2ー3「私にとっての弟」

 私に構わず次いで、どれくらい寝てただの、今日の天気は良いだの、そんな今はどうでもいいような独り言を呑気にペラペラと話している兎。

 そんな何故か人語を喋る兎を見て、言葉を失ってしまっている私は一度それから視線を離し、目を閉じ、深呼吸をした。

 その甲斐あって落ち着きを取り戻した私は、もう一度兎に視線を向け、兎の言葉を遮って、少し緊張した声で――問う。

 

「……ねえ、あなた――何者?」


 そこで、初めてこの兎と目が合った。


「――!? うわぁ!? びっくりしたミル!? え、キミだれミル? こんなところで何をしてるミル!?」


「……それはこっちのセリフなのだけど」


 どうやら、というより、やはり、この兎は私の存在に気付いていなかったらしい。

 兎は自分を指し、


「え、ん? ミィ?」


 そして両手を大きく広げ、快活な声で簡潔に答えた。


「ミィは、ミミィル――ミル! ここでお昼寝をしてたミル!」


「……いやそういうことを尋ねたわけでは――」


 私の言葉を遮って、


「うわ、今気付いたミルけど、この舟動いてるミル。キミ、この川は確かあの大きな滝に繋がってるはずミルからこのままだと滝に落っこちちゃうミルよ! 早く岸に戻ったほうがいいミル!」


 ミミィルと名乗った兎は、小舟から身を乗り出して言った。

 この兎はただ純粋に、私に警告してくれているようだった。

 とりあえず、悪者ではないのかもしれない。

 けれど、そんな私のことを心配してくれているミミィルにだからこそ、現状の事実を伝えづらいという気持ちが少し芽生えてしまう。

 私はミミィルからつい視線を逸らす。


「いや、まあ、それはいいのよ。むしろ、そのためにこうしているのだから……」


「え? どういうことミル? まさか、わかっていながらも滝に落ちようとしているミルか……!?」


 ミミィルの表情が一瞬青ざめたが、


「いや~さすがにそれは、ないミルないミル! だってそんなことしたら死んじゃうミルから!」


 すぐに私が冗談を言っていると思ったのか、ないない、と顔の前で手を振って笑顔を見せた。


「それは…………」


 けれど私は笑えない。

 沈んだ表情を崩せない。

 頬を一滴の汗が伝う。

 ほんの少し気まずい間が流れる。

 言葉が見つからず黙っていると、それに気付いたミミィルの表情も再び暗くなっていった。


「え、じゃあ本当に……」


 滝まではまだ少し距離がある。

 ……この状況、どうするべきか。

 この兎に事実を話すべきなのだろうか……?

 いや、互いに無言が続くこの現状、そもそも選択肢は一つしかない気もしてきた――


「――はあ、そんなことミルが……。でも、話を聞くにヒャリナは、この島の神様のことを特に信じているわけではないミルよね……?」


 私は大まかにこれまでの経緯を説明した。

 すると、わかりやすく気分を落としたミミィルが、言いづらそうに訊いてきた。

 

「まあそうね。とはいえ、島のみんなの考え方に、特別否定的な意見があるわけでもないのだけど」


「なら、どうしてミル……。どうして島の人たちのため、結果が実る確証もない儀式に、自分の命まで捧げられるミル……」


 もっともな意見である。

 今からでも考え直してみないか、そんな物言いだった。


「神がいるのかはわからないけど、少しでもモカの助かる可能性があるなら、為した方がいいじゃない。このまま何もしなくとも、モカの病状は悪化していくだけ――どうせ、私にできることなんてもう残されていないのだし」


 私に考えを改めてほしそうなミミィルは、でも……、と口を開いたものの、これ以上無暗に説得を試みても無駄だと思ったのか、口を紡いだ。

 一か八かであり、けれども、もはや、一か八かとも言い難いこの賭け。

 それでも私がこの儀式に参加したのには、明確な動機があった。

 先程までの会話でミミィルはそれに気付いたようだ。

 それは――


「……島のためってよりは、その弟さんのためって感じミルね」


 そう、私の弟――モカの存在だ。


「ええ、そうかもしれないわね」


 私にとってモカは、唯一の家族だった。

 正確な血縁関係を示すとするならば、祖父であるギエも該当していたのだけれど、ギエは島の長としての責務が忙しそうだったし、そもそも甚だしい程の放任主義だったため、孫たちにはあまり関与せず、モカのことは姉である私にほぼ任せきりだった。

 そのため私が普段一緒に生活していた時間は、モカの方が圧倒的に長かったといえる。

 五年前から――モカが赤ん坊の時から、モカのことは私が育ててきたといっても過言ではない。

 故に、姉である以上に、モカの親のような立場に私はいたのだ。

 

 私が認めたことで、ミミィルが、純粋に誰もが思うような疑問を呈する。


「なら、もし仮に、本当にこの儀式が成功したとして、神様に島の危機を救ってもらえたとするミルよ。でも、その場合ミル。病が治って無事生き残ったその弟さんは、ヒャリナが亡くなったことを知って、ものすご〜く悲しんじゃうんじゃないミルか? それも、これから先――ずっとミル」


「っ……、それは…………」


 今まで迷わず答えてきたミミィルの質問に、初めて言葉が詰まってしまう。

 五年前、私は母親を失ったとき、こう思った。

 一人ぼっちになりたくない――と。

 けれど、現在、モカにとって唯一の家族である私がいなくなったら、モカは孤独になってしまう。

 それに。

 これは言うまでもない話だが、五歳のモカが前日まで一緒に過ごしていた、居て当たり前の存在である『家族』を突然失うという絶望は計り知れたものじゃない。

 それは実際にそんな出来事を経験した私だからこそ、より深く――理解しているつもりだった。

 それなのに、私が今しようとしていることは…………。

 そう。

 ミミィルの言葉は、案外図星であった。


 ――それでも。

 もう、決めたことだ。

 私は大きくかぶりを振って、その躊躇を頭から追い出す。

 

「もういいでしょ? そんなことよりあなた、早く逃げなさい。もうじき滝につくわ。巻き込まれるわよ」


「いや待ってミルよ。そう早まらないできっと何か……あっ!」


 ミミィルが何かをひらめいたかのように大声を上げる。

 と、思ったら、……いや、でもこれは…………、と下を向いて小さくぶつぶつ呟き始めた。

 その思いついたことに対してなのだろうか、自分の中で悶々としているミミィルを遮って、私はきっぱりと言う。


「何よ、言いたいことがあるのならはっきり言いなさいよ」


 するとミミィルが、こちらの反応を窺うように、眉をひそめ、上目遣いで覗き込んできた。

 そしてミミィルは、本人こそ自信なさげだし、私を引き留めるための咄嗟の嘘かもしれないけれど――言った。

 


「それが、実はミィなら、ヒャリナに手助けできることがあるかもしれないミル……」

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