第11話 ロッキーのテーマをやってくれ
子供達は映画が好きだった。平成時代になり、テレビでロードショー番組が増え、ビデオ店が増えて映画が身近になった。ところが、映画がテレビやビデオで見られるようになって身近になったが故にかえって、映画に目が向かなくなってしまったようだ。
家にいながら有名作品が見られる環境は、大変恵まれた素晴らしいことではないか。そう思っていた。ところが、簡単に見られるようになったことがかえって「映画を見に行く」という大切な行動をなくしてしまったのかも知れない。映画館に出かけていって、映画を見るという非日常的な経験であるイベント性が消え、長い時間並んでまで見たという記憶の深さも薄れてしまった。暗く広い館内で、大きなスクリーンからやってくる映像や音に、互いに誰だかわからない観客達が一体となって興奮した記憶がなくなってしまった。
そうやって映画を見るという特別な時間が、日常のごく普通の時間に格下げされてしまったような気がしてならない。友達と一緒に見た映画の記憶というのがいつまでも残っている、なんてことはなくなってしまったのではないか。そして、家にいながら映画を見ることができるということは、気楽に見られる映画が増えているということでもある。つまり、テレビドラマとの差が薄れてきているということだ。深い思いに浸って考えてしまうことない軽い作品に人気が集まるということだ。
新作映画が一年もしないうちにビデオやDVD化されてしまう今は、まさにその極みにあるようだ。子供達に名作だといわれている映画の話をしても全く通じなくなった。ジブリと漫画を原作とするアニメだけが彼らの映画の範疇であるようで、今やもう完全にテレビコマーシャルに載った作品以外は目が向けられなくなった。そして子どもたちの話題に上るのは、米国作のSF大作とディズニーとジブリの作品以外は、アイドル達を総動員した、見ている方が恥ずかしくなってしまいそうな幼く少女マンガチックな恋愛映画だけで、それが大ヒット(?)したから良い映画だと大騒ぎしていることになおさら恥ずかしさを覚える。
スタローンのロッキーやランボー、ハリソンフォードのインディージョーンズ、そして、バックトゥーザフューチャーなど本当に胸をわくわくさせる作品が少なくなってしまったのも原因なのだろうか。感動できるもの、見入ってしまうものとしての作品に対する我々が求めているもの自体が変わってしまったのだろうか。ストーリーの話題性や俳優の個性や人気だとか撮影方法の特殊性だけが問題にされ、ラストシーンに込められたメッセージだとか強烈な余韻をもたらす工夫だとかが重視されなくなってしまった。
ピンクパンサーシリーズでクルーゾー警部役をやった、ピーターラーズ主演の映画「チャンス」のチャンシージョーンズが湖の上を歩いていってしまうラストシーンは強烈な暗示を与えてくれた。
「ビューティフルマインド」でラッセルクローにつきまとっていた三人の幻達が、やさしくそして寂しい笑顔で見送ってくれるシーンに胸がうずく。
「グッドウイルハウンティング」でのマットデイモンの友人役ベンアフレックの言葉が、友人という存在の大切さや大人になることの悲しさを伝えてくれる。
高倉健主演の「駅」で、銭函駅を出発した車窓に「円谷幸吉」の遺書がかぶさって流れる。その切なさが車窓から見えている海岸線にも、自分の心にも染み込んでいく……。
本物の悲しさとか、本当の美しさ、素晴らしさはこんなことなんだね。
そんな会話がしたくてたまらない。
もう何年も前のことだ。運動系部活動の最大の目標である中体連が近づく頃、放課後の練習になると必ず「ロッキーのテーマ」を吹奏楽部が演奏し始める。野球部もサッカー部も陸上部もそれが始まるとグラウンドを走り回る。そしてバスケやバドや卓球などの普段は体育館を使っている部の生徒達も、この時だけはあえて外に出てきてグラウンドを走る。気持ちを高めてくれる音楽は映画として見た感動からやって来るのだ。
毎年修学旅行が終わりこの時期になると、グラウンドで土にまみれる三年生達は吹奏楽部にお願いをする「そろそろロッキーのテーマをやってくれ」と。そして、彼らは残り少ない中学生としての部活動で仲間と競い合うことになる。
映画は人の心にいろいろな思いを残してくれる。それが深い悲しみであっても、人生へのアドバイスであっても、長い間人の心の中にとどまってその人の人生のどの部分かを変えることになる。「映画って良いな」とそう言う話をしたいものだ。それは人生を語ることになるし、人の生き方を知ることにもなるのだから。
自分たちの一度しかない人生を、どうやって豊かにしていけるのか。そのための方法はたくさんあるのだろうが、学校の授業だけで事足りるものではない。実体験できないものであるからこそ大切なものなのだ。
土曜日がまだ半日授業をやっていた頃、中学校では「芸術教室」だとか「芸術鑑賞」などという名前で、いろいろな「鑑賞授業」を行っていた。映画の鑑賞もそうであるし、地域の交響楽団の演奏会や民族舞踊や演劇などを見に行ったり、体育館に呼んだりしていた。本物を見たり聞いたりする機会が少なからずあったのだ。
「南極物語」を見に行くのにハンカチを3枚も用意して、大きなスクリーンに映し出された白一色の雪と氷の世界に繰り広げられる犬と人間とのドラマに涙した女の子達もたくさんいた。
「鉄道員(ぽっぽや)」で高倉健の立ち尽くす姿に中学生達がむせび泣くのだ。
舞台は小さな市民ホールでも、本物の役者が演じる「モモ」の時間泥棒達の発声方法に聞き入った男の子達もたくさんいた。そして彼らは次の日からしばらくは腹式発声にチャレンジする。
本物の歌、本物の演技、本物の声、本物の音……。それらを間近で感じられたのだ。もちろんそれは、生徒達ばかりでなく、日頃そういう本物に接することの少ない私たち教師にとっても同じことである。時間を確保し、お金をかけた価値はあったのだと、今でもそのときの子供達の反応や表情とともに思い出すことがある。あのとき、彼らは本当に子どもらしい表情を見せていた。
勉強時間の確保が一番の重大事と考える現代の姿勢は本当に正しいと言えるのだろうか。人としての中学生の成長時期はこんな時間の使い方で本当に良いのだろうか。子供達は日本の未来を作る人たちなのだから、この限られた時間に人としての幅広いものの見方を覚えなければならない。
そして、私たち大人は、限られた時間で、未来を作ってくれる彼らに教え、育み、養う時間を大切にしなければならない。そんな彼らがこのまま本物に触れないまま成長して良いのか。座学に秀でた人間ばかりを作り上げることが本当に素晴らしい未来のためになるのだろうか。良いことと悪いことの判断はいつできるようになるのだろうか。中学生たちは日本人の最後の義務教育年代を本当に有効に過ごさせているのだろうか。
悩みはたくさんある。
中学生の時、みんなで「南極物語」を見たんだ。「交響楽団」の生の音はすごかったね。本物はやっぱりすごいね。そんな思いを共有する時間はもうやってこないのだろうか。
子どもの頃に、本物に触れることのできた体験の記憶がやがて自分の子どもへとつながっていく。子どもが未来を作るという言い方には、大人になった子どもたちが国を造っていくという意味以上に、大人になった子どもたちが自分の子どもたちを立派に育てるのだという意味が込められている。
座学に秀で、プログラミングを学び、週に40時間も50時間もの勉強時間を続けて大人になる子どもたちは、どんな未来を創り、どんな子どもたちを育てていくというのだろうか。文化を継承させ発展させるのが国としての、そして人としての目的でもあるはずで、その継承すべき文化とは座学であり、ITであり、デジタルなものばかりなのだろうか。
人としての生き方の多様性だとか、価値観だとか美意識だとか、そんなアナログなことはどうすればいいのか。
家庭の責任ですか? 道徳ですか? それこそ個人の生き方の多様性ですか……?本当にそれで子どもたちは……。
ロッキーのテーマを聞くとき、薄暗くなったグラウンドを走り回る生徒達の姿が思い出されてならない。そして、あえて音楽室の窓を大きく開けて、グラウンドに向けて楽器を演奏してくれた吹奏楽部員達の楽しそうな表情も忘れられない。
そして、この年になってしまった私も、今更ながら吹奏楽部にお願いしたい。
「そろそろロッキーのテーマをやってくれないか!」
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