第41話
ティルザとアリーネは、ただひたすら逃げ続けた。細い路地を抜け、幾つもの建物の中を通過し、また路地を駆ける。アリーネは時々、走りながら一人つぶやいて、自分に体力回復の魔法を掛けていた。
「あたしにも回復魔法、掛けてくれ。ずっと駆けっぱなしで、流石にしんどい」
「魔法に頼ることを覚えると、すぐ人間が駄目になる。ちょっとぐらいきつくても、あなたは自力で頑張んなさい」
ドラゴンはしつこく、どこまでも追ってきた。塀を倒し、壁を穿ち、建物を壊して、ついて来る。一旦、距離を置き、逃げおおせたと思っても、ドラゴンはどうしてか、二人をまたすぐに見つける。おそらく、女の匂いをでも辿ってくるのだろう。
やがて、一帯の建物は、ニナに燃やされたのでなければドラゴンに壊されて、そのほとんどが瓦礫の山と化した。二人は逃げ込む場所を失って、火口の縁に追い詰められた。
「おい、どうすんだよ! お前の魔法で何とかならねえのか。何か、ドラゴンを一瞬で倒せるような魔法、使えよ」
「無いわよ、そんなもん。あんただって知ってんでしょ。攻撃魔法は私、何も使えないわよ」
「攻撃魔法じゃなくても、何か、その代わりになるようなもんはねえのか?」
「えーと、それじゃあ、こうなったらもう――」
アリーネはそう言うと、目をつぶり、両手でしっかりとメイスを握りしめ、いつにも増して真剣な様子で、何か呪文を唱えはじめた。
「マドゥーカ神の母にして、造物主たる大神アズッサ。主は知らざるか、今やこの山、邪悪に塗れて、散々に穢れしことを。我、主が御力をここに借りたく、こいねがう。地異を起こし給いて、この邪悪をば、土中に埋めて滅せんことを――アースクェイク」
突き上げるような縦揺れが、いきなりドンと来た。人も瓦礫も一斉に跳ね上がり、ティルザは一瞬、重力を無くしたように感じた。それからすぐに大きな横揺れが来て、アリーネがティルザにしがみついてきた。
「この地震、お前が起こしたんだよな。何か目算あってのことだと思うが、ねらいは何だ?」
「死なばもろとも」
「は?」
「あるいは、あとは野となれ山となれ」
揺れは次第に速く大きくなり、ついに二人は立っていられなくなった。ドラゴンも流石に足を止めて、地震の収まるのを待っている。地面のあちこちにひびが入りはじめ、それらの内の幾つかは、急速に大きな裂け目へと発展した。そして、ドラゴンのちょうど突っ立っているその場所にも、偶然かどうか、広く長く深い裂け目が突然パックリと口を開け、あろうことかドラゴンはその裂け目に、為すすべなく落っこちてしまった。
「ねらいどおり!」
「本当かよ」
しかしそれは、束の間の幸運だった。すぐに裂け目の下の方から、大きな羽音がバッサバッサと聞こえてきて、ほどなく、落ちたドラゴンが宙に、またその巨体を現した。ドラゴンは裂け目のこちら側に悠々と着地して、その大きな羽を綺麗に畳んだ。
「鶏なんかと違って、ドラゴンの羽は伊達じゃないってことだな。まあ、知ってたけど。これも、ねらいどおりか?」ティルザが白けた表情をして訊いた。
「うるさいわね!」アリーネが顔を真っ赤にして言った。
その時、向こうの瓦礫の山の陰から、灰色のローブを纏った細身の少女が駆け出してきた。もちろん、ニナである。彼女は裂け目の傍まで来ると、右手に持った短剣を高く掲げて、こちらに向かい、声を張り上げた。
「ティルザさん、この剣を使って! これならきっと、ドラゴンを斬れる!」
「こっちに来られないのか? この程度の裂け目、お前なら、何かしら魔法を使って、越えられるだろ」
「無理です。私の魔力、もう完全に空っぽ」
「じゃあ投げろ。早く!」
ニナはちょっとためらった。自分の非力な腕力で、どれほどの距離を投げられるだろう。しかし、やるより仕方なく、彼女は、少しでもその重さを軽くする為に剣から鞘を外し、その抜身を両手で持って、下からすくい上げるような横投げで思いきり抛った。ゆるい放物線を描いて飛んだそれは、ティルザの所までは全然届かなかったが、それでも裂け目はぎりぎり越えて、その縁の辺りに柄から落ちた。
「あの剣、取らすな!」総主教がドラゴンに命じた。
総主教が命じるより一瞬先に、ドラゴンは既に駆け出していた。これまでになく慌てた様子で、ドラゴンにはあの短剣がよほど苦手なものと見える。足の速さは、同時に動いたティルザとほとんど変わらなかったが、もと居た位置の関係上、ドラゴンの方がわずかに先着した。短剣は裂け目の底へと、あっさり蹴り落とされた。
「ふー、正直、ちょっと焦ったわい。まさか、あれの存在に気づくとはな。だが、これで本当にやっと終わりだ」総主教が座台の上から身を乗り出して、裂け目の底を窺うようにしながら、一人つぶやいた。
しかし、ティルザは、それで絶望しなかった。実は、走り出して早々、相手の先着を悟った段階で、既に短剣の回収などは諦めていたのだ。その代わり、ドラゴンの乗り手を斬ろうと思った。彼女はドラゴンの背を追うように走り、今、その尻尾の付け根の辺りを踏み台にして、剣を抜きつつ躍り上がった。
振り向いた総主教の顔が恐怖に歪んだ。彼は咄嗟にローブの袂に手を入れ、変哲もないダガーナイフを、鞘を付けたまま取り出した。そして、その短い柄を両手を重ね合わせて握り、頭上に構えて、ティルザの剣を受けようとした。
「ティルザ! そのダガーたぶん――」
「わかってる!」
ティルザは左手を伸ばし、ダガーの鞘を掴んだ。それから、右手一本でミスリル剣を振り、総主教の両手首を一度に斬り落とした。総主教は、噴き出る自分の血を見て絶叫し、そのまま気を失った。
その時、急にドラゴンがその身をめちゃめちゃに捩って、暴れだした。ティルザはその首に必死にしがみついて、振り落とされまいとした。総主教の身体が座台からこぼれて、ちょうど落ちたその場所をドラゴンの足が踏んだ。アリーネは流石に目を逸らし、「酸鼻ね」とただ一言だけ呟いた。
ドラゴンはその後もじたばたと地団駄を踏み、首を振り続けて、何とかティルザを地に落とそうとした。ティルザはその首に両脚までも巻きつけて、懸命に耐えた。アリーネがやおら進み出て、ドラゴンの正面で泰然と胸を張った。それを見たドラゴンはちょっと動きを止めて、また火炎を吐くべく、口から息を吸い込み始めた。
「止めなさい! さもないと、そこの野蛮な女が、あんたの全身を隈なくズタボロに切り裂くわよ。その手にしているドラゴンスレイヤーで」
ドラゴンの口が閉じ、その鼻から空気の漏れる音がした。
「私の言うことをよく聞いて。ここは、あなたの居るべき場所じゃない。あなたが住むべきは、ここからずっと西の方に重畳として高く横たわる犀脊山脈の向こう側。そこに、あなたの仲間達が暮らしているから、あなたはそこに行きなさい。もしかすると、あなたの両親も、そこに居るかもしれないわ。さあ、わかったでしょ。わかったなら、ぐずぐずせずにさっさと出発しなさい。そこの野蛮な女が大人しくしているうちに」
ドラゴンはわかっているのかいないのか、表情のない顔でじっと聞いていた。話が終わっても、アリーネを見つめたまましばらく動かなかったが、やがて、頭をひとつ、大きく振って頷いた。
ティルザが剣を使って、縄で固定された座台を取り外してやった。彼女がその背から飛び降りると、ドラゴンは羽をひろげ、風を巻き起こした。アリーネがスカートの裾を片手で押さえながら、西の方角を指さした。ドラゴンは悠然と飛び立ち、朝まだきの空に、次第にその姿を小さくした。
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