落魄聖女の逃避行録

小鷺田涼太郎

第1話

 アトロポシア市国の四囲を巡る城壁に、ゴブリン、オーク、コボルトらの入り乱れた大群が押し寄せている。城壁の上に立つ兵士らは、あちこちと走り回っては、弓を射たり、石を落としたり、梯子を蹴倒したりしているが、多勢に無勢でまるで対処が追いつかない。亜人らの数は既に一万をゆうに超え、さらにまだなお新手が四方から集まり来つつあった。

 そもそも、このアトロポシアに大軍が襲ってくる想定など、誰もしていなかった。というのも、ここはもともと、この大陸の隅々にまで普及しほとんど全ての人々が信仰しているマドゥーカ教の総本山として形成された宗教都市であり、普通の人間はそれを侵そうなどという罰当たりなことはまず考えない。仮に、誰か狂った諸侯が現れ、そんなことを行おうとしても、その兵隊は破門を恐れ、彼の命令には一人も従わないだろう。実際、この市国の四百年に渡る歴史において、どこの国のものであれ軍隊に攻められたことなど一度も無かった。

 といって、もちろん、亜人どもにとってはマドゥーカ教の権威など知ったこっちゃなく、現に今こうして襲われていることを思えば、この街の人間たちはあまりに迂闊だったといえるかもしれない。しかし、知能の低いそいつらが協同して攻撃してくるなど、一体なんぴとに想像できただろう。この都市の陥落は時間の問題であった。

 そんな混乱の中、腰に剣を佩いた一人の若い女が、街の中心にある大聖堂の中の豪壮な謁見所において、今まさに時の教皇マッカローンティヌス十三世の御前にぎこちなく跪いていた。彼女の名はティルザ。この街に少ない女剣士の一人で、ここへ参上したのは自身の所属する傭兵ギルドの指示を受けてのこと。

 しかしまさか教皇に目通りさせられようとは、本人も思っていなかった。一介の下層民に過ぎない彼女には分に過ぎたことで、この非常事態下でなければ起こりえなかったことだ。

 もっとも、彼女がこれを喜んでいるかといえば、そんなこともない。これまで厳しい環境の下、教育などというものとはまるで無縁に生きてきた彼女には信仰心はなく、教皇の偉大さというものもよくわからない。その点、今この街の城壁に取りついている亜人どもと変わりがないと言って言えなくもない。いずれ、至尊を前にして、一応頭を下げながらも特に臆する気持ちは彼女には無かった。

「あなた、お一人ですか?」教皇の傍らに立つ老修道女が何の挨拶もなく、いきなり咎めるように言った。

「はあ」足下の緋色の絨毯に視線を落としたままティルザは答えた。

「しかもあなたは、女じゃありませんか」

「だったらなんだよ」

「なんだよって……」

「あたしのことが気に入らないなら、キャンセルすれば。別にあたしは構わないぜ」

 ティルザの聞いている依頼の内容は、この教会に関係するある人物をこの都市から脱出させること。老修道女からすれば、女一人だけの護衛に心もとなさを感じるのもやむをえまい。

「他に誰か、もっと屈強な男を寄越してちょうだい」

「それは無理だろうな、時が時だし。他の奴らはみんなとっくに、城壁の守りに駆り出されてる」

「ああ、それでお茶を挽いたあなたが――」

「ざけんな!」ティルザは急にすっくと立ち上がると、老修道女を鋭く睨みつけた。

 立つと意外と大きく、並みの男と変わらぬ背丈をしていた。細く締まった身体つきをして、腰の位置が高い。埃に塗れた顔は整いながらもまだ成熟しきってはおらず、年の頃は十六、七といったところか。

「これっ、御前ですよ。控えなさい」老修道女は両手を慌てて上下させた。

「いいか、よく聞け。あたしはギルドの稼ぎ頭で、剣においてあたしに勝る者はいない。だからこそ、特にあたしが選ばれて、ここへ寄越された。そこは間違えるな」苛立ちを表したティルザの高声が、天井の高い広い部屋に響き渡った。

「わかった。君に任せよう」それまで黙っていた教皇が、半白の豊かな髭の中から重々しく声を発した。「時が惜しい。アリーネを連れてきなさい」

 不満な顔をした老修道女が渋々といった様子で部屋の入口まで歩いてゆき、外に声を掛けると、ほどなく、付き添いに連れられて、華やかな雰囲気のある可愛い少女が現れた。

「お呼びですか、お父様」澄んで良くとおる綺麗な声がした。

 肌が白い。小柄で腰が細い。他の修道女らと同じ服を着ているが、頭巾は被らず、栗色の長い髪をレースのリボンで後ろに纏めている。年齢はおそらくティルザより二、三歳下といったあたりか。

「事態は聞いておろう。お前はここから早く離れなさい。そこの彼女がお前を守ってくれる」穏やかな口ぶりで諭すように教皇が言った。

 少女は顔を動かすことなく、視線だけをティルザの上にちらと移すと、せっかくの可愛らしい表情を一変、意地悪くしかめ、

「なんですか、この小汚い女は?」

「なんだと、てめえ!」

 ティルザの着ている無染色の麻のチュニックは襟がよれ袖はほつれ、同じ色の長ズボンは両膝共に五百リブラ白銅貨ほどの穴が空いていた。しかしどちらもほんの一月程前に洗濯したばかりであり、それが汚いはずがないとティルザは思う。ティルザ自身にしても、つい先週の今日、風呂に入ったばかりで、少女の言葉は彼女にはひどく心外であった。

「こんな下賤の者と一緒に逃げるなんて、私、まっぴら御免こうむりますわ」

「これ、失礼であろう」教皇は少女を叱りつけると、ティルザの方に向きなおり、さすがに恐縮した態で「申し訳ない、御仁。これは儂が年取ってから初めて授かった子供でな。あんまり可愛ゆうて、つい甘やかし過ぎて育ててもうた。結果、このざまで何とも面目ない」

「ひどい、お父様。私のような人格、教養共に優れた淑女を捕まえて、その言いぐさはないでしょう。あまりに不当で失礼ですわ。いいえ、そんなことより、お父様はどうなさいますの? 逃げるなら私と一緒に――」

「そういうわけにはいかん。儂は教会の最高指導者であると共に、このアトロポシア市国の元首でもある。それがまさか、その民より先に逃げ出すわけにはいくまい」

「そんなことおっしゃったって、このまま、もたもたしていたら――」

 そこへ、ノックも無く突然勢いよく入口の扉が開き、見習いらしい年端もいかない女の子が狼狽の色もあらわに駆け込んできて、緊急の伝言をもたらした。

「東の門が破られました。ゴブリンどもは町々を荒らしまわりつつ、ここへも近づいています」

「ああ」と老修道女の嘆声が漏れる。

 教皇は「うむ」と荘重にうなずくと、身体をティルザの方に向けなおした。

「御仁、名前は?」

「ティルザ」

「ティルザさん、アリーネのことをよろしく頼む。安全な場所まで逃れ出られたら、あとはどこでも手近な教会に飛び込んで保護を求めてくれ。マッカローンティヌス十三世の娘と言えば、悪いようには扱われまい。では、急かして悪いが状況が状況だ、もう行ってくれ」

「嫌ですわ。私もお父様と一緒にここに籠ります」アリーネがすかさず口を挟んだ。

「馬鹿者!」

 教皇の口から突如として、烈火のごとき怒声が発せられた。これまでの穏やかな様子はどこへやら、まなじりを引き上げた表情が恐ろしい。アリーネも老修道女もちょうど部屋を出かかっていた見習いの女の子も一様に肝を冷やし、縮みあがった。

「考えてもみよ。もし、儂とお前が共に死んでしもうたら、どうなる? 教皇位はピッツァータウフェン家のジェラートゥス六世へと移る。奴がどんな人間かはお前も知っておろう。我が教会を金集めの道具としか思っていないような男だ。あんな破廉恥漢を教皇にしてはいけない。信者たちの災難を思うと忍びない。お前は生きよ。そして我が教皇位を必ず継ぎ、すべて信者の為に尽くせ」

「……お父様は、やはり、死ぬ気なのですか?」アリーネの身体は小刻みに震え、目には涙が滲んでいる。

 教皇は表情をやわらげて、

「まさか。ただ、万一のことをおもんぱかってのことだ」

「でも、亜人どもは必ずここにも押し寄せてきます。それをどうして防ぎえましょう?」

「なに、儂らには神のご加護がある」

「うそ、そんなものが何の役に立ちましょう」

「これ、そんなことを言ってはいかん」

「でも、でも……」

「あの、行くなら早く行きたいんだけど、もう、いい?」白けた顔をしたティルザが、片足を引き、アキレス腱を伸ばしながら口を挟んだ。

「あなた、この悲壮な場面を前にして、何も感じないの?」目から涙を溢れさせた老修道女が咎めるように言った。

「いや、確かに、ぐずぐずしている時ではない。アリーネよ、さあ、もう行け」教皇が声を励ました。

 アリーネは教皇と短い抱擁を交わし、別れの言葉を告げた。そして、侍女から長い紐の付いた巾着を受け取り、肩から斜に掛けると、あとは振り向くことなく、さっさと部屋を出て行った。思いのほか、いざという時の思い切りは良いらしい。

「あとは任せて」

 ティルザは教皇に軽くそう言って、すぐにその背を追った。

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