第14話 大嫌いな「合唱コンクール」が……

ついに、ついに……。

臨時採用の代替教員を長い間続けていた北田先生は、20代の最後になってようやっと採用試験に合格させてもらえた。


「臨採教員の新記録かも知れませんね」

そういう私の照れ隠しの言葉に

「いやいや北田さん、前にいた学校に来てた女性の先生はね、12年だよ。今年も、まーだ代替えやってるから。大学卒業してから12年だよ。今年でさ……。おっかしいよねー!臨採で担任やらせておいてさ、試験には合格させませんって、あんた……。委員会の奴らもよ、何にも考えてないんだべなー。……その時の校長なんてさ、面接選考委員の一人だったはずなんだぞ」


同じ学年に所属していた年配の先生は合格を喜んでくれた。それでも喜んでくれてはいたが、それをきっかけにして教員採用や学校運営に対しての不満を長い時間かけて話すことになった。

確かに、自分も何回か担任を経験しているのだ。試験に合格できていない……正式の教員ではないのに他の教員と同じように学級担任を受け持っている。この事実をどう考えればいいのだろう。教員養成系の大学を卒業しているので教員免許は持っている。だから……それはそれで問題ないことなのだろうけれど、その一年だけで契約は切れてしまう。

保護者にもそのことを指摘されたことがあるのだが、自分では何も言えるはずがなかった。いくつかの学校では教員組合を中心に校長に交渉をしてくれたところはあった。でも、自分としては担任であった方が楽しみを感じられてよかったのだが、その後のことも考えてみると何かやりきれない思いを何度も感じることになっていた。


この先生は50代のベテランで生徒たちにも保護者にも丁寧に接しているのでみんなに好感を持たれている社会の先生だった。自分と同年代の先生たちが次々に管理職になっていく年代になっても全くそんな気持ちを持たない先生のようだ。

「だってさあんた、管理職になったら授業できなくなるんだよ。担任だって持つことなくなるしさ、生徒以外の大人とかかわることばっかりの生活なんかさ、学校の先生やってる意味ないべさ……」

そんな先生だった。確かにこの先生は授業も楽しんでやっているし、休み時間に生徒たちと話していたりじゃれていたりする姿が本当に楽しそうで、ちょっと漫画の一場面と言うか、映画のワンシーンを再現させているような……。北田先生はそんな姿をうらやましく感じることもあった。


いやそれでもとにかく、晴れて中学校の「本物の」先生、「正規の学校の先生」として新たな学校に赴任できることになったのだ。毎年のように新しい学校に赴任しては、一年後に離任するという繰り返しから逃れられる日が来たのだった。

それでも、何年もこんな中途半端な生活をしていた北田先生には、他の先生たちでは感じることのない特別な経験をしてきたので、それなりにいろいろ気づいていることもあった。


大学を卒業してすぐに採用され、定年まで勤めあげる先生たちは、全部で5校から7校位を経験して定年を迎える人が多い。でも、北田先生はもうすでに6校の中学校を経験していた。長いところで2年。1年に二校という年もあった。

そんな中で、着任式や離任式で聞くことが多かった校歌斉唱(校歌が合唱になっている中学校もあった)が、その学校の「雰囲気」を象徴するものであることに北田先生は気づいていた。

校歌斉唱の質はその学校の「生徒の質」を表していることが多いのだ。歌としての上手下手よりも校歌を歌い上げる全校生徒の取り組む姿勢。歌える一部の生徒だけではない全員の声。練習の成果がうかがえる習熟度……。そのすべてが時間をかけて取り組まなければ実現できないことばかりであるし、それは生徒の努力以上に先生たちの意識と実践の積み重ねの現れでもあった。


そして、その歌う姿は合唱コンクールへと結びついていた。


初めて正式な中学校教員として赴任した学校は合唱に力を入れている学校だった。


北田先生が代替え教員としてもがいていた1970年代後半からから80年代は、校内暴力など学校の荒れが問題となった時代だった。そして、札幌市内の中学校では合唱コンクールが荒れた学級をまとめ団結を深める取組として流行していた。実際に、荒れた学校を合唱で立て直したと言われる中学校が同じ地区にあり、「Nコン全国大会」で金賞をとったことで大きな注目を浴びていたのは知っていた。

「荒れた学校を合唱で立て直す」そんなことは信じられないと思う人もいるでしょう。でも、合唱に限らず生徒の目が同じ方向に向かって動けるようになると、一人一人の生徒たちは自分を大切にする以上に仲間を大切にしだすものです。それはたとえは良くないけれども、悪いことを集団でやってしまっている仲間達も同じ風に仲間を守る行動をするのと似ているかもしれません。


まあそれはともかく、学校教育ではクラス対抗合唱コンクールが集団の団結や人間性の育成に資すると広く捉えられるようになり、中学校ではクラスの団結力を高めるための重要な行事として、多くの学校で実施されていたのです。

北田先生が新しい赴任先で初めて聞いた校歌はなかなかの出来栄えだった。20学級900人ほどの生徒たちが体育館に集まり歌い始めると、その声の圧力は大変なものだ。かまぼこ型の体育館の屋根に吸収されることもなく、ステージ上の新任の先生たちを圧倒した。

その後の校長室での話は、その歌声を自慢する言葉が多く使われ「合唱コンクール」もなかなか素晴らしいんですよという言葉で終わった。


正直な話、合唱コンクールは嫌いだった。

北田先生は人前で歌うことが得意ではなかった。どうしても恥ずかしさから抜けられなかった。ちょうど大学生から社会人になるころにカラオケがはやり始めた頃なので、たまに行く飲み会でも、人前で歌うことが増えてきたころだった。そんな時にはできるだけ歌わないで済むようにマイクを避け続けていた。


そんな北田先生が実は田舎の小学生だったころ、合唱の応援部員として今では「Nコン」として有名になった、NHK音楽コンクールに出場したことがあった。小学生の頃から大柄だったので、他の子とは違った低音の太い声が大きな戦力(?)になると思われたものらしい。

「あらー、北田君いい声してるわねえ!」

そう言う音楽専科のおばさん先生に褒められて、その気になってしまったのが大きな間違いだった。練習ではよくわからないことをいっぱい教えられて札幌の会場までやって来た。


 合唱団の一員としてステージに上がったのは初めてで、そこは予想以上に大きな会場だった。しかも思いもしなかったたくさんの観客がいる大きな大会だということに気づいた時にはすっかり舞い上がってしまっていた。歌が始まってもいつもの練習のようにはいかず、自分のパートの音なんかすっかり頭の中から飛んでしまっていた。最後までそんな調子で見事にハーモニーを崩して終わってしまった。そんな小学校五年生の時以来合唱は大きな壁になってしまっていたのだ。

中学三年生の時に新しくやってきた音楽の先生が「新しい流れに乗りましょう」と言うことで、私の中学校では初めてとなる「合唱コンクール」を三年生だけ実施することになった。その時も北田先生はうまく流れに乗り切れない生徒の代表になっていたのだった。


でも、やっぱりふつうに歌を聴くことは嫌いじゃなかった。

中学生の頃はちょうどアイドルたちの出始めで、北田先生は南沙織のファンだった。「ともだち」だとか「潮風のメロディー」とか思春期の自分にしみる言葉の歌詞が好きだった。フォークソングの流行期でもあったので、テレビやラジオから流れる歌には敏感に反応する普通の中学生の一人だった。けれども人前で歌うとなると自意識の高まりと、あの小学5年生の時の「トラウマ?」もあって極力避けて来たのだった。


正規採用の教員として勤め始めたこの年の秋、最初の正式な教え子たちと取り組んだ合唱コンクールでは、生徒との間に大きな溝を作ってしまった。


この年北田先生は4月からすべてのことに臨採だった今まで以上に意欲満々取り組んできた。少なからず全くの新人ではないのだから、今までの経験値を発揮してやろうと入れ込んでしまっていたかもしれない。自分が人前で歌うのが好きではないくせに、生徒に無理に歌わせようとし続けてしまった。野球部の生徒に対しているのと同じ感覚でやってしまったのだ。彼らは野球をしたくて集まって来た仲間なのだから、ちょっとくらい命令されたって、厳しいことを言われたって当たり前に感じている。でもそれは、学級の中にいるいろんなタイプの生徒すべてにあてはまることではない。


春の着任式で聞いた素敵な校歌の歌い手である二年生や三年生と同じように、この一年生たちも素敵な合唱をしてくれるのだろうという勘違いが招いた結果だった。あの生徒たちは長い時間をかけて指導され、上手に意欲を刺激され、合唱に対する意識を高められ……。この学校では、音楽の先生だけではなく学校全体の努力の結果として素敵な校歌に仕上げて来たのだということが分かっていなかった。


「雰囲気の良い学校にこられてよかった」

そういう単純な思い込みは間違いで、すべて教員たちの努力の結果だということに気づいていなかったのだ。

今までとは遠く離れた地域の学校に赴任したため、地域差による生徒たちの質の違いだとばかり思っていたのは大きな間違いでしかなかった。与えられたものが違うのではなく、積み重ねられた努力の違いだったのだ。そして、自分の合唱への取り組みはその努力を無にしてしまうものだったかもしれない。


この学校で7年目を迎えるという中野先生は体育の先生なのだけれども、中学になって初めて経験する合唱に対して、生徒たちの参加の仕方をうまく組み立てていたので、一年生ながら素敵な合唱を聞かせてくれた。そして他の学級の先生たちもやはりそれなりの歌に仕上げていたのだ。

合唱コンクールの結果としては「完敗」だった。その時の学校ではコンクールとしての賞決めを「金賞・銀賞・銅賞」と設定していた。7クラスある中で金賞は1学級か2学級。他は銀賞ということが多いのに北田先生のクラスは銅賞だった。「どうしょうもない!」と言われていた銅賞だった。


この屈辱が北田先生の合唱に対する意識を大きく変えてくれた。いやな思いをさせてしまったクラスの生徒達の結果発表時の表情と担任を見る目がいつまでも頭の中に残ることになった。もう二度とこんな思いをさせてはならないと自分に言い聞かせた。

合唱をコンクール形式にするべきじゃないという先生方がたくさんいた。何でもかんでも競わせる必要はないという考え方だ。歌だから楽しめばそれでいいんだ、ということを強く主張する先生たちも少なくはなかった。実際「合唱発表会」という名称にして順位をつけない学校もあったのだが、それはすぐに破綻してしまった。


「お互いに良い部分を認め合う会にしましょう!」

そんな素敵な言葉(?)で開催されたものの、全く良い発表にお目に掛かれなくなってしまった。それは、生徒たちが何が良い発表なのかわからい状態で互いを褒めあう会になっていたからだった。次第に意欲もなくなり適当な時間つぶしに近い取組になってしまった。

コンクール形式を嫌うことのひとつの理由は担任を務める先生たちの精神的及び時間的負担の軽減の意味をも持っていた。学級対抗はいわば担任対抗でもあった。担任の力量を比べられることへの拒否の意味もあったのではないかと北田先生は思っていた。

 

北田先生は初めての合唱コンクールで大いにこけてしまったけれども、競争する意味はあると思っていた。ビリになったらビリになった理由があるわけで、それが自分たちの次の課題になるものなのだから、うまくいかないのに褒められても何にもなりはしない。陸上に夢中になっていた学生時代はそん失敗とそのことへの対策練習の繰り返しでしかなかった。そして少しずつ課題が解決され結果に結びついていく。その評価、つまり残された記録や結果という比較された数字や順位が競技を続ける唯一の意欲の喚起になるしかない。


合唱だって他のことだって同じだろう。ダメなことがあるから次に向かえる。それがわかる方法はどうしても競争になるしかないのだ。運動会で手をつないでゴールすることで順位をつけないことが理想的だなんて、人間性を無視した発想で人としての発達を阻害してしまいかねないと強く思っていた。中学生という多感な時期に競争で劣等感を負わせる必要はない、という「子供に対する大人の論法?」が幅を利かせていた学校もあったが、それは全くの逆でしかない。中学生という時代だからこそ自分を知る機会が必要なのだ。


失敗して見失いかけている道を正しい方向へ導いていくのが教師の役割なのだから。


北田先生は、いろいろな先生たちの指導の仕方を夢中になって探ることになった。


「行事は生徒だけの手で進められることが一番大事なのだ」

そういう考えが一部の先生の間では重要視されていた。結果はともかく、生徒だけで進めているからいい活動だったという考え方だ。でもそれは違う。それではうまくいくはずがない。生徒の手で進めるためにはその以前に必ず大人による枠組み作りが必要になる。

生徒会活動であれ何であれ、生徒を前面に出して行われているような活動も、実はその裏で関係する先生方の下準備が徹底的に細かなところまで組み立てられているからこそ成功するのだ。その事実を知っているかどうかは教師として生徒とともに活動するための忘れてはならないことのはずだ。

子どもたちに任せて先生はそれを見守るだけにする……。言葉にすればそうかもしれないが、その本当の意味をちゃんと理解すべきなのだ。自分たちだけでやってみた。あんまりうまくいかなかったけど、自分たちだけでやれて偉かったねと褒められた。そんな感覚で次へ向かう大きな力が生じていくだろうか。良いものを完成させられたという満足感は得られないだろう。


やはり最終的には、良いものを完成させられる。そういう道筋を作ってやるべきなのだ。


先生の独断に陥ることなく、しかも生徒に任せきりにせず一緒に活動に夢中になること。

「生徒の活動だから生徒に任せればいい」

「それは先生としての楽しみを捨て去ることでしかない」

それが北田先生の学校の先生としての基本姿勢だった。言い換えれば先生としての生きる道だった。

「生徒と一緒に苦労するから先生としての楽しさもあるし、生徒との一体感も生まれる。それがあるから学校の先生としてやっていけるんじゃないの」


子どもじゃないんだから、大人としての先生なのだよ、という先生たちもいた。

「生徒と一緒に困り、泣き、笑い、苦労する。それだから生徒も先生も中学校生活は楽しかったといえる」

北田先生はずっとそう考えていた。それが自分自身の学校の先生としての生きがいでもあった。


ところで、ダメだった合唱の取り組みである。何年もかかってわかってきたことはあった。

技術的には野球を教えるのと同じことだと気づいたのはずっと後になってからだった。できない部分を徹底的に分習させることなのだ。そこでは妥協をしない厳しさを実行するのだ。


それを教えてくれたのは次に赴任した学校の英語科の先生だった。

和泉詩(いずみうた)という純日本風な名前のこの女性の先生は、今で言うとアラフォーと言う年代だろうか。背の高い独身の先生だった。少し遠くの区に住んでいたけれども、車の免許を持たないので毎日バスで通って来ていた。小さなショルダーバックを肩にかけ、いつも季節感たっぷりの服装でモデルのような歩き方をするので女子生徒の憧れの先生でもあった。登校時間が一緒になったりすると、必ず何人もの女子生徒が一緒になって校門をくぐっていた。帰りも学校で仕事をしていくなんてことはなく、定時になるとすぐに帰宅準備をする先生だった。それなのに授業準備を怠ることなどなく、生徒達にもわかりやすい授業だと評判が良かった。


この先生が担任する学級は毎年合唱コンクールで金賞を受賞する。金賞の中でも最優秀賞と言う名称の一番になることがほとんどだった。彼女の学級はいつでも、誰が聞いても一番にふさわしいと納得するような素晴らしい合唱に仕上がっているのだ。三年間同じ学年になり常に負け続けていた北田先生は、和泉先生(うた先生と皆には呼ばれていた)に頼み込んで練習する場面を見せてもらうことにした。


「詩先生、練習の秘密盗みに行っていいですか?」

そんな照れ隠しの言い方しかできなかったのは、劣等感と共に北田先生の負けず嫌いの現れだったかもしれない。

「あらーっ、北田先生も頑張って指導してるみたいじゃないですか。去年もいい歌に仕上げてたのに……。そう、良いよー。それじゃねー、生徒も一緒に連れてきて。学級同士の交流会ってことにしましょう。でも、うちの学級の音楽室あたってる時間はダメだからね。放課後の時間帯の教室でね。うちの練習するところからやるので、北田先生のところは来る前に発声なんかやって来てちょうだい。……うーん、それでいいかな?」

詩先生はちょっと迷惑そうな言い方をしていたが、この際そんなことは無視して押しかけることにした。

「お願いします」

と言うことでその日すぐに生徒に伝え押しかけてしまった。生徒たちは行くのをためらって嫌な顔をしていた。いつも自分たちより上にいる学級に行きたくなかったし、発表会当日まではライバルに自分たちの歌を聞かせたくなかったのだ。もっとも本当に本当のところは、強敵に自分たち以上の力を見せつけられそうでビビっていたのだ。


詩先生の学級に入っていくと、すでに椅子と机でひな壇を造り発声練習をしているところだった。教室の後ろの掲示板には歌詞カードを拡大したものを一面に貼ってあった。そこには歌詞だけではなく、強弱の記号からパートごとのポイントになる部分や共通して合わせる部分等々が、色分けして細かすぎるくらいにびっしりと書き込んであった。このクラスには授業に行っていなかったので初めて見たその歌詞カードの完成度の高さにまず驚いてしまった。生徒たちも皆驚きの表情を隠すことなく少しざわついてしまった。休み時間などに教室を覗くときには張っていなかったので、練習時間だけ張るものなのだろう。この日以前に生徒が見ていたら、パートリーダーたちが間違いなく真似していたはずだ。


歌の練習が始まり指揮者が右手を掲げた。彼の手には本格的な指揮棒が握られている。この学校では合唱に指揮棒を使うのが伝統になっていて、学年の活動費で全学級購入することにしていた。北田先生が経験してきた他の学校では指揮棒を用いないところの方が多かった。Nコンなどの大会でも合唱には指揮棒を使わないのが一般的なようだが、この学校では生徒たちのやる気を盛り上げる一環として指揮棒を用意させていた。合唱が終わってしまうと記念に指揮者にあげてしまう学級もあって、合唱に取り組んだ中学校生活の思い出の一つになっていた。


床、椅子の上、机の上と三段に立ち並んだ生徒たちが指揮者に正対し、全員の目が指揮棒に向かい伴奏の曲以上に指揮棒の動き出しに集中し始めた。と思ったとこで、詩先生が口を開いた。

「はい止めて!……。指揮者!見えてないよ!……もう一回」


見ていたうちの学級の生徒たちはなぜ止められたのか分からずにいた。確かに、うちの学級の練習だったらそのまま進んで行ったのだろうが、三段に並んだ生徒たちの中で指揮棒が上がってから目を伏せて何かを気にしていた生徒がいたのだ。

指揮者がもう一度右手を上げようと動くと、再び詩先生が声をかけた。

「ほらまた、黙って繰り返してもなんだかわからないって。指揮者はコンダクターって言うんでしょ。コンダクターって言うのは仕切ったり案内する人のことだったよね。次に何が必要なのかちゃんと案内しなきゃ。またおんなじになるよ。しっかりしきりなさい」


英語の授業で詩先生の優しい語調になれている生徒たちは驚いていた。授業の時とは全く違う話し方なのだという。


「……僕の指揮棒が動いたら、目線はここから外さないでください。伴奏の音楽よりちょっと先取りして動かすのでタイミングを掴んでください」

全員が頷いた。それを見届けた指揮者がもう一度指揮棒を頭上に動かした。全員の目が一点に集中しているのを確認してから左手でピアノに合図をくれた。指揮棒が動き出し、歌いだしのタイミングをしっかりとってアクセントをつけたように指揮棒が振られていた。出だしの音がそろった。

「ハイ!」

また詩先生の声。


「楽譜を見てください。出だしの強さはどんなだった? mfだったよね。今のがmfだったら、山場のfはどんくらいになると思う?静かな静かな合唱で終わりたい?」

何人かの生徒が首を振った。

「ヤックンの指揮ももうちょっとタメてやらないと……。えーとね、ピアノでマリアの音階やって」

そこから発声練習になった。

「ラララでもう一回やろう」

指揮者も一緒に声出しをして、そこからもう一度歌が始まることになった。他のクラスの生徒がたくさんいる中で詩先生も生徒たちも見せるためじゃない「本物の練習」をしていた。うちの学級の生徒たちは面食らっていた。こんなにも厳しいことをやっているのかという驚きを目に表していた。


指揮棒の動きに見事に乗った合唱だった。しかしそれ以上に詩先生は頻繁にダメ出しをして歌を止めた。

「アの口の形!」

「フはちゃんと息を吐いて。目の前のろうそくを消すんだって!」

「ブレス小さい!」

「あご動かないと言葉にならないよー」

「指揮者そこもっと持ち上げてー!」

「小さい声は弱くするんじゃなくて、力いっぱい力込めて小さく歌うんだったよねー」


生徒たちは立ちっぱなしで約40分の練習時間を使い切った。本来は交流会のはずだったがうちの学級の生徒たちが歌う時間はなくなってしまっていた。詩先生のごめんねという言葉に、北田学級の生徒たちはかえって救われたような気持になっていた。すっかりこの練習風景に圧倒されてしまっていたのだ。自分たちのいい加減な練習に恥ずかしささえ覚えていたようだった。


この日から北田学級の生徒たちの意識は見違えるように変わっていった。もちろん北田先生自身の合唱練習に対する考え方も大きく変化することになった。残念ながら中学校三年生にとっての発表する機会は一度しかないので、この一回だけの経験ではうまくいくはずはなかった。部活動の指導でも同じ感覚になることが多いのだが、自分がしっかりと指導しきれなかったすまない思いを北田先生は感じていた。けれども対象が彼らではなくなってしまうけれども、その後に活かせるようになることでこの思いを変えていくしかなかった。


この年を最後に10年務めたという詩先生は自分の居住区に近い学校へと転勤となった。

「今度の学校ね、給食を実施していないのよ。札幌市内では珍しいんだよね。がっかり!」

「弁当なんですか?」

「なんかね、弁当持っていく先生はごくわずかで、多くはね何人かでまとまって日替わり弁当を届けてもらうんだって。困っちゃうよね。今までずっとおいしい給食いただけたのにねー。北田先生だったら最悪の学校でしょ、きっと」

「そうっすね。給食ない学校だけは勘弁してほしいですね。給食大好きですから僕!」

「うん、でもね、聞くところによるとね2年後には給食実施校の仲間入りする予定らしいんだ。だから、北田先生も何年かしたら移動して来なさいよ。また、一緒に合唱練習しましょう」


「いやー、ほんとにまたお願いしようと思っていたんですよ。でも、詩先生はなんであんなに合唱詳しいんですか?合唱部かなんかでした?」

「あら、勉強熱心な北田先生らしくない。合唱だって学校祭だってね、授業と同じで生徒が始める前に先生が下準備しなかったら始まらないでしょう。授業準備いっぱいしてるでしょ、先生も」

「全部自分で、ですか?」

「もちろん!……北田先生って授業の時計画表見ながら進める?」

「いや、そんなの見てたら生徒の反応が見えなくなりますから」

「でしょう!それと同じだと思うよ。生徒の反応見ながら、自分たちの目指してる完成形に近づけるためにはこうだなって、考えながら進めるでしょ授業も。だから、下調べしておくの!」

「合唱曲全部覚えちゃうってことですか?」

「夏休みがちょうどいい時間でしょ。音楽の先生に早めにテープ借りておけばね、パートごとの音もつかめるでしょ」

「パート全部覚えてるんですか?」

「もちろんでしょう。パートの音知らない、歌のポイント知らないじゃ指導もアドバイスもできないじゃない」

「毎年違う合唱曲ですよね?」

「毎年違う曲を覚えられるってね、大変そうな言い方に聞こえるけど、かえってね楽しみじゃない?そんなに何年も担任してられないんだからね。新しい歌を覚えられるんだよ。学校の先生だけだよ、こんなことできるの」


詩先生は新しい学校へ赴任して担任を外れてしまった。その代わり新しく導入する予定だという給食の準備委員会の主任になったと喜んでいた。本当は合唱から離れたことが残念だったようだけれど、新しいことになんでもポジティブに向かって行ける先生だった。残念ながら再び一緒の学校になることはなかったが、詩先生はその後定年まで担任を持つことはなく、ずっと独身を通して生徒と楽しい英語の授業時間を過ごしたと聞いた。


和泉詩先生から受けた影響は大きかった。そして、合唱創りはいろいろな工夫以上に学級集団としてのムードを盛り上げることが最も大切なことだと理解することになった。つまり合唱を成功させるためには、学級づくりが基本になっているのだということにようやく気付いたのだった。

そして、自分自身の合唱に対しての下準備を熱心に進めることが楽しみになっていた。詩先生との合同練習が不成立に終わった次の年から他学級との交流をすることで互いに刺激しあうことにすると、他学年の先生たちにも好評となり、その学校では合唱練習の仕上げ時期になると他学級との交流をすることが一般的になっていった。そして当然のように学校全体の合唱レベルは高まっていった。


その後、「時の旅人」 「コスモス」 「走る川」 「手紙」 「樹氷の町」 「川」 「筑後川」 「虹」 「さくら四部合唱」

等々、取り扱うことになった合唱曲も数多くになった。歌っていて楽しい曲、難しいけれどチャレンジしてみたい曲、歌詞の世界に入り込んでしまえる曲など、それぞれの学級の状態に合わせていろいろなパターンを選べるようになっていった。選曲にはもちろん生徒たちの意思が最優先されるのだが、自分の中の曲のレパートリーが増えることは、その時の生徒の実情に合わせて選択を絞り込んであげられるようになることでもあった。

当然合唱曲選びの時期が近づくと、学校への行き帰りに車のカーステレオからはそれらのパートテープの音が必ず流れるようになった。そして、北田先生は「生徒の誰よりも早く対象曲を歌えるようになるぞ」という意気込みに燃えることになるのだ。


 「合唱コンクールは好きではない」

そう言って来た北田先生だったが、学校祭と合唱コンクールが大好きで毎年待ちかねる先生に変わっていた。生徒達からも、「北田は合唱と学校祭になると目の色が変わるから……」と言われることになった。


もちろんそれは北田先生にとっては最大の誉め言葉に聞こえていた。

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