2ー5「始まり」

「…………」


 目を覚ますと、私は滝つぼに接する岸にいた。

 水面には幾つかに砕けた小舟が浮いている。

 私は半身を起こし、自分の身体を確認する。



 ――無傷、である。



 滝つぼに身を乗り出し、水鏡に顔を映すが、身体同様――無傷。

 頭を整理するために、私はとりあえず立ち上がる。


「痛っ……」


 その時、傍らにあった岩の先鋭に気付かず、片腕をぶつけてしまった。

 その箇所から、血が垂れてくる。

 よく見ると、皮膚が痛々しく擦り剥けており、小さ目ながらも傷口が開いていた。

 ああ、やってしまった、と私はため息を漏らす。


 けれど、途端。


「――っっ!?」


 ――

 ――

 ――

 腕に垂れ、いずれ染みてしまうだろうと思っていた血までなぜか、蒸発するかの如く、消滅していく――

 そして数秒の間で――

 傷跡、血跡、一切残さず。

 と、思ったが――いや、訂正しよう。

 地面に一滴だけ落ちてしまった血は残っている。

 消滅するのは治る間に、自身に付着している血のみのようだ。


 ――けれども。


 この血があれば、島を――モカを救うことができる。

 私は歩き出した。

 ミミィルの話が確証、そして確信に変わった今、一刻でも早く、薬を――



 ○



 私は村に戻り、自分の家――自分の部屋へと直行した。

 その間、人に出会ったら、どうしてお前がここにいるんだ、と責められることを覚悟したが、幸いにして誰にも見つかることはなく、無事屋敷に辿り着いた。


 自室には依然として病床に伏したモカの姿がある。

 息苦しそうながらも寝ているモカを見て、私は改めて、自分が弟を救うと決心した。


 私は自分の数少ない医薬知識を最大限に活用し、部屋の端で黙々と薬の調合作業を開始した。

 『調合』と少し大袈裟に言ったものの実際は、決められた分量などあるはずもなく、元々家にあった薬草と水と自身の血を自分の感覚ですり潰し、混ぜ合わせ、樽いっぱいの液状の水薬紛いのものを作っただけなのだが。

 素人の私が勝手に薬を作るなど少々気が引けたが、医者がこの島にいない今、これは致し方ないことである、と自分に言い聞かせる。

 私は樽からまるでスープを味見するかのように、できた自製水薬を小皿で掬い上げ、少し飲んでみた。


 血の味はまだ少し残っているが、それ以上に薬草の苦みが上回っている。

 まあ味は置いといて、とりあえずこれで――完成だ。


「……モカ、少し、起きられる?」


 寝ているところ申し訳ないけれど、私はモカの体を揺する。


「……うぅ、何……? お姉ちゃん……」


 起こされたモカはまだ目が完全に開いておらず、意識が朦朧としている。

 私は片腕でそんなモカの上半身を支え上げ、もう片方の手で薬を汲んだ小皿をモカの口元へと近づける。

 私は小皿を少し傾け、そしてモカは流されるまま――薬を口に流し込んだ。

 

 ごくり、と飲み込んだ音を聞いた私は、思う。

 これで自分に出来ることは終わった。

 あとは本当に祈るだけだ、と。



 ―― 1015年 5月25日 ――



 翌日。


「お姉ちゃん外で遊んでくるー!」


「はいはい、森の方にはいかないのよ」


「うんわかった~!」


 快活に言いながら外に駆けていく様子を見てわかるように、モカの病は――完治した。

 たった一晩で、だ。

 昨日までの憔悴したモカの面影は一切なく、朝起きた時からこの調子。

 この薬が却ってモカの病状を悪化させてしまったらどうしよう……、と昨晩散々懸念したが、それは杞憂に終わったようだ。

 著しく元気になった弟を見て、私は心の底から、本当に良かった、と思う。

 肩の荷が下りたことで、ほっと胸を撫で下ろす。


「あ……」


 私は唐突に思い出した。

 そういえば、弟のことで頭がいっぱいで、忘れてしまっていた。

 絶対に忘れてはいけないモカ、そして私の命の恩者の存在を。



 ○



「あった……」


 早二時間、ようやく見つけた。

 散々滝つぼの水中を探したけれど、まさか岸で私がぶつかった岩の裏にあったとは。

 私は両手に抱えている一本の剣に視線を向ける。


「これが、あの兎……?」


 あの時、多分……いや、ほぼ間違いなくミミィルは、この鞘に収められた剣に姿を変えた。

 そんなことがあり得るのか――なんてことは今更思わない。

 私はミミィルの言葉を回想する。


『了解ミル! あっ、ちなみにこれからの千年間、ミィは千眠の《ウヨリンサ》って状態になるミルからミィのことは気にしなくてもいいミルよ!』


 あの時は咄嗟のことで全く理解できなかったけれど、改めて考えてみると、そう難しいことは言っていなかったのかもしれない。

 ただ、自分は千年間この剣に姿を変える、と言っていただけだ。

 私だけが代償を伴うと思っていたけれど、まさかミミィルまでこんなことになってしまうとは……。

 先に言ってくれれば良かったのにと思ったけれど、ミミィルはこう考えていたのだろう。

 それを言ってしまったら、彼女はきっと物凄く選択に苦悩して、手遅れになってしまうかもしれない……、と。

 ミミィルは気にしなくていいとは言っていたものの、どうしても頭の中に罪悪感がよぎってしまう。


 私は鞘を握る両手に力がこもる。

 先程も言ったが、ミミィルはレレーフォル姉弟の命の恩者だ。

 私にはこの剣を無事に守り抜く責任がある。

 これからの――千年間。

 そして千年後、私はミミィルに謝罪と、あの時言い逃したお礼を伝えようと思った。



 ○



 後日。

 案に違わず、病のせいで死滅の危機に陥っていた島は、私が作った薬によって救われた(深夜こっそり村の中央広場に薬の入った木樽を置いてきたのだが、どうやら島民たちは気が付いてくれたようだ)。

 儀式を無断中断したことで私は島民たちから非難されることを覚悟したが、島民たちの中でも結果的に島は救われたのだからいいか……、といった有耶無耶な雰囲気になり、結果として私に害が及ぶこともなかった。


 モカと村が活気を取り戻した今――ようやく。

 ようやく島には、私には――日常が戻ってきたのだ。

 だがしかし――



 ――



 この時の私はまだ、気付いていなかった。

 いや、思慮が足りていなかったと言うべきか。

 けれど、それも致し方なかったのかもしれない。

 私は――



 この《ギミルマちから》はということを、この時はまだ、理解しきれていなかったのだろう――

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