第39話
気配はやがて足音に代わり、足音はやがてそれに同調した大きな影を伴った。アリーネが呪文を唱え、メイスの頭を光らせ、その光を影へと向けた。そこに現れたのは、容貌魁偉にして巨躯堂々たる臙脂色のドラゴンだった。ティルザは剣を構えたまま、内心、魂消た。
「どこの馬の骨かと思えば、お前、アリーネじゃろ」
ドラゴンが人の声で喋った――と驚きつつよく見ると、その首根っこに簡易な座台がしつらえてあり、そこに、眼帯を掛けた老人が黒ローブの裾を股まで捲り上げ、枯れ枝のように細い足をぶらぶらさせて座っていた。どうやら、騎馬を操るようにそのドラゴンを操っているらしい。アリーネが不審の目を上げて、胡散臭げに尋ねた。
「あなたが総主教とやらよね。私のこと、知ってるような口ぶりだけど、どこかで会ったっけ? 私の知ってる人?」
「忘れたとは言わさんぞ。この眼帯を見て、何か思い出さんか?」
「別に何も」
「この眼は、お前のせいで潰されたのだ」
「……もしかしてあなた、あの時ののぞき?」
「あれは、のぞきをしていたのではなく、見守っていたんだ!」
「お知り合いですか?」ニナが訊いた。
「もう、七、八年も前のことだけど、とにかくそれまで、アトロポシアの聖堂に大司教として詰めていた人よ。勤勉で優秀な人だったそうで、私の父も信頼して近く使っていたらしいんだけど、その人がある日、魔が差したのか元々の性質なのか、私のお風呂を覗いてたの。それが見つかり、捕まって、追放されたという訳」
「七、八年前って、アリーネさん今いくつ……まあ、それはいいとして、本当はよくないんだけど、眼を潰されたというのは?」
「刑罰として追放と共に与えられたの。私の父は誰に対しても寛容で優しい人だったんだけど、どんな些細なことでも私に仇なす者に対してだけは、常に容赦がなかったの。片目で済んだのは、それまでの功績に免じてということだったと思う。いずれ全て私の周囲が勝手に騒いで、私の意思とは関わりなく運ばれた事柄よ。私のせいにされても知らないわ」
「何をごちゃごちゃ言い合っておる。お前ら、命が惜しくはないのか。そんな暇があるなら、さっさと降伏して、儂の忠実な下僕になることを誓え。まさか、ドラゴンと戦って勝てるなどと、考えているわけではなかろうな」総主教が陰湿に薄笑いながら高飛車に言った。
「そのドラゴン、どうやって支配下に置いたの? その方法も、胡山文書とやらに依ったの?」
「やはり、胡山文書のこと、知っておったか。そうじゃ、ドラゴンの懐け方も胡山文書に書いてあった。卵を探すのには苦労したが、他のことは全て、そこに書かれてあるとおりに実践するだけでよかった。胡山文書様様じゃよ」
「ドラゴンって、孵った時から親しく飼い続ければ、自然と懐くものなの? あるいは他に、何か特別な手立てでも必要なの?」
「さて、どうだかな。だいたいそんなこと、お前が知っても仕方なかろ。とにかく、お喋りは終わりだ。とっととそこにひざまずき、儂に許しを乞え。さすれば、命を助けるばかりか、我が愛妾にして、夜ごとねんごろにかわいがってやろう」
ティルザは剣を横に構えなおして、駆け出した。といって、流石にドラゴンとまともにやり合うような愚は犯さない。その側面へと回り、そこから勢いをつけてドラゴンの身体を走り上がり、その首根に乗っている総主教を斬るつもりだ。しかし、こんな動きは、もちろん相手にも見え見えで、総主教は左の手綱をグイと引いて、ドラゴンを身体ごと横向けた。
駆け寄せつつあったティルザはドラゴンと目が合い、一瞬ひるんだ。しかし、今さら勢いは止められず、それに、いま目の前にあるドラゴンの広い腹は、そのゴツゴツした背中などと違って、鱗が無く白っぽく、ちょっと柔らかそうだ。彼女は「ままよ」とばかり跳び上がり、全力を込めて剣を振るった。
ドラゴンはこれを避けずに、真正面から受けた。剣は狙いどおりの場所に寸分たがわず当たった。しかし、その皮膚は見た目と違って非常に硬く、ちょっとの傷跡すら付けられなかった。
ドラゴンの片足が上がり、ティルザを踏みつけてきた。ティルザは頭から回転して、これを避けた。大きな鉤爪がティルザのズボンの腿の辺りをかすり破ったが、幸い、その身はぎりぎり逃れて、彼女はまた元の場所へとあたふたと戻っていった。
「めっちゃ硬くて、手がしびれた。剣に魔法、掛けてくれ」ティルザが血の気の退いた顔をして言った。
「無駄よ。ちょっと切れ味が良くなったところで、ドラゴンの皮膚に普通の剣が刺さるわけないじゃない」アリーネが呆れ顔に言った。
「じゃあ、どうすんだよ……そうか、ニナの攻撃魔法で」
「……無理です。そんな魔力、もう残ってないです」
「とすると、あとはもう――」
「改めて、逃げの一手ね」
三人は、出てきた玄関の方へと駆け戻っていった。「逃がすか!」という総主教の濁った声が背後から響き、その時ちょうどその玄関から、追手の先頭が現れた。ティルザは足を止め、ちらと後ろを振り向いた。ドラゴンが風の鳴る音を立てながら、息を大きく吸い込みつつあった。
「横に跳べ!」
「フォイエル!」
総主教の号令と共に、ドラゴンが火炎を吐いた。火炎は太く長く密で、色はともかくその形においては、あたかも、この大きな聖堂の屋根をその縁辺で支えている立派な円柱のよう。それが宙を走り、玄関の辺りにまで届き、ちょうどそこに出くわした追手の幾人かを、付近の諸々ごと灰にした。
「無事か!」ティルザが叫んだ。
「……なんとか」ニナが地面に伏したまま答えた。
「熱っ。周りの空気まで熱湯みたいになったわよ。やだっ、肌がちょっと赤くなってる。火傷かしら――キュア・ウーンズ」アリーネはそう言って、自分の足首の辺りに手をかざした。
追手達は混乱し、女達を追うどころではなくなった。口々に「退け、退け!」と唱えつつ、来た通路を戻りはじめる。ティルザ達もその後を追って、壊れた玄関から入っていった。建物の中に入ってしまえば、大きなドラゴンには追ってこられないだろう。
しかし、ドラゴンは追ってきた。その巨体を無理に狭い玄関に押し込み、壁と天井を壊しつつ、前進を止めない。崩れた天井は、ドラゴンの首根に乗っている総主教の上にももちろん落ちかかってきたが、彼は何か呪文を唱えて、これを防いでいるらしかった。
「……さっきの話ですけど……いくら適切に飼育されたからといって……ただそれだけで……ドラゴンが人に懐きますかね?」息を切らして走りながら、ニナが途切れ途切れに訊いた。
「知らないわよ、そんなこと。それ、いま訊くこと?」隣を走るアリーネが、前を見たまま面倒くさそうに答えた。
前に通路が交差していた。ティルザとアリーネは来たとおり真っすぐ進んだが、ニナは何を思ったか、ひとり左に折れた。ドラゴンはニナの方を追おうとして、その方に曲がりかけたが、総主教は手綱を操り、そのまま真っすぐ駆けさせた。
「ニナ、一人で大丈夫かな。魔力の残りもほとんど無しで」
「あっちの心配より、こっちでしょ。あのドラゴンの勢い、全然止まらないわよ」
礼拝堂に出るドアの所まで戻ってきた。傍に、例の愛人の死体が変わらず寝かされている。通り過ぎる時にちらと見ると、着けられたままでいたはずのネックレスやらイヤリングやらが、どうやら無くなっているようだ。先に逃げた追手達の内の誰かが、どさくさに剥いでいったのだろう。
ティルザは、昔の自分であれば、さっき死体を横たえた時に、たぶん同じことをしていただろうと思う。彼女は、すぐ後ろに付いて走るアリーネの忙しい呼吸の音を聞きながら、何があたしをこう変えたのかと、我ながら不思議な感じがした。
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