緑の男(1)
「きれいなネイルだね。」
午後七時半過ぎ、ほとんどの従業員は帰宅し、人もまばらになったオフィスの自席に戻った私の指先を軽くつまみ、植木さんはへらりと笑った。
親会社のマニュアル整理を私の部署が手伝うことになったのは、三か月前。
親会社総務課文書部門の植木さんが窓口となり、ちょうど手の空いていた私が主に作業を担当することになった。
彼はこれ以外の仕事も山積みで、たまにこうして隣のビルにある私の部署に様子見がてら息抜きに来るのだ。
長居しすぎて、彼の同僚から「そちらに伺っていませんか?」と確認の電話が入ることもあるけれど。
そっと指を引き抜きながら、改めて彼を見つめる。
私の隣席の退勤済みの後輩の椅子に、何処ぞの無能な王のように座る彼の股間に目が行き、ぎょっとする。
えっと…、勃ってません?
私の席はフロアのいちばん端、その先には部の共通端末が数台並んでいるだけなので、定時後の今、誰かが来ることはほぼないだろう。
それにしたって、絶対に誰も来ないなんて保証はない。
私は気付かないふりをして、彼がなるべく隠れる角度に自分の椅子を移動させて座り、ネイルの話をする。
先週末買ったばかりの、くすみグリーンにパールの入ったマニキュア。
ビンの中では妖しくきらめいていたけれど、いざ自分の爪に塗ってみると、指先が腐っているように見えた。
食事時には向かないな、と苦笑した。
それを彼は褒めている。
「えー?わたしの指先、腐ってるように見えません?」
「そう言われてみれば、そうかも?」
「ひどいですー!」
「自分で言ったんじゃん!」
いつも通りの、軽くて何気ない会話が続く。
ホントニチャントミテイルノ?
彼は私の十歳年上。
そうは見えないベビーフェイス、身長はそんなに高くないけれど、高校球児だった名残らしく筋肉質、たまにかすれる声は耳に心地よい。
そして当然、奥さんと、三歳になったばかりの娘さんが一人いる。
国立大学卒で大企業勤務、奥さんの親の援助を受けたとはいえ、街の中心部近くに去年建てたばかりの新築一戸建て、ガレージにはファミリーカー。
絵に描いたような幸せな家庭。
私の想いは決して、届いてはいけない。
わかってはいても、心の中で意地悪く、そっと微笑んだ。
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