第20話

 侍従武官なるものの本来の役割は軍事顧問といったところ。しかしまさかティルザにそんな能力があるはずもない。だからその大仰な役職名は単にアリーネがティルザを常に傍に置いておくための名目であり、ティルザは早速居室をアリーネの広い居住区内の一室に移された。

 なお、王妃はこの処遇に反対だった。

「実態はともかく、教皇の侍従といえば、その栄誉たるや並々ならぬ。そんな顕職に名字すら持たぬ下賤の人間を就けるべきではない。そもそも、自前の軍を所有せぬ教皇の臣下に武官など必要ない。必要があるとすれば、せいぜい護衛の用心棒で、どうしても彼女を傍に置きたければ、その扱いでもって雇えばいい」

 しかしアリーネは頑として譲らなかった。王妃は仕方なしに一つだけ条件を付した。それはティルザに、その地位に相応しい教養と品性を身に付けさせるべく、これから毎日一定の時間を取って教育を受けさせるということで、王妃はその教師の任に自らあたるとした。

「なぜ、あたしだけそんな目に。ニナもあたしと一緒に侍従とやらにしたんだろ?」ティルザがアリーネに訊いた。

「彼女は断ったわ。私の家来にはなりたくないって」そのことに特に不快を感じているふうもなく、アリーネが言った。

「じゃあ、あたしも断る」

「却下」

 最初の授業において、王妃はティルザに筆記試験を課した。彼女の学力の低さは知れていたが、その低さの程度を正確に測るためだ。ところがティルザは問題用紙をさっと一瞥して顔を上げると、あとはそれを解くどころか、ペンを握ろうともしなかった。何か不満があってボイコットしているのだと考えた王妃が激しく彼女を叱りつけると、彼女は、王妃には全く予想外だった答えを返した。

「そうじゃない。あたしは字が読めない」

「え……全く?」

「自分の名前は書ける。元の短い方のなら」

「……そう」

 これに呆れて、自分を教育しようなどという無謀な試みは止めてくれればよいとティルザは思った。しかし、その思いとは裏腹に、王妃はこれを興味深く感じていた。完全に教養ゼロの人間を、自分の手により、どこまで知的に成長させられるか。教育者としての彼女の血が、人知れず騒いでいた。



 ニナがティルザをその居室に訪ねてきた。時刻は夜の八時頃。ティルザは王妃の授業を受け終え、戻ってきたところである。早朝と日没直後からの共に二時間ずつが、その時間に当てられていた。

 なお、ニナは、初めあてがわれた王宮内の一室に、いまだ居座っていた。アリーネの家臣になることを拒んだ以上、いつ追い出されても文句は言えないのであるが、ここの役人も使用人達も皆鷹揚であるのか、誰も何も言ってこない。日中は書庫に入って本を読んだり、街をあちこちぶらついたりして、気ままに過ごしているらしかった。

「授業はどんな感じですか?」

「本の朗読ばかり、やらされてる。先生が一文ずつ読み上げていくのを、あたしはただ同じに真似て繰り返す。これまでの一週間、ずっとそれだけをやらされてる。オウムにでもなった気分だ」

「どんな本を読まされてるんですか?」

「ネクタ戦記」

「名文で知られる古典の傑作ですね。でもあれ、文語体で書かれてますよね。難しくないですか?」

「だいたいの内容がわかれば今は充分。細かい意味は、声を出して何度も読むうち、おのずと知れてくる、って言われた」

「ちょっとあんた、なに勝手に他人の部屋に入ってきてんのよ。それもこんな夜に。非常識よ」髪を下ろして寝巻を着たアリーネが、風呂場の方から出てきて言った。

「私はあくまでティルザさんの部屋に来たのであって、あなたの部屋に来たわけではありません」

「同じことよ。用があるなら、とっとと済まして帰ってよ。知ってるでしょ、明日、出陣式があること。私も出なきゃいけなくて、早朝から忙しいんだから」

「そのこと何ですが、アトロポシアへの出征は一時見合わせた方が良いと思います。王にそう進言してください」

「どういうこと?」

「酒場で噂を聞きました。ここからそう遠くないある山中で、黒いローブを着た男達が見かけられたと」

「その噂は確か?」

「単独行動の木こりと猟師がそれぞれ見たと」

「……仮に奴らだとして一体なにを……ほとんどの兵隊達が遠く出払った後を狙って、亜人達を操り動かし、ここを攻めさせる……それ以外に無いわね」

「アトロポシアの二の舞になります」

「わかった。今から王に伝えに行く。ニナ、あなたも一緒に来て」

 王は話を真剣に聞いた。たかが噂と等閑視しなかった。しかしそれでも出陣の見合わせは無理だと言う。

「そんなことをすれば、我らの戦争遂行能力に疑問を持たれる。今、こっちになびいている諸侯どもも、旗色を変えかねない。たださえ勢力的に五分といった現状において、もしそうなれば、我らの勝ち目は完全に無くなってしまう」

 結局、噂の真偽を確かめるべく捜査隊を組織することと、守備に残してゆく兵員に一隊を追加することの二つが決まった。充分な対策とはとてものこと言えないが、それより他に出来ることは何もなかった。



 次の日、ティルザは早速、捜査隊に志願した。しかし、侍従武官などという顕職にある人間にそんなことをさせるわけにはいかないと、当然に断られた。そこで彼女は仕方なしに、独自に捜査をすることにした。真夜中を待ち、ニナと共にこっそりと王宮を出て、街からも抜け出す。

 しかしこの企みは、すぐにアリーネの察する所となった。バックパックを背負い、馴染みのミスリル剣を腰に佩いたティルザが、真っ暗な中、廊下に出るドアのノブに手を掛けたところで、後ろから声が掛かった。手持ちのランプが灯され浮き出たのはもちろんアリーネで、彼女は以前のとおり、七分丈の白いブラウスに巾着を斜に掛け、薄桃色のフレアスカートを穿き、手にはやはり例のメイスを既に握っていた。

「何で私を誘わないのよ」

「……誘ったらお前、絶対乗ってくるだろ、立場を考えずに」

「それはお互いさまでしょ」

「地位の重みがまるで違う。教皇が行方不明なんてことになってみろ。戦争の大義を根本から失う」

「王妃がどうとでも取り繕うわよ。あの人、やり手だから」

「帰ってきたらお前、めちゃめちゃ怒られるぞ」

「あんたもね。あの人最近、あんたの教育を何よりの楽しみにしてるみたいだから」

「……それを思うと、ほんと気が滅入るな」

 門番や夜警の職務質問には「教皇より緊急の密命ありて、これより外出す。詳細は問うことなかれ」と答え、押し通った。ティルザに付き添う二人のうちの一人が教皇その人であるとは、夜闇のあいだのことであり、誰も気づかなかった。

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