第10話 ベンチは俺に任せとけ~たった九人の野球部員~

弱いチームを劇的に盛り上げてしまう奇跡のようなスポーツドラマは数多くあった。でもそれは本当に奇跡のようなことで、絶対にあり得ないとは言わないが、実際には「あることが難しい」


例えば野球。9人ぎりぎりの人数でも強いチームになりたい。でも、それはかなり難しいことで本当に「あることが難しい」ことだ。12人しかいないチームが甲子園で活躍して驚かれたことはある。しかしそれは未だかつてない快挙であり、それ以降もないことなのだ。ましてや、試合ができるぎりぎりの人数である9人しか部員がいないとなると、なにをかいわんやだ。たとえ中学校の軟式野球とはいえ、学年ごとに10人以上は部員がいる他の学校と勝負するわけにはいかない。しかも、12人で甲子園出場したチームには素晴らしいピッチャーがいたのだ。たった9人の選手達がそろって目を見張るような選手だったら、という夢を見ることがないわけではないが、そんなことはあり得ない。やっぱり「勝てない」チームになってしまうのだ。


1年生と2年生だけの新チームが出場するある年の新人戦のことだ。野球部は全員で9名の選手しかいなかった。いやむしろ、9人の部員が残ったと言って良いかもしれない。引退した3年生は3人しかいなかったのだから、むしろよく9人残ってくれたと言って良い。その学校の部活動結成の原則には、「部員10人以上いること」という項目があった。新しい部活動を簡単には認めないという意味があってのルールではあるが、野球部は部員10名を切ってしまった。廃部になることはないにしても、8人だったら試合に出られない人数なわけです。 

9人の部員でも試合にはみんな出たいので、新人戦には他校と同じように出場することになる。確かに9人いれば試合としては成立する。それでも、中学野球の試合では出場していない部員達にもちゃんと役割があって、それぞれが分担しながら試合を進めていくのだ。

一般的には、ボールボーイ。バットボーイ。得点係。スコアをつける記録係。伝令係。

バットボーイ以外は全て守りの時に必要になる。攻めているときには、ベンチにいる誰かが交代でやれば良いので、なんとかなる。1塁と3塁のコーチャー役も打順の遠い順で組み立てられる。だが、いざ守りに入ると、ベンチには誰もいなくなる。いや、正確には監督以外は誰もいなくなる。スコアをつける練習はした。サインもなんとか出すことはできる。でも、バットボーイもボールボーイも相手チームにお願いすることになる。慣れないスコアをつけながら北田先生はサインも出さなくてはならない。もっとも、サインというものはランナーが出たときに使うことが多いのだから、あんまり出さなくてすむ。そんなに打てるわけではない。 

 

1回表の攻撃。最終回も攻撃ができるからという立派な理由で、じゃんけんに勝ったキャプテンの蒲田が先攻を選んだ。確かに強いチームであれば、リードしたまま最終回の7回を迎えると、後攻のチームには打席が回ってこない。だから、7回に必ず攻撃ができるようにするためには先攻を選べばいい。そうすれば、どんなに勝っていても7回攻撃できることになる。だが、このチームは途中の4回や5回でコールドゲーム負けにならないように心配した方がいいチームなのだ。

 

一番バッターの森田が左打席に入った。

「おい、あいついつから左になったのよ?」

2年生の森田が左打席に立つのを見たことがなかった。

「先生、森田は1番バッターだから左じゃないとダメだからって、小学校の時も1番になったときだけ左で打ってました。」

「打てんのか、それで」

「たぶんフォアボール狙ってます」

「あぁ~?」

北田先生は授業の時の森田を思い出した。そしてあのピント外れの質問の多さが野球でも同じなのだということを知った。

ところが実際に、森田は本当にフォアボールを選んでしまった。左打席で小さく構え前足を小刻みに動かしてタイミングをとっている(ふりをしている)彼に、相手ピッチャーはタイミングを狂わされたに違いない。

 相手の学校は部員数50人を超える強豪校なので、我々の相手をしてくれるのは当然2番手か3番手か、いや下手をすると1年生に経験を積ませるために投げさせるかもしれない。そんな予想通り、ピッチャーは1年生だ。中学入学後の初登板だという。小学校の時に同じチームでプレーしていたという山本が言った。

「こいつ、小学校の時北海道選抜に選ばれた大阪遠征のメンバーなんですよ。」

「ほー、そうかい……」


さすがの期待のホープも、森田のような変則バッターには動揺してしまったらしい。ともかく、サインを出せる場面になった。滅多にない送りバントの場面だ。

 バント練習は春からしっかりやってきた。たとえ9人しかいないチームとはいえ、3人の三年生がいる時でも、今の選手のうちの6人はメンバーに入っていたのだから、その面では強いチームより今の時点では経験値が高いはずだ。と、北田先生は考えていた。

 2番の小林は、中体連でもバントを一つ決めている。ただ、相手も100パーセントバントと決めつけている。極端なバントシフトをしいてきた。こうなるとエンドランかスチールのサインを出したいところだが、それをやるときっと自滅する。奇をてらうと失敗する確率はうんと上がってしまう。ここは絶対バントだ。

 どのタイミングでバントをするか。それが監督としての腕の見せ場であり、反面、恐怖の瞬間だ。まずは、初球は様子を見させることにする。「待て」のサインを出した。


この日のサインのキーは帽子のつばを両手で触ること。つまり、サインの組み合わせの中で、両手がツバに触った後に出されたサインが本物になる。バントは右手で膝、ベルトに続けて触ること。だから、バントのサインが実行されるためには、両手の動きの中で、帽子のつばに左右の手が触れ、そのすぐ後に膝、ベルトと右手が動けばサインの成立である。

 バッターボックスを外した小林と一塁ベース上で片手をあげた森田が北田先生の動きを注視している。二人ともアンサーサインとなる帽子のつばに手をやった。これでサインは伝わったことになる。初球は「待て」のサインである。ところがセットポジションから相手のピッチャーが左足を上げた途端に一塁ランナーの森田が全力のスタートを切った。

「おいおい!」と思うまもなく、バッターの小林は外角に大きく外れたボール球を打ちにいった。空振りしてくれれば良かったものを、器用な小林は外角いっぱいのボール球をしっかりとバットに乗せた。が、力の差は大きかった。非力な小林のスイングはボールに押され、力のないハーフライナーとなって一塁手が難なくキャッチした。そのとき、一塁から見事なスタートを切った森田はもう二塁ベースに向かってスライディングしようとしていた。ハーフライナーをとった一塁手がベースを踏んであっという間にダブルプレーが成立してしまった。

「なんでスタートきったのお前!?」

「どうして打ちにいったのさ、お前は!?」

「サインは何だった?」

「盗塁です」と自信満々の森田。

「エンドランでした」こちらも堂々の宣言はバッターの小林だ。

「今日のキーは?」

「ベルトです」と森田。

「左肩」という小林。

「それは昨日のと先週のだな……」


もうここまでで疲れ切ってしまった。ベンチ前でこの二人の話を聞いているうちに次の三番バッターがなんともあっさりと三球三振で1回の表の攻撃が終わった。ノーアウト一塁からたった4球でチェンジになってしまった。

 その後、立ち直った相手ピッチャーは1年生ながらたいしたもので誰も打ち返すことができず、ノーヒットのまま試合は終了してしまった。キャプテンが望んだように7回までしっかりと攻撃はできた。しかし、中体連だと4回コールド負け相当の試合だった。サインを出すチャンスも1回表のあのときだけであった。

 9人のチームは、人数の少なさ以上に、何か別のものから鍛えなきゃいけないのかなー、と感じさせるメンバーたちだった。人数が少ないということはただ単に数の問題だけではない。競争意識だとか向上心だとか、相互に刺激し合う何かがかけてしまうのかもしれない。


 中学校の部活動に何を求めれば良いのか。そのことに対しては様々な意見が飛び交い、その問題点が指摘され始めた。だが、今問題になっていることが最も重要なことなのだろか? 

いわく、練習のし過ぎ。

いわく、教員の過重労働。

いわく、勝利至上主義。

学校生活の一部としての部活動は、授業時間や諸活動の時間との関わりを抜きにしては考えられない。そう、部活動は学校生活の中にあるのだ。そのことが一番大切なことなのではないか。学校が集約して、ただ単にスポーツに関わる時間を設定してあげるという形があればそれで良いのか? 教師の過重労働を防ぐための措置を考えていればそれでいいのか?

それは違うんじゃないだろうか。例えば外部指導者が主体として部活動に携わることが多くなったとしよう。それって、サッカーや野球のクラブチームと大して差がないようにしか思えないのではないですか。学校でやるからこそ運動の習慣が広がるし、手軽に部活動に参加できる生徒だっているはずだ。学校の活動としての部活動が存在しなくなったら、中学生たちの運動に参加する人数は激減するのは目に見えている。


部活動を学校生活の一部として考えたとき、学校生活での求める姿を、部活動をすることでも求めることになる。学校での授業や諸活動や掃除や給食当番と同じ視点で、部活動の時間を考えることになる。だからこそ、学校の一致した方向性が保たれるのではないか。サッカーだけしっかりやっていれば、野球の練習にはしっかりと取り組んでいるから……。それだけで終わりにしてはならないのだ。教育という範疇でやっていることだからと縛りを強くするつもりで言っているのではなく、学校生活の中に位置づけられた部活動が他の活動に優先するものでもないし、別々に切り離されたものではないということなのだ。

 

野球だけできる生徒がいた。この子はとてつもなく野球がうまく運動能力も飛び抜けている。けれども学校生活に意味を感じていないから、授業や共同作業や仲間作りなどはまったく無視している。野球の能力の高さは結果が示すとおりに素晴らしいものだったので、全国的に認められ、高校野球の名門校やプロの道へと進んでいった。ところが、人との関係などお構いなしの生活を続けてきたわけだし、学習に向かう気持ちなど全くないまま過ごしてきた彼が、果たして一般の大人として扱われる世界にやって来たときにうまくいくのだろうか。結果は、限りなくノーというしかないだろう。人としてのコミュニケーション作りや人としての望ましい精神構造を鍛える時間を持たないまま学校生活を送ってきたのだから、どこかの時点で破綻をきたすに決まっているのだ。


さて、部活動をこれからどうしたらいいのだろう。実は、新しく中学校の教師になろうとする学生達の中にも部活動を一生懸命に指導してみたいと思っている学生達が少なからずいる。それを負担と考える以上に、楽しみとして捉えている人がいるのだ。その人達の中には、自分が学生であったときのことを逆の立場として考えられるようになった人たちも多いのだ。


 学校の先生たちの数を増やすことはできないのだろうか。担任の先生の手から事務仕事を切り離すことはできないのだろうか。いずれも人件費の問題が絡んでくることが大きなネックになっている。小学生や中学生の子供たちは日本の未来を作る存在だ。と、今までに何度も耳にしてきた。ならばなぜ、未来の日本に投資しないのだろうか。教育に金をかけることは未来に投資することに他ならない。諸外国の制度をまねて授業時間も履修事項も変えてきた。でも、変えなかったことがある。それは、少人数教育と教員数の増加。

小学校で英語を教えることにしたって、プログラミングを取り入れるにしたって、加重労働時間の問題にしたって、現有戦力で戦えと言っているに過ぎない。プログラミングの専門家を一人入れればそれで済むことじゃないのかな。小学校に英語専科を設定すればいいのじゃないかな。今いる先生たちに準備しなさいということが大きな間違いなのだ。

 

私たちがこれから考えるべきことは、目的を達成するための方法手段を冷静に現実的に考えることでしかない。


 9人しかいない弱小野球部を素人で経験不足の北田先生が強くするためには、北田先生自身の勉強と準備は欠かせない。そして、それをバックアップするだけの学校体制も欠かせない。

部活動は生徒たちの楽しみの場であり、大きな成長の場なのです。未来の日本を作る子供たちをしっかりと成長させるための命を受けた中学校なのですから、自分の立場や利益のためではなく、地域や国とともに大人たちがしっかりと最善を尽くすべきなのです。

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