第13話 「笑われる」ということ

ある年の陸上競技大会。相変わらず臨時採用教員として赴任した学校でのことである。


北田先生は何年振りかで円山競技場のスタートラインに両手をついた。目の前には10台のハードルがある。懐かしい光景だった。ただ、スタート位置が100mの出発位置だった。そしてハードルがやたらと低いという違いはあった。


「昼休みは先生たちのレースが伝統だから。弁当食う前に降りてきてよ」

「今年はハードルするから。勝負するぞ!」


陸上では何年も先輩にあたる数学の山下先生に挑戦された。この学校で陸上部を指導する山下先生はフィールド種目を専門にしていたというのだから、ハードルを得意にしていた北田先生は負けられないと思っていた。こんな風に生徒の体育大会の合間に先生たちのレースを組めるだけでも生徒指導に余裕のある学校だということがわかる。おまけに久しぶりにハードルを跳べる。なんて恵まれた学校に来たものか。北田先生は何日も前から待ち遠しい思いでいた。それは、小学校の頃に運動会を待ち望んでいた気持ちと同じだった。


 午前の部が順調に消化し、昼食時間をはさんで午後の部が始まるのに先立って8人の先生方がスタートラインに集まった。山下先生の他には、若さいっぱいに毎日はしゃぎまわっているような北沢先生。そして、サッカー部の町田先生と現役のサッカー選手だという斉藤先生。今年新卒で入った菅野先生はスキーが得意だという。水泳選手だった荒井先生とバスケの名選手だったという高山先生もいた。部活動を持っている先生方の中でも最も動けそうな先生たちが集まったようだ。

 負けられない。というより、普通にやったら負けるはずはないと北田先生は思っていた。ほんの何年か前までは現役でレースに出場していたのだ。野球とは違って、ここは自分の守備範囲だった。


生徒のレースと同じようにスターターの酒井先生がピストルで合図をくれた。ちょっと短すぎるタイミングに合わせてスタートを切り、一台目を越えた時には前に誰もいなかった。狭いインターバルと低すぎるハードルにリズムを取れないけれども、何年もかけて作り上げてきた走りの形はまだちゃんと残っていた。3台目4台目と徐々にスピードが上がってきた。


 スタンドの生徒たちから大きな歓声と笑い声が聞こえてきた。


誰かがハードルを倒したのかもしれないし、リズムをとれずにハードルの手前で止まったのかもしれない。もしくは、走り高跳びのように一台ずつ跳び上がってハードルジャンプをしている先生がいるのかもしれない。スタンドの反応から北田先生はそんなことを想像しながら最後のハードルを越え、係生徒が白いテープを張ってくれたゴールへと向かった。


 ゴールを通過するときには係生徒たちも大きな口をあけて笑っていた。


ゴールした北田先生が振り返ると、新卒の菅野先生が高々と跳びあがって9台目のハードルを越えようとしていた。が……、ほかの6人の先生たちはスタート地点で大笑いしている。手を振っているのは山下先生で、手を叩いて何かを叫んでいるのは北沢先生。それに合わせるようにスタンドの生徒たちも拍手で応えている。

 菅野先生が腕を大きく振って今ゴールした。そこで初めて北田先生は気づくことになった。このレースは新人の歓迎儀式だったのだ。サイレントトリートメントという言い方で、アメリカの野球中継で見かけることもあるように、あえて無視してしまったり、笑いの対象にしたりして歓迎するやり方だ。これをやられて初めて本当の仲間になれるという儀式のようなものだ。


 イジメるとか、イジられるとか、からかいとか、いろんな言い方がある。が、これはむしろ互いに笑いあえる仲間になろうぜ、というぐらいの気持ちを表した仲間入りのセレモニーだった。

 北田先生はスタンドの生徒たちの大笑いと大げさな拍手にしっかり乗って両手を振ってこたえた。ここはしっかり笑いものになってしまう方がいい。まだ肩で息をしている菅野先生と肩を組み、二人で手を振りながらスタンド下にある役員席に戻った。菅野先生は何が起こったのかまだ呑み込めていないようだった。それでも、スタンドからの大きな声援に満足したような顔をしている。


山下先生が手を叩きながら出迎えてくれた。

「やってくれますね」

「やっぱ、うまいね先生」

「本気かと思ってましたよ」

「いやいやこれも伝統でね」

「へー、山下先生が作った伝統でしょう」

「ははは、……そうね。でもさ、これで北田さんは全校の有名人になれたじゃないですか。ああ、菅野先生もね」

「いや、北田先生本物なんですね。全然相手になりませんでした」

「インカレ出てんだから当然でしょ」

「インカレ! そうなんですか。北田先生すごいんすね!」

「いやー、まあ、なんとか。野球よりはうまいと思うよ」

「そうですか、インカレだったんですか」

菅野先生は、なぜかずいぶんとショックを受けたような言い方だった。


「菅野さんさ、本気で勝とうと思ってたんだ」

「いや、やっぱ、一番若い僕としてはスポーツで負けたくないなーと思ってますからね」

「それはー、まあいい心がけだけどさ、残念だけど北田先生にスポーツでは勝てないから。別なもので勝負した方がいいぞ」

「いやー、ほんとに、すごいっすね」

「こんなのたいしてすごくないって。頭悪いしね。走ることくらいしか取り得がないってことさ」

いつまでたっても本採用になれないみじめさが表れた言い方だったかもしれないと北田先生は思った。このころは本当にそんな劣等感にさいなまれていた。


「まじな話さ、北田さん、これで陸上部のあこがれの人になっちゃったみたいだよ」

「何言ってんですか」

「いやいや、ほら、ハードルセットしてる陸上部の部員たちの喜びよう見てみなよ。あの子たちは二年生と三年生の女の子たちでさ、ハードルで苦労してんだわ。いい見本見せてもらったと思うよ。明日からさ、教えてもらいに押し掛けるぞきっと」

「すごいっすね。北田先生。野球部なのに陸上部の人気者になっちゃいますね」


「菅野さんだってほら、スタンドの自分のクラスの生徒見てみなよ。ものすごく喜んでるっしょ」

「北田先生見てんじゃないですか」

「違うよ。あんたの走り見てたんだよ。自分の担任がどんなふうに走るか気にしてたんだよ。絶対」

「そうですかねー」


 山下先生の語調が大きく変わった。

「あんたはさ、多分今までね、生徒の前でさ、弱みだとか失敗することとか見せてないでしょ。だからね、生徒の方もさ、ちょっと近づきにくい面があったんでねえかなー。特に一年生の女の子はさ、優しく扱ってくれてた小学校との違いもあるからね。なんかちょっと離れ気味だったっしょ」

「そう、そうですね。そう思います。なんでわかるんですか」

「だってさ、中学校に入って初めての担任がさ、若い男の先生でね、いっぱい興味と期待もってやって来てんだよあの子たちもさ。だけどその先生がね、いっつもいっつも立派なことばっか言ってたり、やってたりしたらね、なんか取っつきにくいって感じちゃうんじゃないかい」

「…そうなんですか」


 山下先生の言葉が冗談では終わらなくなっていた。

「だからさ、へたくそなハードルだけど最後まで一生懸命走ってた担任の姿見てさ、安心したと思うんだ。というかさ、なんか親近感わいたんじゃないかー。きっとさ、学級戻ったらあの子たち今日のこと話しに近づいてくるぞ。チャンスだろ」

「そうですか?」

「あのさ、あんまりカッコつけなくっていいから。相手は中学生なんだからね、何と言っても子供なんだよまだ。自分と同じ捉え方はしないと思った方がいい。気取らない言葉でさ、話せばいいんでないかい」

「……そうですか……」


 菅野先生は未熟な自分の内面を見透かされてしまったと感じたか、恥ずかしいような、悔しいような表情をしていた。

 

 北田先生には彼の立場がよく分かった。臨採ではあったが、自分も同じような経験をしたことがあると思い出していた。と同時に、このハードル競争は菅野先生のために設定されたものに違いないと考え始めた。ハードルが得意な自分を引き込むことで、山下先生は同じ学年の菅原先生に伝えたいものがあったに違いない。

新卒一年目の先生が、初めから学級経営をうまくやれないことなどみんな承知の上だった。学年全体でその部分をカバーし補いながら彼を成長させたいと考えていた。その一つのきっかけがこのハードル競争だったのではないか。


 菅野先生は高校時代から優秀な成績で学生時代を過ごしてきたらしい。地方出身の北田先生にはよくわからなかったが、札幌の有名な進学校から国立大学を経て中学校の教員となった菅野先生は学力的にはかなり優秀なのだという。教員採用試験にいまだに合格できない自分とは頭の出来が違うのだろうと北田先生は思っていた。けれども、それこそが中学校の先生としての弱点になりうる部分なのじゃないだろうか。

 わずかな経験しかないけれども、人より多くの学校を渡り歩いたことで、それぞれの学校で活躍するいろいろなタイプの先生方を見て来た。それゆえに気づいたこともあるのだ。


 日本人は特別な何かがない限りみんな中学生を経験して大人となっていく。ということは見方を変えると、日本人のすべてのタイプの人々が中学校には居るのだといえる。その中で、菅野先生のような学力優秀な生徒はほんの一握り。おそらく学級に一人か二人。40人ほどの学級の中で圧倒的に多くの生徒たちはそうではない。優秀な生徒をうらやましいと思いながら生活している生徒の方が多いはずなのだ。劣等感を覚えている生徒だってもちろんいるだろう。


自分の学級の先生が優秀なのは誇らしい面もあり、反面なんだか身近でない気持ちもある。自分とは違いすぎる世界にいると感じる生徒もいるだろう。やっぱり自分の気持ちなんか伝わるはずはないんだ。そう思わせてしまうこともある、……そういうことなんじゃないだろうか。


教育の世界に優秀な若い先生たちがやってくる。それは本当に素晴らしいことだ。けれども、それは同時に、彼らが自分の生きて来た「世界」がどこにあったのかということをしっかりと認識していることが大切なのじゃないだろうか。


 教室の中で大多数を占めるだろう「優秀な頭脳」とは言えない生徒たちをちゃんと把握して導いていけるかどうか。決して恵まれた生活をしているとは言えない子供たちがたくさんいる。そのことをちゃんと理解して「大人の先生」としての役目を果たすことができるのか。

 そういうことがより良き教師となるための大きな課題なのかもしれない。世の中のすべての生き方を熟知しているはずなんかない教師たちが、精いっぱいの努力と苦い経験から……、生徒たちに対しての接し方を身に着けていく。恵まれた生活しか経験してこなかった教師がその部分をしっかりと理解して準備した結果でなければ、学級の生徒たちとしっかりした関係を構築するのは難しい。


 じゃあ、エリートではなかった先生はすぐに上手くいくのか言うとそんなはずはなく、むしろそれ以上の努力と準備にかけた時間に比例してやっと何とかうまく出来るようになるものなのではないだろうか。小さなころから頭脳明晰で生きて来たエリート先生だからこそ、私たち以上に上手にその準備を構築できるはずなのだ。


 山下先生が言いたかったのはそういうことなのじゃないか。そして、そのことを伝えたいがために自分をうまく利用してくれたのだと北田先生は感じていた。こんな風に自分のことばかりでなく、学年全体、学校全体のことをしっかりと考えられる先生も多くいるのだ。山下先生はそんな先生だった。


 そしてこの日以来、山下先生が予言した通り、陸上部の何人もの選手たちが北田先生にハードルを教えてもらいに来ることになってしまった。野球部から離れられない北田先生はそれ以来、野球部員たちの冷めた目を感じながらグラウンドに出ることになってしまったのだった。

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