第四話 巡り巡って

4ー1「僕と兎」

 ―― 1715年 5月24日 ――



「……い、ル……ーいミ、ル……」


 声が聞こえる。

 中性的な高い声。


「おーいミル! ねえキミ、おーいってばミルっ!」


 体を揺すられている。

 声音からは焦燥を感じられる。


「……ぅ……ぅぅ……」


 その声で目を覚ました僕の視界に映るのは、雲一つない青空と僕の顔を覗き込んでいる淡緑色の小柄な兎。


「! あっ、やっと起きたミル……! ず、ずっとうなされていたから心配してたミル……! 本当に良かったミル……!」


 安堵からか、うわあああん! と泣き喚いている兎をよそに、僕は半身を起こす。

 そして、気が付いた。


「……………………………………………………」


 ――茫然自失。

 僕は起きてからずっと、放心している。

 青ざめた顔は涙を滲ませており、身体中は冷や汗でびっしょり。

 まるで、この世の絶望という絶望を全て味わったような気分だった。

 そして、その理由は目の前に奇妙な生き物がいるからでもなく、滝から落ちたはずなのに生きているからでもない。

 が、心当たりはあった。


「今のは……夢……?」


 ――とてもとても長い、夢を見ていた気がした。

 一人の少女が理不尽に叩かれ……、自分の居場所から追い出され……、気付かないうちに家族を傷つけてしまって…………。

 果てしない孤独を味わった末に、あるきっかけを境にようやく少しでも変わろうと思い始めた途端、また絶望が襲い掛かってきて…………。


「夢?」


 兎が首を傾げて訊いてくる。


「そう、夢……でも夢にしては起きた今でも鮮明に覚えていすぎてて、なんだか変な気分だよ……。――それに、とてつもない悪夢だった……」


 僕の言葉を聞いた兎は少し考える仕草を見せた後、「それは多分」と呟いた。


「……キミが見たのは夢じゃなくて、《記憶》ミルね。《リダヒシ》に入ったときにその対象者であるヒャリナの記憶を見ていたミル。それにその《記憶》、ミィもさっき見たミル……」


「りだ、ひし?」


 そういえばさっきこいつがその言葉を放った途端、滝から落ちる直前の僕たちの目の前に謎の空間が現れた。

 あれは結局何だったのだろう……?


 兎は、ミル、と頷く。


「《リダヒシ》はキミもヒャリナの《記憶》を見たならわかると思う千世録せんせろく――《ギミルマ》。それの対象者が人生で最も強く印象に残った時間に戻ることが出来る扉ミル。要は《ギミルマ》の補償みたいなものミルね。……でもまさかこんな使い方をする羽目になるとはミィも思ってすらいなかったミルけど」


 ははっとこの兎は苦笑するが、僕はそれどころではなかった。


「って、おいおい……ということはまさか……」


 兎はこくりと頷き、両手を大きく広げて言い放った。


「ミル、そうミル。!」


「はああああ!?」


 大声を上げながら跳ね起きてしまった。

 さっきまでの会話からしてもそんな気はしていたが、いざ言葉にされるとそう反応せざるを得なかった。


 慌てて辺りを見渡す。

 鬱蒼とした森に囲まれている、水のカーテンのような大滝が視界に映る。

 そして僕たちがいるのは、そんな大滝の下にある、湖のように大きい滝つぼに接する岸だった。

 二度目となる見上げる角度になってしまった滝口へと視線を向ける。

 僕はあの大滝から落ちてきて……。

 でも、本当にここは三百年前なんだろうけども、現代にも人工物なんてなかったし、


「そう言われても、あんまり実感湧かないな……」


 と思った。

 ……というか。

 さっきから当たり前のように会話しているけれど。


「……って、その僕が見た《記憶》の中にもお前はいたんだけど、名前は確かミミィル……だっけか? お前は一体何者なんだよ」


 目の前にいる《記憶》の中でミミィルと名乗っていた生物に矯めつ眇めつ問う。

 頭から伸びた二つの長耳。

 ちょこんとついている小さくて真ん丸な尻尾。

 淡緑色の毛皮を被り、つぶらな碧い瞳をしているこいつは、どこからどう見ても兎だった。

 それと、滝から落ちる前は紫がかっていた左手の葉っぱ模様はなくなっている。


「え? ミィ、ミルか?」


 ミミィルはキョトンと自分を指す。


「それは――」


 ミミィルは急に表情を真剣な面持ちに変えて、勿体ぶるように間を空ける。


「そ、それは……?」


 その重々しい雰囲気に影響されて、ごくりと固唾を吞む。

 が、ミミィルはさっきまでの表情とは打って変わって、満面の笑みで、


「自分でも分からないミル!」


 てへっと頭に手を当てて、舌を出した。


「わからないのかよ!?」


 あまりの拍子抜けに思わずツッコミを入れてしまった。

 ミミィルは興奮した僕を両手で宥める身振りをしながら話題を変える。


「まあまあ、ミィのことなんて置いといて。――それじゃあさっそくキミを三百年後に戻すミルね」


 ミミィルの淡く光出した左手が僕に触れようとしてくる。

 僕は嫌な予感がしてそれを慌てて避ける。


「ま、待ってくれよ。ここが三百年前ってことはあの記憶の中で見た最後の……村がめちゃくちゃに壊されていたのは一体いつなんだよ……。もしかしてもう過ぎちまったのか……?」


 ミミィルは、うーん、えーと、と考える。


「ミィもヒャリナの記憶の中で見たことしか分からないミルけど……おそらくそれは今日か明日のどこかで起きた出来事ミルね。今の時刻が午後一時三十分。つまり今ヒャリナは深山の山小屋でチヨハって子の遊び相手になっている頃ミル」


「今日か明日!? もう時間がないじゃないか!」


 思わず怒鳴ってしまった。


「ミル、そうミル。でもまさかミィが眠っていた間、そんなことになっていたとは……」


 ミミィルは、はあ……、と深くため息を吐いて、視線を地面に向けた。


「ヒャリナの心は、元々長年に渡り傷つき続けてひびだらけの硝子のように脆くなっていたミル……。そしてそんな状態の時にあの村の光景を見てしまったことをきっかけに、ヒャリナの心は完全に壊れてしまったようミル…………」


 ミミィルは悲しげに語る。

 長耳も二つともしぼんでしまっている。


「《ギミルマ》は、身体は不死身になるミルけど精神は普通の人間と変わらない……だからその結果、精神的ショックに耐えられなくなったヒャリナは心が破裂パンクして、感情と意思を失い、空っぽな人間になってしまったミル……」


 あの生気のない虚ろな目、常にボーとしているようなおぼつかない足取り、僕の言葉に反応しない理由。

 僕は現代で出会った彼女のことを思い出して色々と合点がいった。


「本当に、ヒャリナには申し訳ないことをしてしまったミル…………」


 ミミィルは分かりやすく気を落としている。

 そんな気持ちを切り替えるように、ミミィルは僕に視線を向けて、改めて淡い光に包まれた手をこちらに伸ばしてきた。


「ミィは今からそんなヒャリナの未来をどうにかして変えるミル。だからもうあんまり時間が残されていないミルからキミには早く現代に戻ってもらって――」


 ミミィルの小さな手がこちらにゆっくりと迫ってきた時――


「――ならそれ、僕も協力させてくれないか?」


 僕は告げた。


「……え?」


 ミミィルは僕に触れようとしていた手をぴたっと止めて、目を見開いた。

 左手を包んでいた淡い光も収まっている。

 その隙に僕は自分の意思を語る。


「難しいことはよくわかんないけど、とにかくお前は僕を助けてくれたんだろ? だから、借りは返したいんだ。それに――」


 僕は力強く拳を握って真剣に言う。


「それに僕もお前と同じで彼女の悲痛な過去を見てしまったんだ。そしてなにより、この目で見たんだ。彼女が三百年後、狼みたいな獣に食い殺されているところを……。そんな光景を見てしまって……そしてそんな未来を変えるチャンスがあるっていうのに、のこのこと現代に帰るなんて冷めた真似、僕にはできないよ。――だからむしろ、僕にできることが少しでもあるなら、手伝わせてほしい」


 僕は目の前にいる、僕の膝の更に半分くらいしかない兎に頭を下げた。


「……ホントミルか? ホントに協力してくれるミルか?」


「ああ」


 僕は顔を上げて、一人で思い詰めていたミミィルに向かって、頷いた。

 

「……確かに協力してくれる人がいる方が助かるミル……。ミィの能力的にも……ミル、わかったミル」


 ミミィルは顎に手を当て少し考えた末、僕を見上げて、もう光っていない左手を差し出した。


「改めて、ミィの名前はミミィル――ミル。それじゃあこれからよろしくミル」


「僕はアトタ。こちらこそよろしくな」


 僕たちは表情を緩めた。

 僕は屈んで、ミミィルと握手を交わした。

 こうして僕とミミィルは同じ目的を果たすため、仲間となったのだった。

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