第2話(前半)

 今や街の状況は酸鼻を極めていた。

 周囲で炎が上がり、煙がもくもくと舞っている。その中を老若男女が悲鳴を上げ、あてどもなく逃げまどっている。死体があちこちに転がり、その傍で子供が泣いている。

 既に城門は全て壊され、至るところ、狼藉を働く亜人を見ぬはなかった。一部ではまだ守備隊が抵抗を続けていたが、もとより数の差が甚だしく、その兵数も次第に打ち減らされつつあった。

 ティルザとアリーネが街に出るなり、三匹からなるゴブリンの集団が二人を目掛けて襲ってきた。それぞれ成長期前の少年ほどの背丈しかないが、手に手に短剣を持っている。ティルザは腰に佩いた反り身の長剣を抜き、アリーネを庇うように前に出た。

「ギャ!」「ギュ!」「ギョエ!」

 左右上下に剣を振るい、あっと言う間に切り伏せた。

「ふーん、野蛮人だけあって、さすがに強いは強いのね」緑色の血を流すゴブリンの死体を冷然と見下ろしながら、アリーネが言った。

「てめえ、誰が野蛮人だ。まあ、今は、そんなことより――」とティルザは剣を鞘に戻しながら言いさして、アリーネをじっと見た。

「なによ?」

「その服、まずいな」

 街中で修道服はやはり目立つ。いま襲ってきた亜人どもも、アリーネの衣装に目を引かれたに違いない。

 通りの両側には、様々な屋台が放置されたまま並んでいた。ほとんどが燃やされるか破壊され、その商品が付近に散乱している。

 ティルザはその内の一台へと近づくと、そこの地面に散らばった売り物だった服を何着か適当に拾い集めてきて、それらをアリーネの胸先に乱暴に押し付けた。

「これに着替えろ」

「なんでよ?」

「亜人どもは皆、揃って低脳だが、なぜか金目の物には嗅覚が効く。奴らに凌辱されたくなかったら、今すぐ私の言うとおりにしろ」

 アリーネの修道服は別に特別なものではない。教会の修道女であれば、誰もが等しく身に着けているものだ。しかしそれでも亜麻製で、たいていの庶民が着ている麻の服よりは、一段、質が良い。

「嫌よ、私」にべもなくアリーネは言った。「これ全部、古着じゃない。こんな、誰が身にまとっていたかもわからないような物、気持ちが悪くて着れないわ」

「そんなこと言ってる場合じゃない。いいから早くしろ」

「嫌なものは嫌」

 これを聞いたティルザは何を思ったか、無言のままだしぬけに腰を落としたかと思うと、アリーネの修道服のスカート部分の裾をさっと両手で握り、そのまま上の方へと一気に引っ張り上げ始めた。

「何すんのよ!」瞬時に顔を真っ赤にし、必死にスカートを押さえながら、アリーネが叫んだ。

「言ってわからねえなら仕方がねえ。あたしが脱がしてやる」

「ちょっと、あんた、うそ、やだ、信じらんない! この痴女、変態、だ、誰か、助けて!」

 アリーネの白く柔らかそうな太ももが露わになっている。まだ幼さの残る彼女といえど、さすがにちょっと艶めかしい。

「ヒャッハー、泣け、叫べ! どうせあたしは野蛮人だ。なんとでも言えばいい!」

「ちょっとあなた、ほんとに止めなさい、ふざけ過ぎ! 今また奴らが襲ってきたらどうすんのよ!」

 ちょうどそのとき向こうの角に、一匹のゴブリンが現れた。ゴブリンは太ももを露わにしたアリーネを見ると、明らかに目の色を変えて、こっちに走り向かってきた。心なしか、その股間の布がちょっと膨らんでいるように見える。

 ティルザはアリーネのスカートを掴んだままゴブリンを待ち、間近に迫るやその股間に踵で蹴りを入れた。ゴブリンは悲鳴を上げて悶絶し、泡を吹いて倒れた。

「ほら、わかったろ。その服は無駄に奴らを呼び寄せる。強情張ってないで、さっさと脱げ」

「今のは絶対、服のせいじゃないでしょ!」

「まだ、わからねえか」ティルザは一層、力を入れてスカートを上へと引っ張った。ビリッと生地のどこかが裂ける音がした。

「わかった、脱ぐ、脱ぐ、自分で脱ぐから、もう離して!」

 アリーネは近くの建物の陰に入り、やがて裾の広い褪めた青色のワンピースに着替えて出てきた。

「これで文句ないわね」

「……ああ」

 その服は、彼女によく似合っていた。簡素な古びた服ではあったが、それが却って、彼女自身の器量の良さを引き立てているようだ。これはこれで目立ってしまうとティルザは困惑したが、この娘は結局なにを着たところで目立つのだろうと彼女は諦めた。

「これ、どうしよう?」とアリーネが左手に握った修道服を示して訊いた。

「今はとにかく、ここを脱出することが第一だ。余計な荷物は捨てろ」とティルザは答えた。

 アリーネは「そうね」と小さく言って、それをポイっと道の端へ放り投げた。

 裕福な商家の立ち並ぶ大通りには、既に貪欲な亜人どもが充満していた。二人はこれを避けるべく、路地から路地へと抜けて走った。といって、路地にもやはり、獲物にあぶれた亜人どもが既に少なからず流れ込んできていて、ティルザは、自身自慢のその腕を振るう機会に事欠かなかった。

 今また一匹、横合いの粗末な小屋の壁を不意に破って、コボルトが襲いかかってきた。

「キャッ!」アリーネが身を固くして叫んだ。

「のけ!」ティルザは咄嗟にアリーネを突き飛ばすや、掛かってきたコボルトの犬のように伸びた鼻先に、剣の柄尻を思いきり叩きつけた。

 コボルトは「キャイン!」と情けない声を上げ、鼻を両手で押さえてその場に転がった。ティルザはその脇腹に、容赦なく剣先を突き立てた。

「ねえ、ちょっと休まない」アリーネが軽く息を弾ませながら言った。白い首筋に汗が光っている。ここまでほとんど止まることなく走り続けて、文化系の彼女には流石にしんどそうだ。

「いや、そんな暇はない。奴ら、ハイエナと同じで、死臭にさといからな。これからさらに外から集まってきて、奴らの数はまだまだ増えるだろうよ。だから、少しでも急いだ方がいい。それに出口はもう、すぐそこだ」

 ほどなく、ドヤ街の裏手に出た。その表通りに面して西門がある。ティルザは建物と建物の隙間から、門の辺りの様子を窺ってみた。

「ありゃりゃ……」ティルザは顔をしかめた。

「どうしたの?」アリーネがティルザを肩で押し、代わってのぞき込んだ。

 身の丈、二メートル近くある、皮膚の赤っぽい大きな亜人が三匹、地面にしゃがんで、それぞれ人を食っていた。また、その周辺には、尻や二の腕や太もものあったはずの場所に骨の見えた死体がさらに数体、転がっていた。

「ちょっと、あれ何よ?」

「オーガだ」

「そんなの知ってるわよ。そっちじゃなくて、食われてる方」

「見たまんまだろ」

「グロテスクなもん、見せないでよ」

「お前が勝手に見たんだろ」

「で、どうすんの? 他の門にまわる?」

「いや、ここから行く。他の門前にオーガが居ない保証はないし、幸い奴ら、今、食事に夢中だ。隙をついて走り抜けるぞ」

「そう、うまくいくかしら? いま食われてる人たちだって、たぶん、そうしようとして失敗したわけでしょ」

「……だから、死に物狂いで全力で走れ」

 二人は風下の路地から表通りに出るや、門へと向かって疾走した。その距離、およそ五十メートル、掛かる時間は十秒ほどか。その間、オーガらが、どんなに食事に夢中でも、それに全く気づかないということは流石にないだろうが、要は奴らに捕まりさえしなければいい。敏捷とは言えないそいつらのあいだを抜けて逃げ切ることは、充分に可能なはず。

 果たして、十五メートルほど走ったところで気づかれた。三体ともほとんど同時に顔を上げ、それぞれ、下あごから出た二本の牙を動かし咀嚼しながら、何だろうというふうにこちらを見た。

「見つかった。あたしがおとりになる。お前はそのまま真っすぐ走れ」

 ティルザはそう言うと、走る向きを変え、自らオーガの方へと近づいていった。オーガらは食いかけの死体を手放し、代わりに傍らの得物をそれぞれ引き寄せた。それから、のそのそと立ち上がると、全てティルザ一人に注意を集中し、まんまと門から離れ、彼女の方へと寄ってきた。オーガの知能など、しょせんその程度ではある。

 あっという間に距離が近づき、直近のオーガが、棍棒を持った右手を高く振り上げた。ティルザは走りながら、剣の鞘と柄にしっかり手を掛け、次の瞬間に備えた。オーガの棍棒が振り下ろされ、ティルザはそれを紙一重に躱した。と同時に、相手の懐に入り、下から抜き打ちに剣を振り上げた。

「オギャグアーギャギュアーア!」

 オーガの手首が緑の血を撒き散らしながら、くるくると宙を舞った。ティルザは、のけぞり苦しむオーガを尻目に、走る向きをまた変え、門へと向かった。

 三匹のオーガが次第に遠ざかる。前方のやや右の辺りをアリーネが必死に駆けている。足の速いティルザと並みの運動神経のアリーネとは、ちょうど門の直前で合流した。

「い、息が……」

「もう少しだ。がんばれ」

 門は、かんぬきを壊され、完全に開ききっている。あとはただその堺を突っ切るばかり。

 その時、門の陰から不意に、薄緑色した巨人がその半身を現した。二人は驚き、急停止したが、避ける間もなく、それの右フックが、アリーネ目掛けて飛んできた。

「危ない!」

 ティルザは咄嗟にアリーネを庇って、自らの身を投げ出した。左脇腹に直撃を受け、五メートルほど吹っ飛んだ。気絶しそうな痛みをこらえて何とか立ち上がると、目の先に二メートル半はある巨大なオークが立ちはだかっていた。

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