君の時間に触れるまで
マチノン
古びた時計
なんだか悲しい夢を見ていたような気がするが、
「またあの子が……」
ベッドから上半身を起こし、部屋の時計を確認する。時刻は朝の6時。いつもより1時間も早い起床だ。
「……え」
涼は頬に伝わる感触で自分が泣いているのだと理解できた。しかしどうして泣いているかはわからなかった。おそらく見ていた夢に原因があるのだろう。
四月十一日――。
布団をめくり、まだ眠そうな目をこすりながら、涼はベッドから起き上がった。
重い体を引きずるようにして、涼は洗面所へ向かう。鏡の前でぼんやりと自分の顔を眺め、少しの間放心状態になる。冷たい水で顔を洗い、ようやく目が覚めた。
意を決して制服に着替え、キッチンへ向かうと、母親がすでに朝食を用意してくれていた。
「おはよう、涼。今日は早いのね」
「うん、まあね」
朝食はトーストと目玉焼き、そして温かいミルクティー。シンプルだが、温かみのある食事が心地よい。
涼はいつもよりゆっくり朝食を食べ終えると、鏡の前で髪型を整え鞄を手に取り玄関へ向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
ドアを開けると、爽やかな朝の風が涼の顔に当たる。心地よい風を感じながら、自転車に乗り、いつもの通学路を走り出した。
学校までの道のりは、静かな住宅街を抜け、川沿いの桜並木を通り過ぎる。春の陽気が漂う中、桜の花びらが風に舞い、涼の心を穏やかにしてくれる。
「今日は良い天気だな」
川のほとりで一休みし、涼はしばし風景を楽しむ。時間に余裕を持って家を出たおかげで、こうして自然の中でリラックスする時間を持てるのが嬉しい。
やがて、学校の校門が見えてきた。涼は自転車を止めて校舎へと向かう。教室のドアを開けると、すでに多くのクラスメイトが集まっており、賑やかな声が飛び交っていた。
「おはよう、涼!」
友人たちの元気な声が教室に響き渡る。涼も笑顔で手を振り返し、今日の一日の始まりを感じるのだった。
自分の席に着くと同時に、隣の席で去年も同じクラスだった
「おはよ、リョウくん! 今日はいい天気だね!」
涼は微笑みながら凛の方を向いた。
「おはよう、凛。確かに、気持ちのいい朝だ」
凛は嬉しそうに明るく笑うと、涼の近くへ軽快に歩み寄った。
「リョウくん、昨日の数学の宿題教えてください……! 私にはさっぱりでした!」
「少しは自分で考えてみたらどうだ?」
「十分くらいちゃんと考えましたよ! それでもわかんなかったんだからしょーがないじゃん!」
「まったく……」
涼の表情はやれやれという声が聞こえてきそうなものだった。
「嫌そうにしててもなんだかんだでリョウくんは教えてくれるもんね! 優しいリョウくん!」
「まあ人に解説するのは重要なことだしな。アウトプットができるということは自分の中でその問題を消化できている証だ」
「ほらね」
凛はそう言いながら机からテキストを取り出して涼に問題を見せた。
「ここのカッコ1からお願いします!」
涼は面倒くさいと思いながらも、この時間が嫌なわけではなかった。そしてそれは凛も同様。
真剣に問題を解説する涼の顔を、凛はずっと見つめていた。
「……って聞いてるのか?」
テキストから視線を上げた涼は、凛が自分の話を聞いているように見えなかった。
「……ちゃんと聞いてますとも! ここは二項定理を使うんでしょ?」
涼に指摘され実際あまり内容が入ってきていなかった凛は、咄嗟に教科書に書いてある公式を言った。
「そうだ」
「ね? 聞いてるでしょ?」
凛はずっと涼を見ていたことがバレたのではないか、とドキッとしたが、涼に気づかれることはなかった。
「……というわけだ。一応これで全部だが、もう一度聞きたいところはあるか?」
凛が教室の時計を確認すると、もう少しで朝のホームルームが始まる時間だった。
「……ずっとこんな時間が続けばな……」
凛は呟いた。その声は涼には届かない。
凛は頭の中でそんな気持ちを捨て去ると、明るく普段通りに返答した。
「ううん! 全部わかりやすかったよ! ありがとう!」
そのとき、教室の扉が開き、担任の先生が現れてホームルームが始まった。
ホームルーム中、凛は小声で涼に話しかけた。
「そう言えば、昨日の約束忘れてないよね?」
「忘れてないさ」
涼も同じように小声で返した。
「よかった!」
明るくニコッと笑う凛に、涼は微笑みその後先生の話に耳を傾けた。
授業が終わり放課後。涼は図書室で課題をしながら、凛の部活が終わるのを待っていた。
放課後の図書室は静寂に包まれていた。夕日が窓から差し込み、棚に並んだ本たちの影を長く引き伸ばしている。机に並べられた教科書やノートに目を通しながら、涼はふと視線を上げた。その目は、古ぼけた時計に止まった。
棚の一番上に置かれたその時計は、まるでそこにずっとあったかのように自然に見えた。しかし、涼はその存在に違和感を覚えた。彼の観察眼は常に鋭く、図書室の隅々まで把握している。だが、この時計はこれまで見たことがない。
涼はゆっくりと立ち上がり、時計に近づいた。時計のデザインは古典的でありながら、どこか異質な雰囲気を放っていた。彼は慎重に時計を手に取り、細部を観察し始めた。文字盤には見慣れない記号が無数に並んでおり、二本の針はそれぞれ別の記号を指した状態で完全に止まっている。
「なんだこの時計は……」
涼は小声でつぶやいた。彼の頭の中では、様々な可能性が次々と浮かんでは消えていく。もしこれが単なる時計でないのなら、何か特別な仕掛けがあるに違いない。彼はその場に座り込み、時計の裏蓋を慎重に外した。
中から現れたのは、複雑な歯車やバネの他に、小さな光を放つ結晶だった。その光はまるで時間そのものを閉じ込めたかのように見えた。
「綺麗な結晶だ……」
涼の心臓が高鳴る。冷静な彼も、何かにとりつかれたようにその結晶を見入っており、彼の手は自然と結晶に伸びていた。
涼が結晶に指を触れた瞬間、時計が突然輝き出した。青白い光が図書室全体を包み込み、彼の周りの風景が歪み始めた。目の前の本棚がぼやけ、周囲の音が遠のいていく。
「……!」
涼は驚愕の表情を浮かべたが、次の瞬間には完全に飲み込まれていた。
涼は体が浮き上がるような感覚に襲われ、視界が完全に真っ白になった。耳鳴りが激しくなる中で、彼の意識は遠ざかっていった。何が起こっているのか理解する暇もなく、涼は時間の渦に引きずり込まれていった。
次に目を開けたとき、涼は硬い床の上に横たわっていた。
ゆっくりと起き上がると、周囲の景色が見慣れた図書室であることに気づいた。しかし、何かが違う。照明はやや暗く、夕方だった外景色は朝になっている。
涼は心の中で冷静さを保ちながら、自分に起きた状況を整理するため周囲の観察を始めた。
「一体、ここは……?」
涼は静かに自問した。まずは時計を確認しようと、手に持っていた時計を見下ろした。時計の針はさっきとは違う記号を指してはいるが相変わらず止まっており、その輝きもすでに消えていた。周囲の様子をさらに探るために、涼は図書室の窓際に歩み寄った。
ふと、涼はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に表示された日付と時間を確認した。日付は四月十一日、時刻は午前八時十五分を指している。
「まさか……」
涼は驚きと共に、自分がその日の朝に戻っていることを理解した。
窓から外を見ると、見慣れたはずの学校の景色が広がっていた。校庭では、まだ登校していない生徒たちの姿がちらほら見える。通学路を歩く学生たちの姿も、普段と変わらないように思えた。
涼は深呼吸をして、冷静さを取り戻した。
「まずは、この状況を把握しよう」
彼は図書室の時計を見上げ、急いで自分の教室へと向かった。
教室へ向かうわずかな時間でも彼の頭では様々な疑問が浮かんでいた。
装置の作動条件は? 遡る時間を指定できるのか? 遡れる時間に限りはあるのか、ないのか? 過去を変えるともともとの未来はどうなる? そもそもなぜこんなものがあったのか……?
今は考えてもきりがない。涼はそう思いとりあえず今日の行動をできるだけ再現しようと決めた。
四月十一日(2回目)――。
教室のドアを開けると、すでに多くのクラスメイトが集まっており、賑やかな声が飛び交っていた。
「おはよう、涼!」
友人たちの元気な声が教室に響き渡る。涼も笑顔で手を振り返す。
自分の席に着くと同時に、凛が元気よく声をかけてきた。
「おはよ、リョウくん! 今日はいい天気だね!」
涼は微笑みながら凛の方を向いた。
「おはよう、凛。確かに、気持ちのいい朝だ」
凛は嬉しそうに明るく笑うと、涼の近くへ軽快に歩み寄った。
会話の内容も、仕草も同じ。
涼は本当に過去に戻ったんだという実感が湧いた。
涼はその後もできるだけ同じように振舞っていたが、会話の内容などは全く頭に入っていなかった。涼の頭にあったのは、自分がタイムリープした原因と方法を探ることだけ。凛との約束もすっかり忘れてしまっており、授業が終わると早々と帰宅した。
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