第12話
街の東に、荒れた果樹園と暗い森を挟んで、山の連なりが見える。目指す遺跡は、その真ん中あたりの一番高い山の下にあるという。一行の総勢は六十人程で、そのおよそ半分は正規の軍人だ。隊長は四十絡みの穏やかそうな男で、綺麗に整えた口髭がなかなか良く似合っていた。
麓近くの斜面につる草に覆われて、いびつな形の穴が開いていた。人一人が、かがんでやっと通れるほどの大きさで、緩やかに下の方へと続いている。どうやら、昔の戦争時に攻撃側が中に侵入するために穿った穴の一つであるらしく、隊長は、ティルザら募集で集めた一般人らに対し、先にそこに入るよう命じた。
「そりゃないだろ! 俺たちはカナリアの代わりか?」腰に短剣をはいた若い男が不平の声を張り上げた。
「いやいやまさかそんなつもりは全くない。私達はこのとおり鎧まで着けて、皆、身が重い。身軽な者を先に行かせて、ただ行進を速やかにしたいだけだ」隊長がなだめるように言った。
「重装備の人間こそ、前を歩くべきだろう。どこでゴブリンらと出くわすかもわからないのに」
「敵の気配を感じたら、すぐに報せてくれ。私達が代わって前に出て、君らの盾となる」
「そもそも、これだけの人数で、幾百居るともしれない奴らを殲滅するなんて、はなから無理だろ」
「殲滅は作戦の最終的な目的であって、今日明日で実現しようなどとは誰も思っていない。今回の任務はあくまで威力偵察であり、少しでも危ないと思ったらすぐに引き返すつもりだから、そんなに心配しないでいい」
「わざわざ民間人を隊に雇い入れたのはどうしてだ? 全てプロの兵隊で揃えた方が、何かとやりやすいと思うが」
「軍は常に人手不足だ。他意はない。さあ、それじゃあ、行ってくれ。さっさと仕事を済まして、日のあるうちに街へ帰ろう」
穴に潜る順番はジャンケンで決められた。ティルザとアリーネの二人は、女ということでそれへの参加は免除され、彼らの最後尾に付くことを無条件に許された。あからさまな弱い者扱いにティルザは文句を言いかけたが、とっさにアリーネに肩を掴まれ、口をつぐんだ。「腹は立つが損はない。自ら進んで危険を買う必要はない」とアリーネの目は語っていた。
二人の他にもう一人だけ、女が居た。薄汚れた灰色のローブを身に纏い、黒ずんだ古木の杖を持っている。紐で縛った腰はほっそりとして、年の頃は十二、三といったところか。
「魔法を使うのか?」ティルザが訊いた。
「はい。少しだけ」少女が目を伏せたまま、ボソリと答えた。
穴は、左右に伸びる通路の途中に繋がっていた。手持ちのランプに照らされた天井にはきちんと製材された梁が縦横に掛け渡り、壁は全て石を積んで押さえられている。元は要塞というだけあって、流石にしっかりと造られていたようだ。長い年月を経た今でも、崩落の危険などは無さそうであった。
「どっちに進めばいいんだ、右か左か?」先頭の役目を負った太った男が訊いた。
「……右だ」隊長がちょっと考えて答えた。
「本当に右でいいのか? あっちの奥の角のあたり、ほのかに明るんでいるぞ。なんの火影か知らないが、あの付近に、ゴブリンが溜まっているんじゃないのか?」
「それを確かめに行く」
「だったらあんたら、先に出てくれ」
「本当にゴブリンが居たら、すぐに代わるとも」
皆、足音を忍ばせて、慎重に歩を運んだ。耳を澄まし、前方に注意を払い、不意の遭遇を警戒する。足下で何か小さな物音がして、近くの人間が一斉に飛びのいた。慌てて灯りを向けると、変哲もないネズミだった。
また進み、角の近くまで来た時だった。バタンという音と共に、先頭の太った男の姿が灯りの輪の中から突然消え、凄まじい悲鳴が上がった。何事かと目を凝らすと、行列の先の床がぽっかりと開いている。落とし穴だった。
「ギャー! ギュ……」
悲鳴はすぐに途絶え、その場に白い煙が湧き立った。すぐ後ろに居た男が煙の出所に向けて、ランプを恐る恐る差し出した。前に人が集まり、彼らは煙を吸わないよう気を付けつつ、穴の中を覗き込んだ。
「と、溶けてる。あのデブ、溶けてるぞ!」
穴の中には、赤黒い水がたっぷりと張ってあった。何かわからないが、とにかく、酷い毒液であることに違いはない。ティルザは、もしジャンケンに参加して自分が負けていたらと流石にぞっとした。そしてもちろんその想像は、ティルザ一人のものではなかった。
「てめえら初めからこういったことを見越して、俺らを連れてきたんだな。やってられるか。帰る!」前に寄った民間人達が口々に怒りの声を上げ、引き返し始めた。
「待て。勝手は許さん。一度、雇用契約を結んだ以上、お前達は皆、私の部下であり、軍人だ。軍法会議で裁かれたくなければ、逃げずに私の命令に従え!」隊長が、これまでの温厚な様子を一変させて、厳しい声と表情で言った。
「暗い地下の穴の中で溶け死ぬくらいなら、軍法会議で懲役を食らう方が遥かにマシだ。さあ、兵隊ども、そこを退いてくれ。誰がなんと言おうと、俺は帰る!」
「者ども、奴らを押さえて絶対に退かすな。聞き分けの悪い奴は、斬っても構わん!」
民間人と兵隊達が間近に向き合い、睨み合った。あたりは急にしんとして、誰もがその場で武器を構えたまま息を凝らした。いよいよ緊張が高まり、もはや衝突は避けられまいと見えたその時、兵隊達の後方から、得体のしれない多数の足音が迫ってきた。
「一時休戦だ。どうやら、ゴブリンどものお出ましらしい。慌てる必要はない。いつもどおり迎え撃って、殲滅するぞ。全員、戦闘配置に就け!」隊長が落ち着き払った態度で厳かに言った。
兵隊達は向きを変え、盾を並べてその襲来に備えた。しんがりが一転して、最前列になったわけだ。二列目以降の兵達は槍を構えてこれを待ち受け、隊長はその中ほどへと移動した。ほどなく、忙しい足音に混じって、何か獣のものらしい興奮した鳴き声が聞こえだし、じき、ランプの光の中に姿を現したのは、ゴリラの上半身に馬の下半身がくっついたと見える何とも異様な怪物だった。
「な、なんだ、あれは? ゴブリンじゃないぞ!」
「と、とにかく防げ、ひるむな!」
同じ怪物が二匹、縦に連なり向かってくる。下半身が馬というだけあって、それと気づいた時には、もう目前に居た。一匹目が、真ん中の二人の盾兵にぶつかり自ら転びながらも、その盾兵二人を激しく突き飛ばした。後ろの兵達はそこをすかさず槍で突こうとしたが、その間もなく二匹目が空いた隙から突入してきて、彼らは文字どおり蹴散らされた。その上そいつは、ゴリラの上半身の太い腕を振るって、周りに居る者達を手当たり次第、殴り倒しはじめた。さらにその間に一匹目も立ち上がり同様に暴れだしたので、兵達にはもう、手の施しようがなかった。
兵達は皆、完全に戦意を失い、各々勝手に背中を見せて逃げ出した。流石に隊長だけは声を張り上げ、これを押し止めようとしたが、誰もそんなもの聞いちゃいなかった。
「あ、危ない。押すな! お、落ちる。アッ、アー!」
逃げる兵達に玉突きに押されて、最も後ろに居た民間人の一人が例の落とし穴に落ちてしまった。
民間人らは怒声を上げつつ、必死になって押し返した。しかし、相手の力はそれより強く、じりじりと後退を強いられるばかり。一人また一人と穴の中にこぼれてゆき、聞くに堪えない悲惨な絶叫が止まず続いた。
「あたしを前に出せ。ゴリラ馬ぐらい、軽く片付けてやる!」兵達と民間人らの境で揉まれて立往生しているティルザが、いらだたしげに叫んだ。
「やめなさい。仮に前に出られたところで、周りが邪魔してまともに戦えやしないわよ。あんたの強さは、素早さを生かして自在に動けてこそでしょ」横で同じく揉みくちゃにされているアリーネが、ティルザの片腕を取って言った。
「でもこのままじゃ、押され続けて、あたしらまでドボンだぞ」
「私を抱えて、あの穴、跳び越せない?」
「……お前の魔法で筋力を増強した上で、充分な助走をつけられれば、あるいは……」
「あの……」
ティルザの背中から声がした。振り向くと、この要塞に入る直前に一言だけ言葉を交わした例の少女が、自分の腰にしっかりとしがみつき、可愛い顔を上向けていた。
「私が渡してあげましょうか、穴の向こうに」
「どうやって?」
「私の魔法で。その代わり、頼みを一つ、聞いていただければ」
「どんな頼みだ?」
「この要塞のどこかに、私の姉が囚われています。助けるのを手伝ってください」
「どこかってどこだよ。こんな物騒な場所を闇雲に歩き回るのは、流石に御免だぞ。そもそもお前、本当に……」
改めて見ても、普通の少女である。少し痩せてみすぼらしく、少女相応に頼りない。そんな大した魔法を使えるとは、とてものこと思えない。
しかし状況が、彼女を信じる以外の選択肢を与えなかった。今や民間人のほとんどが骨すら残さず天に赴き、その門たる穴の口が彼女らのすぐ背中に迫っていた。
「ウッ……わかった、手伝う、ゴホッ、早く魔法を、ゴホッ、ゴホッ……」ティルザが、流れてきた煙の刺激臭に咳き込みながら言った。
少女が、ティルザに抱きついたまま、口をモゴモゴ動かしだした。何やら呪文を唱えているらしい。ほどなく少女は、手にする古い杖の頭をティルザに向けると「スパイダークライム」と声を張り上げ、また同じことをアリーネにも繰り返した。
ティルザはその瞬間、毛の柔らかい刷毛か何かで、全身の皮膚を隈なく撫でられ過ぎたように感じた。思わず「あんっ」と艶めかしい声が漏れ、彼女は我ながらその、らしからぬさに人知れず赤面した。
「私に倣って、後についてきてください」
少女はそう言うと、通路の端に寄り、壁に両手をひっつけた。それから片足を上げ、その脛も壁に当てたかと思うと、もう片方の足をも床から浮かし、その脛も同様に壁に当てた。今や少女の身体は、両手のひらと両脛とで、壁に完全にくっついていた。ティルザはただ唖然として、目を見張った。
少女は手足をこもごも動かし、壁の表面を、重力を無視するかのように這っていった。アリーネがすぐ後に続き、ティルザが慌てて前を追った。背後の兵達の注意は前面のゴリラ馬に集中して、その異様な光景に気づいている者はいないようだった。
壁をつたうティルザの視界は、ほとんど煙に覆われていた。その為、下にあるはずの穴の様子を窺うことはできなかった。しかし、次から次へと人が水に落ちる音とその絶叫は、否が応でも耳を突き、もし今自分に掛かっている魔法が急に切れたらと思うと、流石にぞっとした。
やがて煙を抜けると、古びながらも丁寧に敷かれた石畳の床が再び現れた。少女とアリーネが既に立って、待っている。ティルザも壁から脛を離し、石畳の床を踏み、それから背伸びをしつつ、大きく息を吸い込んだ。
「じゃあ、行きましょう」落ちつく間もなく、少女が言った。
「その前に、さっきの話、詳しく説明してくれ」ティルザが言った。
「詳しくも何も、話したとおりですけど」
「……誰が、何のために、お前の姉さんをさらったんだ?」
「犯人は四人の男で、正体はわからないながら、うち少なくとも一人は魔法を使います。姉はお使いの途中、不意打ちに魔法で眠らされ、この要塞へと連れ込まれました。これが、散々調べまわって、わかったことの全てです。彼らの目的はわかりません。ちなみに姉は、街の教会に勤める修道女です」
「もしかして、あなたと同様に魔法を使えたりする?」アリーネが訊いた。
「簡単な回復魔法程度なら。信者のちょっとした怪我や病気を、時々治してあげてたみたいです。それが何か?」
「いいえ、別に……ところで、あなた名前は?」
「ニナ」です。
角を曲がってすぐの壁に、太いロウソクが燃えていた。かすかに炎を震わせつつ、傍の石壁をオレンジ色に染めている。しかし、明るいのはそこだけで、その先の通路はどこまでも真っ暗だ。ニナがアリーネに向かって、言葉は丁寧ながら遠慮なく指図した。
「灯りを点けてください」
「私もランプ、持ってないわよ」
「そのメイスは何ですか。あなた、クレリックじゃないんですか?」
「そのぐらいの魔法、あなただって使えるでしょ。自分で唱えなさい」
「無駄に魔法を使って、疲れたくないんです。いざという時のために」
「私だって同じよ」
「さっき、助けてあげましたよね。言うことを聞いてください」
「……」
不機嫌な顔をしたアリーネが黙ったまま目をつぶり、メイスを立てて持ち、何か口ずさんだ。メイスの頭に付いた鉄の鈍器が白熱した光球と化し、瞬間、ティルザの目を眩ませた。光はすぐに調整され、その明るさを照明に相応しい程度にまで減じた。それからアリーネはメイスを身体の横に寝かせて持った。その光には指向性があるらしく、特に前方の闇を遠くまで払った。
ニナが先に立って、通路を進んだ。時々分岐に出くわしたが、どちらの道を選ぶにしても、彼女には迷うということが一切なかった。曲がるにしろ直進し続けるにしろ、同じペースですたすたと歩いてゆく。
「道順、これで合ってるのか?」ティルザが不安を覚えて訊いた。
「姉の囚われている場所自体がそもそもわからないので、道順も何もありません」ニナが澄まして言った。
「……もう少し警戒して歩いた方が良くないか? さっきみたいな罠がまたあるかもしれない」
「一応罠だけは、気をつけているつもりです。ちょうどここ、ちょっと怪しいですね。アリーネさん、調べてください」
三人は今、二本の通路が交わる地点に立っていた。アリーネが嫌な顔をしつつ、何か呪文を唱えた。前方と左方のすぐ近くから、それぞれ何かかすかな音が響いた。
「前に進むと、たぶん天井から岩が落ちてくる。左に行くと槍……いえ、もっとずっと小さい……毒針が束になって飛んでくるわね。右は……何も反応なし」感覚を澄ますべく目をつぶったアリーネが慎重な口ぶりで言った。
曲がって少し進んだ所の壁沿いに、部屋の扉が開いていた。通路に灯りが漏れ、何やら人ならぬ者達のけたたましい声が、中から賑やかに響いてくる。どうやら、ゴブリン同士で集まって、彼らなりの団欒のひと時を過ごしているらしい。ニナが振り返って、ティルザに言った。
「一匹、生け捕りにして欲しいです。できれば、賢そうな奴。できますか?」
「生け捕り自体は訳ない。賢いゴブリンを見分ける自信はないけど」
ティルザは部屋に闖入した。不意を打たれたゴブリンらには為す術がなかった。あっと言う間に打ち減らされ、最後の二匹が壁際に追い詰められた。
「どっちを残す?」ティルザが訊いた。
「左」ニナが即答した。
「ちなみにどうして?」
「そのゴブリンだけは、最初から最後までずっと逃げ回っていました。臆病者の方が尋問が捗りやすいです」
ティルザは右のゴブリンを一刀のもとに、文字どおり真っ二つにした。あえて過剰な殺し方を選んだのは、もちろん、生き残りのゴブリンに対する心理的効果を考えてのこと。生き残りのゴブリンは自ら膝を折り、何やらキーキー叫んで命乞いをしはじめた。ニナが目をつぶり、杖を両手で握って、何か呪文を唱えた。
ニナもまた、ゴブリンと同じく、キーキーと耳障りな音を発しはじめた。ほとんど猿の鳴き声のようで、傍には何か言語を喋っているようにはとても思えない。しかし、相手には伝わっているようで、ゴブリンは神妙な顔をして聞いている。やがて、キーキーの応酬が始まり、その会話は三十分ほども続いた。
「何かわかった?」壁に背を付けて座っていたアリーネが、待ちかねたように訊いた。
「はい。そいつが喋ったことをざっとまとめて言うと――元々この要塞には自分達ゴブリンだけが住んでいた。そこに最近、何人かの人間らが潜り込んできた。すぐに追い出してやろうと我らは奴らを襲ったが、逆に強力な魔法で返り討ちにされた。奴らは下の階の奥の一番広い部屋を占拠し、陣取っている。奴らの方から手を出してくることはないので、今では放っている。もし女が囚われているなら、そこだろう。ゴリラ馬については何もわからない。ただ、ゴリラ馬に限らず、猫とコウモリあるいはライオンとアルマジロ等々の、合いの子のような生き物達が現れだしたのは奴らがここに来てからのことで、以前はあんなの居なかった。それとこれとの関係はしらず、いずれ物騒極まりなく、自分達は本当に迷惑している。もっとも、あの合いの子達は何故かどれも短命だ。初め元気に見えても、全て一週間と経たず、病気だか寿命だか、勝手にくたばってくれる。だから自分達はそれらに出くわしても、とにかく逃げ回ってさえいればよく、その点だけは幸いだ。ただいずれ、ここはもう、我らが落ちついて住んでいられる場所ではなくなった。だからお前達、我々にあの街をさっさと明け渡せ」
「ふーん、で、下の階への降り口は?」
「その通路の突き当りを左に曲がってすぐの部屋の奥の部屋。そこに階段があるそうです。他にも幾つかあるらしいですが、そこが一番近いとのこと。なお、手前の部屋の床の真ん中あたりには落とし穴があるそうなので、壁際を通ってください」
「わかった。じゃあ、行きましょ」
「おい、このゴブリン、どうすんだ?」抜き身の剣をぶら下げたまま立っていたティルザが、行きかけたニナの背中に訊いた。
「もう、いらないです」ニナが振り向きもせずに言った。
ティルザの剣が横に走り、ゴブリンの首が床に落ちた。
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