
部屋を出ると、織田さんは自然に手を繋いできた。
ここに着いたばかりの時のよそよそしさは微塵もなくっていて、そんな変化を誰かに気付かれることなんてないはずなのに気恥ずかしい。
食堂専用の階段を降りると、中は半二階と一階の二段構造になっていた。
階段を降りたところで、受付カウンターに居た奥さんが近付いてきて席に案内してくれる。
私たちの席は半二階部分にある二つのテーブルの片方だった。
「お飲み物はどういたしますか?
本日のお料理には、こちらの白ワインがおすすめですよ。」
「じゃ、それを二つ。でいいよね?」
彼に問われ、軽く頷く。
「かしこまりました。それでは、少々お待ちくださいませ。」
奥さんは階下に下がっていった。
改めて食堂全体を見渡す。
一階にはテーブルが四つ。
フロア全体がオレンジの落ち着いた照明に包まれ、各テーブルではろうそくが静かに揺らめき、小さなグラスに可愛らしい花が生けられている。
どのテーブルでも夫婦やカップルと思しき二人連れが穏やかに談笑していた。
私たちも少し歳の離れたカップルや夫婦に見えているのだろうか?
この空気に馴染めているのだろうか?
私が知り合いに会う可能性はゼロに等しいが、彼は顔が広い。
もし知っている人がいたらどうしようと私は少し警戒しているのに、彼に気にしている素振りはなかった。
間もなく料理が運ばれてきた。
気取らない雰囲気の、フランス料理のフルコース。
メインは子羊のグリルを選び、料理の感想を言い合ったりしながらゆっくりと食事はすすんでいく。
デザートのソルベまで食べ終え、私はコーヒーを、彼はワインをもう一杯飲み、何事もなく食事を終え部屋に戻った。
「あー、美味しかったですね!
それにしてもあたし、知ってる人とかいたらどうしようかって、ちょっとドキドキしちゃったんですけど。」
気になってしょうがなかった私は正直に言ってみた。
「知ってる人なんていないよ。大丈夫。」
やっぱり彼は余裕だ。
彼もこう言っていることだし、もう気にするのはやめることにした。
このペンションの大浴場は天然温泉で、露天風呂もあるらしい。
私たちはお風呂に行くことにした。
「あたし、何年か前の社員旅行でお風呂に行くとき、コンタクト外したのに眼鏡かけるの忘れて。
忘れ物しちゃって一人で部屋に戻ろうとしたんですけど、全然見えなくて道に迷って、ホテルの中ちょっと彷徨ったことあるんですよ。」
「じゃ、しっかり手繋いで行かないとね。」
「いや、そこじゃなくて!
ちゃんと目が見えるようにしておくことが大事だって話なんですけど。」
甘やかされるのは嬉しいが、恥ずかしい。
部屋の鍵は一つしかないので浴場前の休憩所で先に上がった方を待つことにして、それぞれの浴場へ別れた。
待たせるのは申し訳ないと思い私は早めにお風呂を済ませ休憩所に向かったが、彼の姿はまだなかった。
用意されている椅子に腰かけ、今日のこれまでのことを思い返す。
急展開がすぎる。
いや、一泊旅行についてきた時点で確定結果ではあるが、どこか他人事というかそう、社員旅行のような気分でいたのだ。
そもそも私は彼を好きなんだろうか?
彼は私のどこを気に入ったんだろう?
でも、そんなことを確認する気は更々なかった。
今だけが現実、それでいいと思った。
「もう上がってたの?」
そんなことを考えていると彼が戻ってきた。
「さっき上がったとこですよ。」
私たちは部屋に戻った。
寝室には、乱れたベッドと、きちんとベッドメイクされたままの状態のベッド。
「どっち使いますか?」
もう、あなたはどちらのベッドを使いますか?という意味ではない。
「片方だけ使ってあったら不自然でしょ。
今度はこっちでしよう。」
きれいなシーツに私たちは横たわる。
最初のキスが嘘のような、丁寧なキスを交わす。
ひとつずつ、ゆっくりと、お互いを確かめるように。
昼間のような激しさはなく、彼の愛撫はどこまでも優しい。
首筋から胸へ、胸から腹へ、腹から下腹部へ。
下腹部も優しく、徐々に激しく撫でられ、私は達する。
それに満足した彼は更に私を攻める。
求め求められ、強く抱き締められ、一緒に達し、いつの間にか私は眠っていた。
翌朝目覚めると、私は織田さんの腕の中にいた。
枕元の時計を見ると六時、いつもの起床時刻だ。
こんな時でも普段と同じ時間に目が覚める自分に少し感心した。
朝風呂に入ろうと思い立ち、彼を起こさないようにそっとベッドを抜け出し、部屋を出た。
朝の露天風呂には誰もいなかった。
今日も見事な晴天で、山の新緑が眩しい。
今の私は世界一ここに不似合いだなと、可笑しくなった。
部屋に戻ると織田さんは、寝ぐせのついた髪のままぼーっとソファでタバコを吸っていた。
朝が弱いとは聞いていたが、これはなかなかな弱さだ。
「おはようございます。良く眠れましたか?」
「あー。おはよ。
お風呂行ってたんだ。オレも行ってこようかな。」
「行ったほうがいいですよ。
天気が良くて、すごく気持ちよかったです。」
彼がお風呂に行っている間、私は軽くメイクして、荷物を整理する。
朝食は食堂の一階部分にビュッフェが用意されていた。
もう九時近くなっていたこともあり、他の利用客はいなかった。
彼は普段朝食を摂らないとのことでコーヒーのみを、私も簡単な物で済ませた。
「きのう気持ち良かった?」
部屋に戻ると彼が唐突に聞いてきた。
「まあまあですかね。」
本当は、今までの誰より良かった。
あんなふうに大切に抱かれたのは初めてだった。
だけど素直に認めたら負けだと思った。
「ウソだー。あんなにイッてたじゃん。」
「半分はフェイクです。」
つい、余計なことを言ってしまった。
傷つけてしまったかな、と少し反省したが、言ってしまったことは消えない。
「でも、良かったことは認めます。」
我ながらかわいくないなと思いながら、そう言うのが精いっぱいだった。
チェックアウトの時刻になり、奥さんにお礼を言って私たちは帰路に着いた。
帰りの車中でも他愛ないおしゃべりをした。
でも、漂う空気が行きとはガラリと変わっている。
この先、私たちはどうなっていくんだろう?
赤信号で車が止まったとき、ふと考える。
もうこれっきりにするのが正解なのはわかっているし、今後私から連絡するつもりはない。
でもこれで終わりだとはなんとなく、思えなかった。
帰りは自宅マンション横まで送ってもらった。
「ありがとうございました。楽しかったです。
また明日、会社で。」
私たちは連絡先を交換することもなく別れた。
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