小さな変化
帰宅した涼は自室のデスクに古びた時計を置き、じっくりと観察していた。
デスクランプの柔らかな光が時計の表面に反射し、年季の入った木製のフレームが鈍い輝きを放つ。
涼はまたうっかり装置を作動させないように、慎重に時計を手に取った。
「この時計が、どうやって時間を操るんだ?」
涼は独り言をつぶやきながら、時計の外観から推測される技術レベルを分析する。
古びてはいるが、非常に精巧な作りであることが分かる。
次に、涼は時計の内部構造を観察するため、時計のカバーを慎重に外した。
図書室で見た時に輝いていた結晶は、変わらず輝きを放っている。
よく見ると、結晶は何かに固定されているのではなく、宙に浮いていた。
「この結晶が時間を戻した原因なのか……?」
最後に、涼は時計の操作方法について考えた。
文字盤には通常の数字に加えて、奇妙な記号が無数に刻まれている。
これらの記号は、単なる装飾ではなく、何らかの操作手順を示すインターフェースの一部であると直感した。
これが操作手順を示すものであれば、時計を安全に使用するための手がかりになるかもしれない。
そう思い彼はその記号を1つ1つ観察し、意味を解読しようと試みた。しかし見たこともない記号で解読のしようがなかった。
部屋は静寂に包まれており、時計の針が動く音だけが聞こえていた。そんな静寂を破ったのは、携帯のバイブ音だった。
突然の音に驚き慌てて取り出すと、画面には凛からのメッセージが表示されていた。
『リョウくん今どこにいるの? もしかして忘れてる……?』
古びた時計に夢中になっていた涼は、今日の放課後凛と映画を見に行くという約束をすっかり忘れてしまっていた。
スマホの時刻を確認すると、部活が終わって三十分も過ぎていた。涼は慌てて通話ボタンを押した。
「……凛、約束忘れてた。ごめん!」
凛につながったと同時に、涼は謝罪の言葉を口にした。
「……本当はすっごく怒っているけど。また何かに熱中してたんでしょ? リョウくんそういうところあるからね」
「……ごめん。今からでも間に合うか?」
「うーん、多分映画始まっちゃってるし、私ももうすぐで家着くし、また明日にしよ! 明日は部活ないからそのまま行けるよ」
「わかった。今度は忘れない」
「忘れないでよ? じゃあ切るね。また明日!」
「ああ、また明日」
電話を切ると再び部屋に静寂が訪れる。
涼はスマホを握ったまま、深いため息をついた。
「……もしかして俺は未来を変えてしまったのか……?」
過去に戻る前まで涼は約束のことをしっかり覚えていた。しかしその約束が果たされる前に過去へと戻ったため、実際にその約束が果たされたかどうかはわからない。もしかするとなくなっていたかもしれないし、ちゃんと映画を観に行っていたかもしれない。この結果が未来にどれほどの影響を及ぼすかは予測不可能だった。
「わからないことを考えても無駄だな……」
涼は自分にそう言い聞かせた。
四月十二日――。
涼のクラスはいつも通りのざわめきに包まれていた。
涼は凛が登校していることを確認すると、自分の席に荷物を置く前に凛の下へ行き、約束のことを謝罪した。
「凛、昨日はごめん」
「別にもう怒ってないよ! 約束を忘れることくらい誰にでもあるからね! それよりリョウくんが忘れるほど夢中になるものが何なのか気になる!」
無邪気な笑顔がまぶしい。
「……まだ全然わからないからいろいろ調べてるところ。ある程度わかったらそのうち凛にも教えるよ」
涼はタイムリープ装置のことをまだ打ち明けるべきでないと判断し、曖昧な返答をした。
しばらくして担任の先生が教室に入ってきた。
「みんな、静かにしてください。今日は新しい仲間を紹介します」
先生が黒板の前に立ち、手招きすると、一人の少女が教室に入ってきた。
その瞬間、教室内の空気が一変した。ざわめきは一瞬にして静寂へと変わり、クラス中の視線が一人の少女に向けられた。
少女は明るい笑顔を浮かべながら、しなやかな動きで前に進んだ。少し明るめでショートボブの髪がふわふわと揺れ、瞳は輝いていた。しかし、その笑顔の奥にはどこか謎めいた雰囲気が漂っている。
「今日からこのクラスに加わる
「みなさん、初めまして。水沢美優です。これからよろしくお願いします!」
美優は明るい声で挨拶し、その場にいた全員の注意を引いた。
涼は彼女の姿をじっと見つめていた。美優の瞳には、明るさと同時にどこか遠くを見つめるような、何かを隠しているような神秘的な光が宿っていた。その瞬間、涼は夢の少女を思い出した。
「……夢に出てきた女の子」
「リョウくんどうしたの?」
凛に顔を覗き込まれ、咄嗟に取り繕う。
「ちょっと寝不足で……。心配してくれてありがとう。もう大丈夫だ」
「ちゃんと寝ないとダメだよ」
凛と会話しているうちに、美優の諸々の紹介は終えており、後は席に着くだけとなっていた。
「水沢さん、空いている席は……」
先生がクラスを見渡すと、美優は自分から空いている席を見つけ、軽やかに歩いていった。
「ここ、空いてる?」
美優は隣の席の涼に向かって微笑んだ。
「え、ああ、空いてる」
涼は少し戸惑いながらも、美優に席を譲った。彼女が近くに座ると、その明るさと謎めいた雰囲気に引き込まれるような感覚を覚えた。
「涼君だよね? よろしくね」
美優は親しげに話しかけ、涼の心に軽い波紋を広げた。
「どうして俺の名前を……?」
涼は驚きと興味が交じった表情で彼女を見た。
「クラスの名簿を見ただけよ。でも、なんだか君とは仲良くなれそうな気がするの」
美優は微笑みながらそう言い、その瞳には確信めいた光が宿っていた。
涼はその一言に、何か変化が訪れる予感を抱きながら、彼女との新しい日常を迎えることになった。
放課後の鐘が鳴り響き、生徒たちが一斉に教室を飛び出していく中、涼と凛は約束通り一緒に帰り支度を整えていた。
凛は楽しみにしていた様子で、彼女の目は期待に輝いていた。
転校生の美優は数人の生徒に囲まれており、いろいろと質問されていた。転校生ならよくある光景だった。
「やっと終わった。昨日行けなかった分、映画楽しみにしてたんだ」
涼は軽く笑いながら凛に言った。
「うん、私も。最近忙しくて全然リラックスできなかったから、いい気分転換になりそう。それに……」
「それに?」
「ううん、何でもない! 早く行こ!」
凛は微笑み返し、涼より先に教室を後にした。
ショッピングモールまでは歩いて10分ほどの距離だった。道中、二人は学校の出来事や友人たちの話題で盛り上がりながら、楽しい時間を過ごす。
涼は凛と話していると、時間があっという間に過ぎていくのを感じた。凛の笑顔や声に心が癒されると同時に、彼女との時間を大切にしたいという思いが強まっていた。凛の笑顔を見ると、涼の心は自然と和んだ。
「この映画、評判いいみたいだよ。特に映像がすごいって」
涼はチケットを手に持ちながら、会話の糸口を探った。
「そうなんだ! ストーリーも面白そうだし!」
凛は目を輝かせ、涼の言葉に応じた。その表情には、純粋な興味と楽しみが溢れていた。
ショッピングモールに到着すると、二人は映画館へと向かった。ポップコーンの香りが漂うロビーで、涼はチケットを確認しながら凛に言った。
「ポップコーン買おうか。何味がいい?」
「うーん、キャラメルがいいな。あと、飲み物はコーラで」
凛は嬉しそうに答えた。彼女の顔には、少しの期待と興奮が混じっていた。
涼は売店で注文を済ませ、二人でポップコーンとコーラを持って劇場内に入った。暗闇の中、涼は席を確認し、凛と並んで腰を下ろした。
「始まるね」
凛はスクリーンを見つめながら、小声で言った。
「そうだね」
涼はポップコーンを1つ摘み、凛に笑いかけた。
映画が始まると、二人はスクリーンに集中した。映像の迫力に圧倒されながらも、涼はふと隣の凛を見つめた。彼女の横顔はスクリーンの光に照らされ、静かに映画に引き込まれている様子だった。
映画のクライマックスに差し掛かると、凛は感動のあまり目に涙を浮かべた。涼はその瞬間、彼女の感受性の豊かさに改めて感心し、優しい気持ちになった。
「大丈夫?」
涼は優しく囁いた。
「うん、大丈夫。ただ、すごく感動しちゃって……」
凛は涙を拭いながら微笑んだ。その笑顔には、映画の感動が余韻として残っていた。
映画が終わり、二人は劇場を出た。外の空気はすっかり夜の涼しさを帯びていた。
「いい映画だったね。感動しちゃった」
凛は目を拭いながら言った。
「うん、俺もすごく良かったと思う。次は何を観ようか?」
涼は微笑んで言った。その声には、凛との次の時間を楽しみにする気持ちが込められていた。
「そうだね、また一緒に来ようね」
凛は満足そうに微笑み返し、二人は仲良く並んで歩き始めた。その歩みは、これからも続く二人の時間を象徴しているようだった。
凛と別れ、映画の余韻を感じながら涼は自宅の玄関の鍵を開けた。凛との楽しい時間を思い返しながら家に入ると、玄関には見慣れない制靴があった。
「ただいま」
「涼、おかえり」
扉で仕切られたリビングの方から母親の声が聞こえた。
涼は扉に手をかけ、リビング入った。そこには母のほかに、玄関にあった制靴の持ち主もそこにいた。
「水沢……さん? どうして俺の家に?」
涼は驚きの声を上げた。
美優は涼を見つめ、少し微笑む。
「水沢さんね、わざわざ涼の落し物を届けてくれたのよ。優しい子ね」
「いえいえそんな。たまたま家が近くだったものなので」
「俺、何か落としたかな」
涼はこの状況に即座に対応するが、頭の中では様々な疑問が浮かんでは消えていっていた。
「このストラップ、涼君のだよね?」
美優はそう言うと自分の鞄からイルカのストラップを取り出し、涼のもとに歩み寄った。
美優が持つそのストラップには見覚えはなかったが、涼はとりあえず話を合わせることにした。
「確かに俺のだ。ありがとう、うっかりしていたよ」
「ストラップも渡せたので私はこれで失礼します。ありがとうございました」
美優は涼の母にお辞儀をして、帰る支度を整えた。
「涼、送ってあげなさい」
「ああ、そのつもりだよ」
涼は受け取ったストラップを鞄に付け、リビングを後にする美優の後ろをついていった。
二人は夜の静けさの中、しばらく無言のまま歩く。そんな中、美優はふと立ち止まった。
月明かりが美優の横顔を優しく照らし、その光景に涼は一瞬目を奪われた。美優はその光を楽しむかのように、ふわりと笑顔を浮かべている。
「……水沢さんが俺の家に来た本当の理由を教えてもらっても? 俺の夢に出てきたのと何か関係があるの?」
月を見上げる美優に、涼は静かに尋ねた。しかし美優から返ってきたのは質問の答えではなかった。
「……涼君、同じ日2回繰り返したでしょ?」
涼は美優の言葉に驚きを隠せなかった。
「……!」
涼は必死に頭を回す。
彼女が夢に現れていた理由は? どうしてタイムリープのことを知っている? なぜ自分だと特定できた?
様々な可能性を考え、涼はある1つの仮説に辿り着く。
「水沢さんもタイムリープができるのか……?」
涼が立てた仮説は間違っていなかったらしい。
「さすが涼君だね! 正解!」
「水沢さん、君は一体何者なんだ? あの装置は君のものなのかい? タイムリープして過去を変えた場合どうなるんだ……!」
普段冷静な涼も今は興奮を抑えられずにいた。
「涼君、落ち着いて。明日の放課後、時間ある? そこでちゃんと話すよ。今日はもう遅いし早く戻らないとお母さんも心配すると思う」
「……ごめん。少し取り乱した。明日の放課後は大丈夫だ」
「こんな状況であれだけ冷静さを保っていられる方がすごいよ。私が涼君の立場だったら絶対みんなに言いふらしてる!」
美優は涼の正面に立ち、涼の乱れた前髪を整えた。
背が低い美優はそのままだと涼の前髪に届かないので、少し背伸びをしている。その姿が可愛らしい。
「最初君に会った時の不思議な雰囲気の正体がわかった気がするよ」
「私そんなに不思議そうだった?」
「少なからず俺にはそう見えた」
美優は少し嬉しそうにニコニコと笑っていた。
「じゃあ私はこの辺で大丈夫だから、涼君も気をつけて戻ってね! また明日の放課後ね!」
美優はそう言うと胸の高さで手を振り、くるりと反転してそのまま歩いていった。
涼も美優を真似て手を振ろうとしたが、手をあげた時にはすでに美優は歩き出していた。
美優の姿が見えなくなると、涼も向きを変え家の方へと歩き出した。
四月十三日――。
いつも通り登校した涼は、いつも通りのように凛やクラスメイトと会話し、いつも通りのように授業を受け、美優と会話をするときは何事もなかったかのようにして振舞った。
放課後になり凛は「部活頑張るよ!」と涼に言い残し、教室を出ていった。
美優との待ち合わせ場所を聞いていなかった涼は、ほかのクラスメイトがいなくなるまでわざとゆっくり帰り支度をしていた。
「じゃあ行こっか」
教室に誰もいなくなったのを確認して、美優はそう言った。
涼は、すたすたと少し先を歩く美優の後ろ姿を、ただ眺めながら歩いていた。
放課後の静まり返った校舎。夕焼けが階段の窓から差し込み、柔らかなオレンジ色の光が二人を照らしている。
涼と美優は三階の階段の踊り場に立ち、誰もいない静かな空間で話をしていた。
涼は壁にもたれ、腕を組んで考え込むように眉間にシワを寄せていた。一方、美優は階段の手すりにもたれ、興奮気味に笑みを浮かべている。
「私は何から話せばいいかな?」
美優はいたずらっぽく首をかしげる。
「聞きたいことは山ほどあるが、まずはこの装置について教えてほしい」
涼は鞄から図書室で拾った時計を取り出した。
「まずそれ、私のものなんだよね。だから返してね」
美優はそう言うと、涼の手から時計を取り上げて、話を続けた。
「涼君はもうわかっていると思うけど、それはタイムリープ装置だよ。針が指しているのは今いる場所と時間の座標で、その針を戻りたい過去の座標に設定して結晶に触れることでタイムリープできるの」
「なるほど……。
「回数ってわけじゃないけど、制限はあるよ」
美優はそう言って時計の裏蓋を外し、中で光る結晶を見せた。
「この光、涼君が使う前と今とでは少し暗くなってるでしょ? この結晶の光が消えるまでは使うことができるよ」
涼は初めて時計を見つけた時のことを思い出すが、正直微妙な変化過ぎてわからなかった。
「俺は1回タイムリープしたが、その1回でどれくらいで光は消える?」
「この結晶には約十年分の時間が詰まってるのらしいの。タイムリープするたびに結晶の中の時間が減っていくの。だから例えば今から十年前にタイムリープしようとしたら、光は消えて装置は使えなくなっちゃう。だけどほんの数分だけタイムリープするなら全然光は変わらないと思う。多分あと一年分くらいの時間しか残ってないんじゃないかな」
「一年か……」
「ほかに聞きたいことは?」
「この装置を使ったとき未来に影響が出るのか……。それを教えてほしい」
美優はもたれていた手すりを離れ、踊り場をぐるぐると円を書くようにして歩いた。
「それを説明するにはまずタイムリープした人がどうなってるかを知る必要があるね」
そうして今度は鞄からノートと筆箱を取り出した。
「この世界はたくさんの世界があるんだよ。並行世界って言ったりもする」
美優はそう言ってノートに2本の直線を書いた。
「涼君が最初装置を拾った世界が左の線の世界とするでしょ? そして涼君はタイムリープしました。その時点でこの線とは別の右の線の世界が作られるの。そして涼君は今右の線上の世界にいる。だから右の線の世界で違う選択をしたからといって、左の線の世界の未来には影響はないの。だけど左とは異なる選択をしたわけだから、右がどんな未来になるかはわからないって感じ」
涼は少しの間目を閉じ、考えをまとめた。
「つまり、俺がタイムリープして今いるこの世界線は、タイムリープする前とは別世界ってことだな」
「そんな感じ!」
「後1つだけ。水沢さん、君が俺の夢によく出てきてたのはタイムリープと関係してるのか?」
美優は今までに比べて歯切れ悪くなり、答えにくそうにしている。
「……うーん。まぁ。それはまたいつか話そうかな。今は言えないかも……」
「……そうか。言いたくないなら無理にとは言わないよ」
「うん、ありがとう。大体話もできたし、私お腹空いてきちゃった! 涼君、一緒に何か食べに行かない?」
「やっぱり水沢さんは不思議だよ」
「美優って呼んでよ! そっちの方が嬉しい」
「……わかったよ」
「ありがとう!」
美優は子どものようにはしゃぎ喜んでいた。
「涼君! 早く行こ!」
美優はそう言って涼の手を掴み、階段を駆け降りる。
手を掴まれた涼はあまりの急さにドキッとしたが、すぐに気持ちを鎮まらせる。
「ちゃんとついていくから手は握らなくてもいいんじゃないかな?」
「私が握りたいから握ってるの!」
「……」
二人はそのまま校門を出て、夕日が照らすオレンジ色の街へと走っていった。
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